第58話 粥屋の娘
夏の終わりの朝だった。
粥屋の長い腰掛けで、あたしはいつものように、巡礼の人たちのあいだに挟まって粥を食べていた。
巡礼宿に移ってから、朝ごはんは毎日ここだ。
女の子は、もうあたしの髪に鼻をくっつけてこない。その代わり、お椀を置くたびに「お姉さん、今日も銀色だね」と言っていく。
その朝、戸口の前に、日除けの傘を差した年寄りが立った。
きちんとした上着を着て、靴もよく磨いてある。巡礼の人には見えなかった。
「ご主人。約束の物を持ってきたよ」
鍋の前のご主人が、へらを持ったまま顔を上げた。
年寄りは傘をたたむと、店に入ってきて、細い机の端に小さな袋を置いた。
袋の口をほどいて、中の金貨を一枚ずつ机に並べていく。並べ終わると、十枚あった。
「数えておくれ。あとで足りなかったと言われても困るからね」
「……十枚だ」
「そう。十枚だ」
年寄りは、腰掛けに並んだ巡礼の人たちを、ゆっくり見回した。
「皆さんにも聞いておいてもらおうか。ここのご主人には、冬のはじめまでに十五枚を返してもらう」
「分かってる」
「返せなかったら、約束どおり、この家はわしが買い取らせてもらうよ」
巡礼の人たちは、粥のスプーンを持ったまま、黙って下を向いた。
奥さんは、鍋の脇に立ったまま動かない。
「早く返してもらう分には、構わないよ。ただ、利子の五枚は負からないからね」
年寄りは、ご主人の返事を待たずに傘を広げて、坂を下りていった。
怒鳴りもしないし、笑いもしない。金を貸して、返してもらう日を言っただけの人の顔だった。
ご主人は、机の上の金貨をかき集めて、黙って袋に戻した。
女の子が、お盆を持ったまま、袋の方へ顔を近づけている。
「それが、十枚?」
奥さんが、女の子の頭に手を置いた。
「そうだよ。明日、これを持って神殿に上がるんだ」
*
巡礼の人たちが坂を上っていってしまうと、奥さんはあたしの隣に腰を下ろした。
前掛けで、何度も手を拭いている。
「聞こえちまったね」
「明日、なんですか」
「明日の朝、店を閉めて三人で上がるよ。目は十枚だからね」
女の子は、店の奥で、空いたお椀を洗っていた。
洗い終わったお椀を、一つずつ顔の前まで持ち上げて、汚れが残っていないかをのぞいている。
「春から、急に悪くなってね。今じゃ、あたしの顔も、このくらいまで寄らないと分からないんだ」
奥さんは、手のひらを自分の鼻の先に立ててみせた。
「冬まで待ったら、もっと悪くなる。だから、借りたんだよ」
「十五枚、返す当ては」
「無いよ。夏の稼ぎは、燕麦と山羊の乳で消えちまうからね」
奥さんは、鍋の湯気の方を見たまま言った。
「家を取られたら、坂の下の方で、屋台でも出すさ。この子の目は、待ってくれないからね」
鍋の前で、ご主人がへらを動かす音が、少しだけ大きくなった。
あたしは、お椀の底に残った粥を、スプーンで何度もすくった。
店の奥では、女の子が、洗ったお椀をまた一つ、顔の前まで持ち上げている。
*
署に下りると、ヘイジさんは二階の窓から坂の上を見ていた。
机の上に、白い紐のお守りが一つ転がっている。門の前の店で、銅貨五枚で買ったものだ。
「ヘイジさん。今晩、粥屋で晩ごはんにしませんか」
「粥なんか、腹にたまるのか」
「たまります。晩は、塩漬けの豚が入るんです」
「……豚か」
ヘイジさんは、少し考えるような顔をした。
「お前が飯に誘うなんて、珍しいな」
「おいしいので」
嘘じゃない。おいしいのは本当だ。
ただ、それだけじゃないことも、あたしは自分で分かっていた。
ヘイジさんに何を話すのか、話さないのか、店に着くまでに決めようと思っていた。
*
晩の粥屋は、朝よりずっと静かだった。
巡礼の人は、宿の晩ごはんを食べるから、ここへは来ない。客は、坂で働く人が三人ばかりと、あたしたちだけだ。
ご主人は、鍋の脇の炭火で、刻んだ塩漬けの豚と玉ねぎを炒めていた。それを、燕麦の粥の上に一杓子ずつ載せていく。
お椀を運んでくるのは、やっぱり女の子だった。
ヘイジさんの前にお椀を置いたあと、女の子は、そのまま動かない。
ヘイジさんの顔に、ぐっと顔を寄せていく。鼻と鼻が、くっつきそうだった。
「おじさん、目つき悪いね」
「こら!」
奥さんの声が、鍋の向こうから飛んできた。
ヘイジさんは、スプーンを持ったまま、のけぞりもしなかった。
「生まれつきだ」
「ふうん。治してもらえないの?」
「目つきは、神様の受け持ちじゃねえんだよ」
女の子は、何がおかしいのか、くすくす笑った。
それから、自分の目を指さしてみせる。
「あたしね、明日、神殿で目を治してもらうの」
「へえ。よかったな」
「十枚なんだよ。お父さんが、金貸しのおじいさんから借りてきたの」
「よしな、そんな話」
奥さんが、鍋の向こうから言った。
女の子は、聞こえているのかいないのか、ヘイジさんの顔の前から離れない。
「冬までに十五枚返さないと、このお店、金貸しのおじいさんのになるんだって」
「こっちへおいで。お客さんに、そんな話をするもんじゃないよ」
奥さんが前掛けで手を拭きながら出てきて、女の子の肩を抱いて奥へ連れていった。
女の子は、連れていかれながら言う。
「だって、本当のことだもん」
あたしは、スプーンを持ったまま、ヘイジさんの方を見られなかった。
話すか、話さないか。店に着くまでに決めるつもりでいたことを、あの子が、全部先に話してしまった。
ヘイジさんは、何も言わなかった。
豚の脂が浮いた粥を、一口ずつ、ゆっくり口に運んでいる。
一杯目を食べ終えると、空のお椀を、鍋の方へ差し出した。
「もう一杯」
ご主人は、黙ってお椀を受け取って、粥をよそった。
豚を載せるとき、一杓子のところを、二杓子載せたのが見えた。
二杯目も食べ終えると、ヘイジさんは銅貨を二枚、机の上に置いた。
「うまかった」
あたしは戸口まで出て、坂を下りていくヘイジさんの背中を見送った。
*
次の朝、あたしは宿の誰よりも早く起きた。
隣の粥屋の大鍋は、まだ火が入っていなかった。
戸口の脇の腰掛けに、三人が並んで座っている。ご主人も奥さんも、いつもの前掛けではなく、よそ行きの上着を着ていた。
女の子の腰には、小さな袋が下がっている。
ご主人は、自分たちの朝ごはんの分だけを、小さな鍋で煮ていた。
「記録役さん、早いね。見送りに来てくれたのかい」
奥さんが言ったとき、坂の下の方から、石畳を上ってくる足音がした。
朝の光の中を、茶色のコートが上ってくる。
ヘイジさんが、朝に坂を上ってくるのを見たのは、初めてだった。
「粥を一杯くれ」
ヘイジさんは、腰掛けの端に座るなり、そう言った。
「悪いね、今日は休みなんだよ」
「その鍋の、一杯でいい」
奥さんが困った顔でご主人を見ると、ご主人は何も言わずに、小さな鍋からお椀に一杯よそった。
自分たちの分が、それで一杯減ることになる。
ヘイジさんは、お椀を両手で受け取ると、ふうふう吹いて食べはじめた。
山羊の乳の、朝の粥だ。
急ぐでもなく、一口ずつ、底まできれいにさらっていく。そのあいだ、誰も口をきかなかった。
女の子だけが、ヘイジさんの横顔に、また顔を寄せている。
食べ終えると、ヘイジさんは空のお椀を腰掛けに置いた。
それから、コートの内側から、小さな革袋を一つ出す。
ヘイジさんは、その袋を、口も開けずに、お椀の横へ置いた。
「朝は、銅貨を数える気にならねえんだ」
ヘイジさんは、もう腰掛けから立って、坂を下りはじめていた。
ご主人が、お椀の横の袋に手を伸ばして、持ち上げかけたまま止まっている。
ヘイジさんは、振り返らなかった。
坂を三歩ほど下りたところで、背中を向けたまま言う。
「飯代だ。ちゃんと売上につけとけよ」
*
ご主人は、袋を持ち上げたまま、しばらく突っ立っていた。
奥さんも、腰掛けの脇から動けずにいる。
先に手を伸ばしたのは、女の子だった。父親の手から袋を取ると、腰掛けの上で紐をほどいて、中身をそっと空ける。
板の上に、金貨が小さな山になった。
女の子はその山に鼻がつくほど顔を寄せて、一枚ずつ、指で脇へよけていく。よけながら、小さな声で数えているのだ。
奥さんがその後ろにしゃがみ込んで、娘の肩越しに、よけられていく金貨を見ていた。
「十五」
最後の一枚をよけると、女の子は、金貨に鼻をくっつけたまま言った。
奥さんは、何も言わなかった。娘の後ろにしゃがんだまま、動かない。
ご主人が、坂の下の方を見たまま、ぼそりと言った。
「……利子の五枚まで、きっちり入ってやがる」
女の子が、顔を上げた。
「あたしが、しゃべったから?」
奥さんは、女の子の頭を胸に抱き寄せた。
抱き寄せたまま、顔を上げなかった。
やがて、女の子が、奥さんの胸の中から、くぐもった声で言った。
「ねえ。あのおじさんの顔、ちゃんと見とけばよかった」
「神殿から帰ってきたら、よく見えるよ」
奥さんの声は、少し震えていた。
女の子は、奥さんの腕の中から抜け出すと、坂の下の方へ目を細めた。
あたしの目には、坂のずっと下の曲がり角に、あの背中がまだ小さく見えている。
女の子の目には、たぶん、まだ届いていない。
あたしは、女の子の隣にしゃがんで、坂の下を指さした。
「あそこです。角の手前」
「どこ?」
「あそこ。目つきが悪いから、すぐ分かりますよ」
女の子は、声を上げて笑った。
笑いながら、見えない坂の下を、いつまでも見ていた。




