第60話 外の数字
秋になって、坂の石畳が昼前から熱くなることも、もう無くなった。
門の前には、今日も鐘が鳴る前から、額に水をつけてもらう人が並んでいる。
俺は列の脇を抜けて、門番の前に出た。
「署の調査官です。会計の司祭さんに、お取り次ぎ願えますか」
門番は俺のコートを見ると、返事の代わりに、門の脇の小さな戸を二度叩いた。
戸が開いて、ふっくらした手の男が出てくる。
春に門の前で会ったきりの会計司祭は、あのときと同じ柔らかい声で、俺に頭を下げた。
「おはようございます、上席調査官どの。陛下のお許しが、届きましたか」
「いえ、届いてません」
「それは、お気の毒に」
本当に気の毒そうな顔をするもんだから、こっちが返事に困っちまう。
巡礼の人たちは、会計司祭の前を通るたびに、手を組んで頭を下げていった。
ギンは、俺の隣に立っている。
「今日は、更正のお知らせに来ました」
「更正、でございますか」
「神殿の、この五年分の商人税です。署の方で、額を決めさせてもらいました」
「神殿は商いをいたしませんと、春に申し上げたはずですが」
「ええ、伺いました。ですから、どうして商いになるのか、理由をお話ししに来たんです」
会計司祭は、どうぞ、というように手のひらを上に向けた。
「神殿に香油を納めてる店が、治癒に使う小瓶を、年に何本納めてるか話してくれましたよ」
「神殿からお守りを箱で仕入れてる店も、毎年何箱仕入れたか話してくれました」
「どこのお店か、伺っても」
「言いませんよ。言わないって、約束したんでね」
会計司祭は、それ以上は聞かずに、うなずいている。
うなずき方まで、柔らかい。
「それと、治癒を受けた人たちです。骨を治してもらった人は、誰に聞いても五枚でした」
「熱なら三枚、目なら十枚。巡礼宿じゃ、着いたばかりの巡礼に、そう教えてますよ」
「さようでございますか」
「額の決まってる寄進は、お気持ちじゃありません。売り物の値段ですよ」
「売り物、でございますか」
「売り物の儲けには、商人税がかかります。治癒を売った儲けにも、です」
会計司祭は、少しも困った顔をしなかった。
胸の前で組んだ手はそのままに、首を少しだけかしげる。
「それで、いかほどに」
「五年分に、隠していた分の加算を乗せまして、金貨九千枚です」
門番の手が、水の鉢の上で止まった。
額に水を待っていた巡礼の男がこっちを振り返り、後ろに並んだ女が、連れの袖を引く。
会計司祭だけは、組んだ手を少しもほどかなかった。
「九千枚」
会計司祭は、口の中で一度だけ繰り返してから、また柔らかく笑った。
「香油でしたら坂の下の薬草屋さん、お守りでしたら門前のご主人。それに、宿のご主人と、巡礼の方々」
会計司祭は、一人ずつ指を折るように、柔らかく並べてみせた。
どこの店か、俺は一言も言っていない。言わなくても、この男には分かるのだ。
「俺は、どなたの名前も出してませんよ」
「ええ、存じております。皆さま、門の外の方ばかりですね」
痛え所を、ずいぶん柔らかく突いてきやがる。
「巡礼の方々は、遠くからお見えになります。ほかの方と同じだけ置いていけば、安心なさるのでしょう」
「それで、同じ額になったと」
「同じ額を言い合ううちに、そうなったのです。神殿がお願いしたことは、一度もございません」
会計司祭は、門の内の方へ、ちらりと目をやった。
「寄進は寄進です。神殿の中もご覧にならずに、何がお分かりになるのです」
額が決まっていることなら、門の外の人がいくらでも口で言ってくれる。
ところが、その額を決めたのが神殿だと言える口は、門の外には一つも無いのだ。
この男は、それをちゃんと分かったうえで笑っている。
「ご不服でしたら、異議を出してください。署で伺いますよ」
「異議でしたら、王都へお出しいたしましょう」
会計司祭は、坂の上の鐘の塔を見上げた。
「王都にも、この神殿へお参りくださる方が、大勢おいでですので」
それだけ言うと、会計司祭は俺とギンに一度ずつ会釈をして、小さな戸の向こうへ戻っていった。
戸が閉まったとたん、内側で、閂を落とす重い音がする。
門番は止めていた手を鉢に戻して、待たせていた巡礼の額に水をつけた。
*
坂を下りるあいだ、ギンはしばらく黙っていた。
巡礼宿の並ぶあたりまで来て、ようやく口を開く。
「あの人、九千枚って聞いても、手をほどきませんでしたね」
「ほどく用がねえと思ってんだろ」
「異議が王都に行ったら、どうなるんですか」
「王都の引き出しに入るんだよ。港の千二百枚と、仲良く並んでな」
九千枚の一割なら、九百枚だ。
穀倉で受け取った四百二十枚の袋を二つ並べても、まだ届かない。コートの内側になんか、とても収まりゃしねえ。
まあ、収まるかどうかを心配するのは、まだだいぶ先の話なんだが。
*
署の戸を開けると、窓口の若い男が、気の毒そうな顔で二階を指さした。
二階では、署長が俺の机の前に立っていた。
灰色の髪は、今朝もきちんと撫でつけてある。顔の色だけが、その髪と同じくらい白かった。
「上席どの。門の前で、九千枚とおっしゃったそうですね」
「言いました。もう聞こえてますか」
「巡礼宿の者が、わざわざ知らせに来てくれました」
坂を下りてきた俺たちより、噂の方がよっぽど足が速かったらしい。
署長は、俺の机の端に両手をついた。
「取り下げてくださいませ」
「取り下げません」
署長は、机に手をついたまま、しばらく俺の顔を見ていた。
「神殿は、異議を王都へお出しになります。王都には、大司祭様のお身内の方々が」
「それは聞きました」
「それに、取り下げていただかないと、わたしは……」
署長は、窓の外の、坂の上の門を見た。
「わたしは毎朝、あの門で、額に水をいただいております」
「知ってますよ」
「この署の者が、神殿に九千枚と言ったんです」
署長の声は、少し震えていた。
「門番が、わたしの額にだけ、水をつけてくれなくなったら、わたしは」
署長は、そこで唇を噛んだ。
「わたしは、どこで祈ればよいのです」
俺は、何も言わなかった。
代わりに、隣の机で荷物を下ろしていたギンが、顔を上げた。
「門番さんは、署長さんの額にも、水をつけると思います」
署長が、ギンの方を向いた。
「今朝、九千枚って聞いたあとも、門番さんは次の人の額に、ちゃんとつけてましたから」
署長は、何か言い返そうとした。
そのとき、坂の上で昼の鐘が鳴りはじめたものだから、署長は窓の方へ向き直って、両手を胸の前で組んだ。
深々と頭を下げて、下げたまま、小さな声で言う。
「どうか、取り下げてくださいませ」
俺に頼んでるのか、神様に頼んでるのか。
鐘が鳴りやむと、署長は俺の方を見ずに、階段を下りていった。
*
夏の終わりから、署を閉めたあとは、たいてい坂の中ほどの粥屋で晩飯を食っている。
その晩も、店の戸は半分閉めてあって、客は俺とギンの二人きりだった。
粥屋の主人は、明日の朝の燕麦を、大きな桶の水に浸けている。女房は鍋の脇の炭火で、栗を焼いていた。
焼けた栗を火から拾うのは、娘の役目らしい。
皮の割れたのと割れていないのを、顔を寄せもせずに、手早く二つの山に分けていく。
割れた方を一つ、娘が俺の前に置いた。
「熱いよ。皮、むける?」
「むけるよ。子供じゃねえんだ」
むこうとしたら、本当に熱かった。
指を振っている俺を見て、娘が笑う。ギンまで、横で口の端を上げていた。
娘が、ふと手を止めて、戸の外の暗がりの方を向いた。
「白い人が来るよ」
俺の目には、坂の上の暗がりしか見えない。
しばらくすると、本当に白い衣が一つ、坂を下りてきた。灯りも持たずに歩いてきたのは、二十を少し過ぎたくらいの若い神官だった。
ギンが、俺の耳もとで小さく言う。
「この前、ここに来た神官さんです」
若い神官は、半分閉めた戸の前で足を止めた。
入ろうか、入るまいか、迷っているような立ち方だ。
炭火の前から、女房が声をかけた。
「お入りよ、神官さん。栗が焼けてるよ」
若い神官は頭を下げて、戸をくぐった。
それでも、腰掛けには座らない。立ったまま、俺の顔を見ている。
「門の前で、会計司祭様に九千枚とおっしゃった、調査官の方ですね」
「ええ。神殿の中まで、もう聞こえてますか」
「夕方のお祈りのあとで、会計司祭様が、皆に話されました」
若い神官は、そこで少し言い淀んだ。
「調査官の方は、門の外の噂を集めて、数をお作りになった、と」
「噂じゃありませんよ。人から聞いた話です」
まあ、門の外の人から聞いた話なのは、そのとおりなんだがな。
女房が、割れた栗を一つ、若い神官の手のひらに載せてやった。
若い神官は礼を言ったが、むこうとはしない。熱いはずの栗を、手のひらに載せたまま握っている。
ギンが、腰掛けから若い神官を見上げた。
「この前も、何か言いかけて、やめましたよね」
若い神官は、ギンの方を見た。
それから、炭火の前で栗を選り分けている娘の方を見る。娘は手を止めずに、割れた栗の山を、少しずつ大きくしていた。
「会計司祭様は、神殿の中も見ずに、とおっしゃったそうですね」
「言われましたよ。見せてもらえないもんでね」
若い神官は、手のひらの栗を、ゆっくり握りしめた。
「相場の札は、会計所の壁に掛かっています」
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