第61話 会計所の壁
夜明けの鐘で目を覚ますと、私はまず、自分の両手を見る。
神官になって四年、毎朝そうしている。手のひらに、神様のお力がまだ残っているかどうかを、確かめずにはいられないのだ。
見ただけで分かるものではない。それでも、見てしまう。
顔を洗って白い衣に着替え、私は治癒の間へ下りていった。
治癒の間は、神殿の石段を上りきった奥にある。
高い窓から朝の光が差して、白い床に長い四角を作っていた。
門をくぐった巡礼の方々は、まず門の脇の会計所の小窓に寄って、寄進の袋を差し入れていく。治癒の間へ来られるのは、そのあとだ。
その朝、最初に私の前に座ったのは、顔を真っ赤にした女の人だった。
汗で濡れた髪が、額に貼りついている。
「熱が、ひと月も下がらないんです」
「手を、額に当てますね。楽にしていてください」
額に手を当てて、祈りの言葉を三度唱える。
手のひらの下で、熱がゆっくり引いていくのが分かった。四年たっても、このときだけは少しも慣れない。
女の人は目を開けると、自分の手で額に触れた。
「冷たい……」
「しばらくは、無理をなさらないでくださいね」
女の人はうなずいてから、ふと心配そうな顔になって、私の衣の袖をつかんだ。
「あの、三枚で、足りましたでしょうか」
「足りるも足りないも、ありませんよ」
「でも、宿のご主人が、熱は三枚だって」
「神様は、数をお数えになりません」
神官になったとき、私が最初に教わった言葉だ。
女の人はほっとしたように袖を放すと、泣きながら何度も頭を下げて、治癒の間を出ていった。
熱の方は、その朝だけで、あと四人来られた。
どの方も、私の前に座る前に、門の脇で三枚を置いてきている。
*
昼の祈りのあとで、大司祭様が治癒の間へ来られた。
もう八十に近いお年で、杖がなければ石段を上れない。それでも昼の祈りが済むと、治癒の間を必ず一回りなさるのだ。
大司祭様は私の前で足を止めると、私の手を両手で包んだ。
乾いた、軽い手だった。
「あなたの手は、よく効くと、皆が言うておる」
「もったいないお言葉です」
「わしの若い頃より、よほど効く。羨ましいことだ」
大司祭様は笑ってから、高い窓の方へ目をやった。
窓の下には、門の前の坂が見える。
「門の外が、このところ騒がしいようだね」
「調査官の方が、お見えになっているそうです」
「そうらしいね。会計の人が、困っておった」
大司祭様は私の手を放して、杖を握り直した。
「わしは、数のことが分からんでな。会計のことは、あの人に任せてある」
「はい」
「四十年、あの部屋には入ったことがない。入ったところで、わしに何が数えられるかね」
それだけおっしゃると、大司祭様は、隣の神官の方へ歩いていかれた。
杖の先が石の床を突く音が、ゆっくり遠ざかっていく。
*
午後には、門番の鉢に、泉の水を足しに行く。これも、いちばん若い私の役目だ。
水差しを抱えて門まで下りていくと、ちょうど一人の年寄りが、門番の前で袋の口を開けたところだった。
腰の曲がった、痩せたおじいさんだ。息をするたびに、胸の奥で湿った音がしている。
門番は身をかがめて、袋の中をのぞいた。
それから、門の脇の会計所の戸の方へ、ちらりと目をやる。戸は閉まっていたのに、門番はそちらを見たあとで、黙って袋をおじいさんの手に返した。
「一枚、足りません」
「この秋の麦を、全部売ってきたんだがね」
「申し訳ありません」
門番の声は、小さかった。
おじいさんは袋の口を縛り直すと、門に向かって手を組み、深く頭を下げた。
それから背を向けて、坂を下りていく。胸の湿った音が、灰色の上着の列のあいだに紛れて、聞こえなくなった。
私は水差しを抱えたまま、門番の横から動けずにいる。
門番も、おじいさんの背中が見えなくなるまで、坂の下の方を見ていた。
「一枚でも足りなければ帰すように、と。会計の司祭様に、そう言われている」
門番は、私の方を見ずにそう言った。
言い訳をしているようにも、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「鉢に、足してくれるんだろう」
「はい」
私は、鉢に水を注いだ。
澄んだ水だった。この水を額につけてもらうのに、お代は要らない。
*
夕方の鐘のあとで、会計司祭様に呼ばれた。
会計所に入るのは、いつもなら、灯りを落としに来るときだけだ。灯りのともっているうちに入るのは、初めてだった。
会計所は、門の脇の壁の中にある。
中庭へ出る戸のほかに、門の外の坂へ出る小さな戸が一つあって、そちらには内側から閂が掛けてある。
会計司祭様が門の外の人と話すときにしか、その閂は外されない。
机の上には、金貨を量る小さな秤と、口を縛った袋がいくつも並んでいた。
外への戸と向き合う壁に、板が一枚掛かっている。
古い木の板で、病の名と数が、上から順に墨で書きつけてあった。
骨折、五。熱病、三。目の病、十。
その下にも、咳の病、腫れ物、産後の病と、二十ほどの病の名が続く。どの名の横にも、金貨の数が一つずつ添えてあるのだ。
前の板が煤けて読めなくなったとき、今の板に書き直したのは会計司祭様だと聞いている。
灯りを落としに来るたびに、私はこの板を見てきた。
会計司祭様は、机の向こうで袋の結び目を一つずつ確かめていた。
「今日は、骨の方が少なかったですね。秋は、屋根から落ちる方が減りますから」
独り言のようにそうおっしゃってから、会計司祭様は顔を上げた。
いつもの柔らかい声だった。
「昨夜も、裏の戸から出ましたね」
私は、すぐには答えられなかった。
「門の外で、病の方に手を当てているのでしょう」
「……はい」
「お気持ちは、よく分かります」
会計司祭様は、結び目から指を離した。
「ですが、神様のお力は、門の内で授けるものです」
「門の外にも、病の方はおられます」
「門の外で配ってしまったら、門の内へ来られる方が、いなくなってしまいますよ」
会計司祭様は、私を責めるような顔はなさらなかった。
分かりきったことを、もう一度だけ教えてくださる顔だった。
「それに、門の外には、調査官の方もおいでです」
「はい」
「坂の中ほどの粥屋に、毎晩来ておられるそうですね」
私は、黙っていた。
昨夜、私があの粥屋で何を言ったのかを、会計司祭様はご存じない。ご存じなら、こんな声では話されない。
「明日、門の前で、皆さまにお話をいたします」
「お話、ですか」
「神殿の物を、門の外から数えに来た方がおられます。皆さまにも、知っておいていただかなければ」
「数えに、ですか」
「神様の物は、神様の物です。王都の引き出しにしまう物ではございません」
会計司祭様は、そこで初めて、少しだけ笑われた。
「明後日の明け方には、大司祭様にも、門までお出ましいただきます」
「大司祭様が、門まで」
「秋の祈りを、門の前でしていただくのです。お姿をご覧になれば、皆さまも落ち着かれるでしょう」
会計司祭様は、私の肩ごしに、後ろの壁へ目をやった。
板の掛かっている壁だった。
「心配はいりません。この部屋は、門の外からは見えませんから」
それから会計司祭様は秤を片づけて、中庭の戸から出ていかれた。
灯りを落とすのは、今夜も私の役目だった。
*
夜の祈りが済むと、私は聖具室の燭台の火を、端から一本ずつ消していく。
最後の一本の脇の壁には、釘が一本打ってある。夜のあいだ、会計所の中庭の戸の鍵は、そこに掛けておく決まりだ。朝になると、会計司祭様がご自分で取りに来られる。
鍵は、今夜も釘に掛かっていた。
鉄の輪に通した、私の手のひらほどの鍵だ。最後の燭台の火を受けて、黒く光っている。
昼に門の前で帰された、おじいさんの胸の音を、私はまだ覚えていた。
今夜は、裏の戸から探しに出られない。坂の下の宿のどこかに、まだいらっしゃるはずなのに。
昨夜の粥屋では、あの家の娘が、顔を寄せもせずに栗を選り分けていた。
あの子の目を治したのは私だが、それも、会計所の小窓に十枚が差し入れられたあとだった。
大司祭様は、四十年あの部屋に入ったことがないとおっしゃった。
明後日の明け方、その大司祭様が、門の前に立たれる。会計所の外の戸から、十歩も離れていない所だ。
私は、釘に掛かった鍵を見ていた。
手を伸ばせば、届く。
私は鍵に手を伸ばさずに、最後の燭台の前に膝をついて、手を組んだ。
何をお願いすればいいのかは、まだ分からない。
それでも、最後の火が細くなって消えるまで、私はそこで祈っていた。




