第62話 門前の説教
あの晩のあと、若い神官は粥屋に来なくなった。
次の日の晩も、白い衣は坂を下りてこなかった。
その次の朝、門の前には、いつもより人が集まっていた。
巡礼の人たちに混じって、坂の店の主人や女房たちまで、前掛けをしたまま上がってきている。
門の内の石段の一番下に、会計司祭が立っていた。
俺とギンは、人の輪の一番後ろについた。ここまで離れても、あの柔らかい声はよく届く。
「門の外から、神殿の物を数えに来られた方がおられます」
人の輪が、ざわりと揺れた。
「その方は、九千枚を王都へ持っていかれるそうです」
会計司祭は、怒った声は出さなかった。悲しそうに、首を少しだけ振ってみせる。
「九千枚は、皆さまが神様へのお気持ちとして、置いていかれたものです」
「門の前の施しの粥も、病の方の寝床も、そのお気持ちで賄っております」
前の方で、年寄りの女が手を組んだ。
その隣の男が、後ろを振り返る。男の目は、人のあいだを探して、俺の茶色のコートのところで止まった。
「あれだ。あれが歩合取りだ」
男の声で、前の方の顔が、一つずつこっちを向いていく。
ギンが、俺の袖をつかんだ。俺は、その手をそっと外してやった。
会計司祭は、こっちを見もしない。見なくても、皆がこっちを見ているのは分かっているんだろう。
「明日の明け方、大司祭様が門までお出ましになって、皆さまのために秋の祈りをしてくださいます」
「どうか、お心を乱さずに、お集まりください」
会計司祭は手を組んで頭を下げると、門の内へ戻っていった。
人の輪がほどけていくあいだ、俺の前を通ろうとする者は一人もいなかった。どの人も、少し遠回りして坂を下りていく。
巡礼の女が一人、連れていた子供を、自分の体の陰に隠した。
子供まで取り立てやしねえよ。
人の輪の中に、署長の顔は無かった。毎朝あの門で、額に水をつけてもらっているはずの人なのに。
人がすっかりいなくなってから、俺たちも坂を下りはじめた。
「前の方に、巡礼宿のご主人がいました」
ギンが、坂の石畳を見ながら言った。
「丸い顔のか」
「はい。皆がこっちを向いたときも、ご主人だけは、こっちを向きませんでした」
「向けなかったんだろうよ」
「……向かなかったのか、向けなかったのか、あたしには分かりませんでした」
*
署に戻ると、窓口の若い男が、申し訳なさそうに立ち上がった。
「署長は、今朝からお具合が悪いそうで、家でお休みです」
「そうですか」
「熱が、あるそうで」
「熱なら三枚ですね」
窓口の若い男は、聞かなかったことにするように、机の上へ目を落とした。
ギンが、横から俺の脇腹を肘で突く。
「それ、署長さんの前では言わないでくださいね」
「言わねえよ」
昼過ぎに、門前のお守りの店へ行った。
夏のあいだ、神殿から仕入れる箱の数を話してくれた店だ。昼間だというのに、戸が半分閉まっている。
店の主人は俺の顔を見ると、戸の隙間から首だけ出した。
「悪いね、調査官さん。今日はもう、店じまいなんだ」
「明日の明け方、門の前まで来てもらえませんか」
「門の前に?」
「神殿の決めた値で、お守りを箱で仕入れてた。それを、大司祭様の前で言ってほしいんです」
主人は、困ったように笑った。
「今朝の話を、あんたも聞いたろう」
「聞きました」
「わしが神殿の悪口を言ったなんて噂が立ったら、巡礼は一人も、この店でお守りを買わなくなる」
主人は、戸の隙間を少しだけ狭めた。
「夏に話したのは、あんたが神様の物を取りに来たなんて、思ってなかったからさ」
戸が閉まった。
夏にしゃべってくれただけでも、十分ありがたい話なのだ。
坂の下の薬草屋も、同じだった。こっちは、戸を叩いても返事すら無い。
*
夕方、坂の下の宿に戻ると、俺の鞄が戸口の外に出してあった。
宿の女将は戸の内側に立って、俺の顔を見ないまま言う。
「すまないけどね、今夜からは泊められないよ」
「代は、署が月の終わりまで払ってるはずですが」
「返すよ。ほかのお客が、歩合取りと同じ屋根の下じゃ眠れないって言うんだ」
女将は、銅貨を何枚か、鞄の上に置いた。
数えると、払った残りより一枚多い。
「一枚、多いですよ」
俺はその一枚を、戸の内側の床に置いた。
女将は何か言いかけたが、俺が鞄を担ぐ方が早かった。
坂の中ほどまで上ると、巡礼宿の前で、ギンが鞄を抱えて立っていた。
戸口では、丸い顔の宿の主人が、何度も頭を下げている。
「すまないねえ、記録役さん。あんたが署の人だなんて、わしは今朝まで知らなくて」
「すみません。言っておけばよかったです」
「いや、あんたが悪いんじゃないんだ」
宿の主人は、自分の宿の二階の窓を見上げた。
「お参りの人たちがね、明日の祈りの前に、心を乱したくないって言うもんだから」
宿の主人は、俺の顔を見ると、もう一度頭を下げて、戸の内へ引っ込んでしまった。
ギンは、閉まった戸を見たまま、鞄を抱え直している。
そのとき、隣の粥屋の戸が開いて、粥屋の主人が顔を出した。
手には、鍋をかき回す長い木のへらを持ったままだ。
「奥の物置でよけりゃ、藁を敷くぞ」
巡礼宿の戸が少しだけ開いて、丸い顔がぎょっとしたように粥屋の主人を見た。
粥屋の主人は、そっちには目もくれずに、俺に言った。
「燕麦の袋をどけりゃ、二人は横になれる」
「明日の朝、門の前に皆が集まるんですよ。調査官を泊めたなんて知れたら、困るでしょう」
「知れたら、何だってんだ」
粥屋の主人は、へらの先で、自分の店の鍋を指した。
「うちの粥は、腹の減った奴に出してるんだ。誰の腹かなんて、いちいち聞かねえよ」
店の奥から、女房が前掛けで手を拭きながら出てきた。
「一晩、銅貨二枚。朝の粥つきでね」
「安すぎやしませんか」
「藁の寝床だよ。それ以上取ったら、あたしが神様に叱られる」
女房はそう言って、さっさと奥へ引っ込んでいった。
巡礼宿の戸は、いつの間にか閉まっていた。
*
その晩の粥屋には、巡礼の客が四人いた。
俺とギンが奥の腰掛けに座ると、戸口に近い方の二人が、顔を見合わせて立ち上がった。
お椀にはまだ半分も残っているのに、二人は銅貨を一枚ずつ机に置いて、黙って出ていく。
残りの二人も、スプーンを急いで動かして、すぐあとに続いた。
女房は、四つのお椀と四枚の銅貨を、何も言わずに片づけた。
「すみません」
ギンが謝ると、女房は首を振った。
「お代は、ちゃんと置いてったよ。信心深い人たちだからね」
鍋の前の主人は、へらを動かしたまま、こっちを振り向きもしない。
「残った粥は、明日の朝、裏の鶏にやる」
それで、話はしまいだった。
女房が、俺とギンの前にもお椀を置いていく。
今夜の客を四人、俺が帰しちまったことになる。一晩銅貨二枚の宿代じゃ、二人分にもなりゃしねえ。
*
物置には、燕麦の袋と薪の束のあいだに、ちょうど二人分の隙間ができていた。
女房がそこへ、乾いた藁を厚く敷いてくれる。
娘は、毛布を二枚抱えて、戸口に立っていた。
俺がコートを脱いで藁の上に置くと、娘が戸口から言った。
「おじさん、袖のとこ、糸が出てるよ」
言われて袖口を見ると、確かに糸が一本、指の長さほど垂れていた。
戸口から藁の上までは、五歩はある。物置の灯りは、梁に吊るした油の灯りが一つきりだった。
店の方では、粥屋の主人が、鍋を磨く手を止めてこっちを見ていた。
「前からだ。気にすんな」
「前から? どのくらい前?」
「穀倉にいた頃からだな」
「こくそうって、どこ?」
「麦ばっかりの所だよ」
娘は毛布を藁の上に下ろすと、コートの袖口を指でつまんだ。
垂れた糸を、引っぱらずに、そっと持ち上げてみている。
「繕ってあげようか」
「いいよ。直すほどのもんじゃねえ」
「ふうん」
娘は、つまんでいた糸を放した。
物置を出ていくときに、一度だけ振り返って、藁の上のコートの袖を見ていった。
*
灯りを吹き消す前に、俺は物置の戸口から、店の方へ声をかけた。
粥屋の主人は、磨き終えた鍋を、炉の上に戻しているところだった。
「明日は、夜が明ける前に起こしてもらえますか」
「門の前に行くのかい」
「ええ」
主人は鍋から手を離して、俺の顔を見た。
それから、煤のついた手を前掛けで拭いた。
「何をしに行くんだ」
物置の藁の上で、ギンが起き上がる音がした。
俺は返事をしないで、梁の灯りを吹き消した。
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