第59話 白い衣の客
朝晩の風が、少しずつ涼しくなってきた。
巡礼宿の三階の窓から坂を見下ろすと、灰色の上着の列は、夏よりいくらか間がまばらになっている。
顔を洗って一階へ下りると、隣の粥屋の大鍋から、もう湯気が上がっていた。
戸口をくぐる前に、店の奥から声が飛んでくる。
「お姉さん、寝ぐせ!」
女の子が、鍋の向こうの奥の戸口に立って、あたしの頭を指さしていた。
あそこから戸口までは、店の端から端まである。
あたしは、自分の頭のてっぺんを手で押さえた。
「どこですか」
「右。もっと右。そこ」
言われたところを撫でつけると、女の子は満足したようにうなずいて、お椀を取りに鍋の方へ戻っていった。
お椀を両手で受け取っても、もう顔の前まで持ち上げたりしない。腰掛けのあいだを、巡礼の人の膝をよけながら、すいすい歩いてくる。
あの朝、三人で坂を上っていった日の夕方から、この子はずっとこうだ。
見える物を、片っぱしから口に出す。
「お姉さん、今日のお粥、林檎が入ってるよ」
「林檎、ですか」
「山の方の初物なんだって。お母さんが、煮たの」
山羊の乳の粥の上に、甘く煮た林檎が一切れずつ載っていた。
スプーンで崩して粥と一緒に食べると、林檎の酸っぱいのが、乳の甘さの中で、ふっと立った。
店は、今も粥屋のままだ。
金貸しのおじいさんは、あれから一度も、この店の戸口に立っていない。
晩になると、ヘイジさんが坂を上ってきて、決まって二杯食べていく。
奥さんもご主人も、あの朝の袋のことは一度も口にしなかった。ヘイジさんも、しない。
ただ、ヘイジさんのお椀にだけ、豚がいつも少し多い。
*
その朝、最初の巡礼の人たちが坂を上っていったあとだった。
お椀を下げに出た女の子が、戸口で急に背伸びをした。
「神官さん!」
女の子は、お盆を腰掛けに放り出して、坂の下の方へ駆けていった。
あたしも戸口から顔を出す。
坂の下から、白い衣が一つ、上ってくるところだった。
巡礼の人たちのように杖はついていない。うつむいて、石畳の端の方を、急ぐように歩いていた。
女の子が、その白い衣の袖を、両手でつかまえた。
「神官さん、うちのお粥、食べに来てって言ったでしょ」
「ああ、あなたでしたか」
白い衣の人は、女の子の顔をのぞき込んで、少しだけ笑った。
若い人だった。あたしより、少し上くらいだろう。
目の下が、寝ていない人の色をしている。
白い衣の裾だけが、夜露で濡れて、泥がはねていた。坂の下の方の、石畳の無い路地を歩いてきた裾だ。
「よく、見えていますか」
「見えるよ。神官さんのまつ毛まで見える」
「それは、よかった」
「治ったとき、一番最初に見えたの、神官さんの手だったよ」
「私の手、ですか」
「うん。指のとこに、白い蝋がついてた」
白い衣の人は、自分の指を見下ろすと、恥ずかしそうに袖の中へ隠した。
女の子に袖を引かれるまま、白い衣の人は店の前まで来た。
戸口で、鍋をかき回していたご主人が、へらを止めて頭を下げる。奥さんが、前掛けで手を拭きながら出てきた。
「神官さん。この子が、お世話になったね」
「いえ。私は、手を当てただけですので」
「お入りよ。今朝は、林檎が入ってるんだよ」
「朝の鐘までに、戻らなければならないのですが」
「鐘まで、まだあるよ。一杯くらい、すぐだよ」
白い衣の人は、坂の上の門の方を一度見上げてから、あきらめたように戸口をくぐった。
空いていたのは、あたしの隣だけだった。
*
女の子が、粥のお椀を両手で運んできた。
林檎を、ほかの人より一切れ多く載せている。奥さんは見ていたのに、何も言わなかった。
「神官さん。熱いから、気をつけてね」
白い衣の人は、お椀を受け取ると、手を組んで短く祈ってから、スプーンを取った。
一口食べたところで、手が止まる。
「……おいしいです」
「そうだろう。林檎は、うちの人が坂の下の市まで走って買ってきたんだよ」
奥さんが鍋の脇から言うと、ご主人は鍋の方を向いたまま、へらの音を一つ大きくした。
白い衣の人は、ゆっくり二口目をすくった。
お椀を持つ手が、ほんの少し震えている。日が昇って、朝の冷えはもう抜けているのに。
三口目の前に、白い衣の人は、隣のあたしの方を見た。
「あなたは、巡礼の方ではありませんね」
あたしは、スプーンを置いた。
この坂に来てから、あたしにそれを聞いた人は、この人が初めてだった。
「はい。税務署の記録役です」
白い衣の人の顔から、少しだけ血の気が引いた。
「門の前で、会計司祭様とお話しされた、調査官の方の」
「はい。あたしは、その人の記録役です」
「……そうでしたか」
白い衣の人は、お椀に目を落とした。
逃げ出すかと思ったけれど、腰掛けから立とうとはしない。
しばらくして、お椀を見たまま、小さな声で聞いてくる。
「何を、お調べになっているのですか」
「神殿が、治すたびにいくら受け取っているのかを、数えてます」
嘘をつく理由が無いので、そのまま言った。
白い衣の人は、驚いた顔であたしを見た。
「骨は五枚、熱は三枚、目は十枚って、宿のご主人が巡礼の人に教えてるんです」
「ええ。知っています」
「神殿で、そう決めてるんですか」
白い衣の人は、すぐには答えなかった。
スプーンを持った手が、お椀の縁で止まっている。
「会計所の、壁に……」
そこまで言って、白い衣の人は口を閉じた。
閉じたまま、唇を一度、強く噛む。
「……いえ。私が申し上げることでは、ありません」
「壁に、何があるんですか」
「申し訳ありません。忘れてください」
白い衣の人は、あたしに向かって頭を下げた。
忘れてくださいと言われても、あたしは聞いたことを忘れるのが得意ではない。
けれど、それ以上は聞かなかった。この人の手が、まだ震えていたからだ。
*
鍋の前から、ご主人がぼそりと言った。
「神官さん。ゆうべは、坂の下の裏の長屋だったろう」
白い衣の人の肩が、びくりと揺れた。
「どうして、それを」
「夜明け前に、燕麦の袋を取りに下りたら、長屋の路地から白いのが出てきた」
「あ……」
「熱の子が一人、寝ついてる家だ。あの家に、三枚は無え」
ご主人は、へらを動かす手を止めなかった。
奥さんが、炉の前から白い衣の人の方を見る。
「坂の下じゃ、前から噂になってたんだよ。夜中に白い衣が来て、手を当てていくって」
「どうか、そのことは」
「言いやしないよ。言ったら、神官さんが来られなくなるんだろう」
白い衣の人は、何も言い返さずに頭を下げた。
あたしは、さっきの震えている手のことを思った。
夜のあいだに、何人の額に手を当ててきたのだろう。
「治すと、疲れるんですか」
あたしが聞くと、白い衣の人は、少し困ったように笑った。
「少しだけです。一晩眠れば、戻ります」
「ゆうべは、眠ってないですよね」
「……記録役の方は、よくご覧になっていますね」
女の子が、腰掛けの向こうから身を乗り出してきた。
「神官さん、目の下、青いよ」
「あなたも、よく見えるようになりましたね」
白い衣の人は、今度はちゃんと笑った。
坂の上の方で、朝の鐘が鳴りはじめた。
*
白い衣の人は、残りの粥を急いで食べ終えると、腰掛けから立った。
衣の袖の中を探って、銅貨を一枚出す。
「ごちそうさまでした。お代を」
「いらないよ」
奥さんは、銅貨の方を見もしないで言った。
「でも、それでは」
「夜通し、ただで人を治して歩いてる人から、銅貨なんか取れるもんかい」
「この子の目のときは、門の脇で、十枚を」
「あれは、神殿に置いてきた分さ。神官さんに払ったんじゃないよ」
白い衣の人は、銅貨を持ったまま、何か言おうとして、やめた。
奥さんは、空いたお椀を片づけながら、続けた。
「それにね、うちは今年、神様にも人にも、もらいすぎてるんだよ」
奥さんはそう言って、ちらりと鍋の前のご主人を見た。
ご主人は、へらを動かしたまま、こっちを振り向かない。
白い衣の人は、その二人を見比べてから、銅貨を袖の中へ戻した。
戸口で、深く頭を下げる。
女の子が、戸口から身を乗り出した。
「神官さん、また来てね!」
白い衣の人は振り返って、女の子に手を組んで頭を下げてから、坂を上っていった。
門の方へは行かずに、途中で横の細い道へ曲がる。白い壁に沿って、神殿の裏の方へ回っていくらしい。
あたしは、さっき聞きかけた言葉を、頭の中でもう一度だけ繰り返した。
会計所の、壁に。




