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第57話 骨折は金貨五枚

 薬草屋の小瓶と、お守りの箱。外から数えられる物は、これで二つになった。

 残りは、治してもらった人の口だ。

 巡礼宿の晩飯の机でなら、話はいくらでも聞ける。ただ、巡礼の人たちは治してもらうと、次の朝にはもう坂を下りて、それぞれの国へ帰っていってしまう。


「坂の人に聞いた方が、いいと思います」


 朝、署の二階に上がってきたギンが、汗を拭きながら言った。


「坂の人だって、治してもらってるのか」

「宿のご主人が、坂の者で治してもらったことの無い者はいないって言ってました」

「どこへ行きゃ会える」

「昼前の洗い場です。坂の女の人は、みんなそこに来るそうです」

「どうして、そんなことまで知ってる」

「宿の窓から見えるんです。昼前になると、籠を抱えた女の人が、みんな同じ路地に入っていきます」

「……よく見てんな」

「窓口にいた頃から、人の出入りを見るのは仕事でしたから」


     *


 洗い場は、坂の途中の路地を、横へ少し入った所にあった。

 岩の割れ目から湧いた水を、石で囲って溜めてある。夏の盛りだというのに、その辺りだけは足もとから冷たい風が上がってきた。

 石の縁には、女たちが十人ばかり並んで、洗濯物を叩いていた。

 俺のコートが路地の角から見えたとたんに、叩く音が一つずつ止まっていく。


「税務署の調査官です。少し、伺いたいことがありまして」


 一番手前で、腕の太い女が、絞りかけの敷布を持ったまま振り向いた。


「歩合取りが、洗濯物の数でも数えに来たのかい」


 石の縁の女たちが、どっと笑った。

 笑ってもらえるなら、まだましな方だ。港じゃ、こうはいかなかった。


「数えるのは、別の物ですよ。この中で、神殿で治してもらったことのある方は」


 女たちは顔を見合わせて、それからまた笑った。

 腕の太い女が、敷布を石に打ちつけながら言う。


「坂の者で、治してもらったことの無い者なんかいないよ」

「あなたも、ですか」

「あたしは、去年の冬に手首の骨さ。凍った石段で転んでね。五枚だった」


 女は、絞った敷布で、隣の若い女を指した。


「そっちのは、坊主が熱を出したときに三枚。向こうの婆さんは、旦那の目で十枚だ」

「坂の外から来た人でも、同じ額ですか」

「同じだよ。宿で、巡礼にもそう教えてるだろう」


 五枚、三枚、十枚。

 坂の外の巡礼に聞いても、坂の内の女に聞いても、同じ数が出てくる。

 数が揃っていくのは、こっちとしちゃ、どうにも気持ちがいい。

 そのとき、石の縁の一番奥で、洗濯物を叩く音が、一つだけ大きくなった。

 白髪を布でまとめた年寄りの女が、こっちに背を向けたまま、濡れた上着を石に叩きつけている。

 さっき、旦那の目で十枚だと言われた婆さんだ。


「あんた、神様の御業を値踏みしに来たのかい」


 婆さんは、振り向きもしないでそう言った。


「歩合取りが神殿の金を数えて回ってるって、坂じゅうの噂だよ」

「噂が早いですね」

「神殿を、疑ってるんだろう」

「疑ってませんよ。治ったのは、本当なんでしょう」


 婆さんは、上着を叩く手を止めた。


「本当だよ。うちの人は、十枚置いた次の朝から、自分で針に糸が通せるようになったんだ」

「でしたら、俺が何を言っても、治ったことは変わりません」

「なら、何を嗅ぎ回ってるのさ」

「何枚置いてきたかを、伺ってるだけです」


 婆さんは、やっと振り向いた。

 濡れた手で、自分の胸の前に手を組む。


「神様に置いた物を、人が数えるもんじゃないよ」


 それだけ言うと、婆さんはまた背を向けて、上着を叩きはじめた。

 さっきより、もっと大きな音だった。

 腕の太い女が、俺の方へ肩をすくめてみせる。


「気にしないでおくれ。あの人は、旦那の目が治ってから、毎朝門まで上がってお祈りしてるんだ」

「そうでしたか」

「神殿のことを悪く言われるのが、何より嫌いなのさ。悪い人じゃないんだよ」


 分かってるよ。悪い人だと思ってたら、最初から聞きゃしねえ。


     *


 路地を出て、坂の石段を下りはじめたところで、後ろから呼び止められた。

 振り返ると、さっきの洗い場で、一言もしゃべらずに洗濯物を絞っていた女が、石段の上に立っていた。

 三十くらいだろう。濡れた前掛けを、両手で握っている。


「さっきの婆さんの前じゃ、言えなかったから」


 女は、俺ではなく、ギンの方を見て言った。

 ギンが二段上がって、女と同じ段に立つ。


「何を、ですか」

「うちの人は、骨を治してもらえなかったんだよ」


 女の話は、短かった。

 春に、女の亭主が石切り場で、落ちてきた石に右手を挟まれた。指の骨が、二本折れたらしい。

 骨は、五枚だ。

 女の家には、四枚しか無かった。


「門番さんに、袋の口を開けて見せたよ。一枚だけ待ってくれって、頼んだんだ」

「門番さんは、何て」

「何も。すまないって顔で、首を振っただけさ」


 女は、握っていた前掛けを、ゆっくり伸ばした。


「うちの人の指は、二本とも曲がったまんま、くっついちまった」

「今は、どうされてるんですか」

「石は、もう切れないよ。今は石切り場で、切った石を運んでる。給金は、半分になった」


 ギンは、何も言えずに、女の前掛けを見ていた。

 俺も、何も言わなかった。言えることが、無い。


「神様を恨んじゃいないよ。足りなかったのは、うちの方なんだから」


 女はそう言ってから、初めて俺の方を見た。


「でも、あんた、数えてるんだろう。治った人が、いくら置いたか」

「ええ」

「だったら、帰された者も、数に入れといておくれよ」


 女は伸ばした前掛けで手を拭くと、返事も待たずに、路地の奥へ戻っていった。

 洗い場の方から、洗濯物を叩く音が、また一つずつ聞こえはじめた。

 ギンが、石段の上に立ったまま、路地の奥を見ていた。


「ヘイジさん。今の人の分は、どこにも数えられないんですね」

「治ってねえからな。瓶も一本も開いてねえ」

「……そうですね」


 ギンは、それきり黙って石段を下りてきた。

 俺は、四枚と五枚のあいだを、頭の中で一度だけ数えた。

 一枚だ。


     *


 腕の太い女が教えてくれた大工は、坂の下の方の巡礼宿で、屋根を張り替えていた。

 白い漆喰の壁に梯子を立てかけて、屋根の上で金槌を振るっている。

 下から声をかけると、四十がらみの日に焼けた男が、屋根の端から顔を出した。


「洗い場の連中から聞いたよ。神殿の金を数えて回ってる歩合取りってのは、あんたか」

「話が早くて、助かります」

「下りるから、待ってな。上で話すと、金槌を落としそうだ」


 大工は、片手で梯子をつかんで、するすると下りてきた。

 地面に足をつけると、右の袖を肩までまくり上げる。

 日に焼けた太い腕だった。肘の少し先に、指でなぞらないと分からないくらいの、かすかな筋が一本入っている。


「去年の秋に、ちょうどあそこから落ちたんだ」


 大工は、隣の宿の屋根の端を顎で示した。


「腕が、肘の先から変な方へ曲がっちまってな。骨が皮を突き破りかけてた」

「それで、神殿へ」

「女房が、宿の主人に聞いてきてくれた。骨は五枚だってな」


 大工は、まくった袖のまま、右の手を握ったり開いたりしてみせた。


「五枚は、どうやって」

「女房とひと冬かけて貯めた分と、弟子の給金をひと月待ってもらった分だ」

「ひと月も」

「弟子のやつ、文句一つ言わなかったよ。親方の腕が無くなったら、自分も食っていけねえからな」


 大工は、そう言って笑った。

 ギンが、大工のまくった袖の方を見ながら聞く。


「治してくださったのは、どんな神官さんでしたか」

「若いのだったな。手を当ててるあいだ、ずっと俺より痛そうな顔をしてやがった」

「神官さんの方が、ですか」

「骨が戻るときにゃ、さすがに俺も声が出たがね。そしたら、神官の方が先に謝りやがるんだ」


 大工は、治った右腕を左の手でさすった。

 それから、ふと真顔になって、俺の顔をまっすぐ見る。


「あんた、五枚は高いって、俺に言わせたいんだろう」

「言わせたくはありませんよ」

「なら、言っとくがな」


 大工は、まくっていた袖を下ろした。


「五枚は、高くねえ。腕が無けりゃ、大工は銅貨一枚だって稼げねえんだ」

「そうでしょうね」

「骨の飛び出しかけた腕で、次の朝には金槌が握れたんだぞ」

「次の朝に、ですか」

「ああ。十枚だって、俺は払ったね」


 大工は、それ以上は何も言わずに、梯子に手をかけた。

 右の手で一段目をつかんで、そのまま屋根まで上っていく。

 すぐに、金槌の音が、屋根の上から降ってきた。

 俺は、言い返さなかった。

 腕一本が五枚なら、高くねえ。俺だって、そう思う。


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