第6話 鍋と包丁
階段を二段飛ばしで駆け上がってくる足音は、この署ではギンしか立てない。
記録役に付いてふた月になるのに、窓口係だった頃の走り癖が、まだ抜けないらしい。
その足音が、今朝はいつもより荒かった。
「ヘイジさん、食堂の包丁が持っていかれました。鍋もです」
ギンは息を切らしたまま、俺の机に両手をついた。
銀色の短い髪が、汗で額に張りついている。東門の方から、休まずに走ってきたんだろう。
「朝、前を通ったら戸が開けっぱなしで、奥さんが窯の前に座り込んでたんです」
「店主は」
「ご主人は、空っぽの棚を黙って見てるだけでした。パンを切る包丁も無いんですよ」
「誰が持っていった」
聞くまでもなかった。
部屋の真ん中の机に、口を縛った麻袋が載っている。そこから、黒ずんだ木の柄が一本はみ出していた。
袋の横では先輩が椅子にふんぞり返って、指輪を袖で磨いている。
「朝からうるせえな。ただの差押えだろうが」
「誰の差押えです」
「街外れの食堂だよ。卸問屋への借金を、三十枚いっぺんに返したって噂があったろう」
先輩は指輪に息を吹きかけて、ようやくこっちを向いた。
「あの店の今年の申告が窓口に回ってくるのを、ずっと待ってたんだ。案の定、しけた額しか書いてねえ」
「それで」
「三十枚をぽんと出せる店が、毎年あんな額で済むわけがねえだろう」
「だから、隠してたと」
「五年分、どっかに売り上げを寝かせてたに決まってる」
麻袋を指輪の手で叩くと、中で刃物どうしがぶつかって、嫌な音がした。
「加算込みで金貨八十枚。払えねえって言うから、払うまで鍋と包丁を預かってきたってわけだ」
八十枚なら、先輩の歩合は八枚になる。
朝のうちに行って、袋一つ提げて帰るだけで八枚か。俺だって、一度くらいはやってみたくなる額だ。
だが、あの店が三十枚をどこから出したのかを、俺は一番よく知っている。
「署長んとこへ行きましょう。先輩も来てくださいよ。その袋も持って」
*
署長室は二階の奥にあって、窓が一つしかないので、昼でも薄暗い。
三人でぞろぞろ入っていくと、署長は机から目だけを上げた。
先輩が八十枚の話をすると、署長はうなずきかけた。
「三十枚を出した店なら、疑うのは筋だな」
「三十枚の出どころなら、ここにいます」
ギンが、まっすぐ俺を指さした。
「ヘイジさんが置いた飯代です。あたし、横で見てましたから」
部屋が、しんと静かになった。
先輩は口を開けたまま俺を見て、それから喉の奥でくつくつ笑い出す。
「飯代に三十枚か。歩合で六十枚入った奴は、飯の食い方が違うねえ」
「高え飯だったんだよ。それだけだ」
「へえ」
「あの店は、それを今年の売り上げに入れて、来年の春にちゃんと申告する」
「ほう」
「そしたら税も増えて、署の数字も増える。結構な話じゃねえか」
言い訳を重ねるほど先輩の笑いが大きくなるので、途中でやめた。
ギンの方は見なかった。見れば、あのまっすぐな目で、全部見られているのが分かってしまう。
「それでもだ、ヘイジ」
署長が、咳払いを一つした。
「三十枚がお前の金だったとしても、前から売り上げを隠していなかった、という話にはならんぞ」
「ええ。ですから、あの店がどれだけ仕入れてたかを、一番よく知ってる人に来てもらいました」
俺が廊下に声をかけると、戸口から男が一人、遠慮がちに入ってきた。
卸問屋の番頭だ。
先輩の顔から、笑いが消えた。
「おい、何で卸の番頭がここにいる」
「ここへ来る前に、窓口の爺さんに呼びに行ってもらったんですよ。卸の店は、すぐそこですから」
「この人は三年間、あの食堂が毎週いくら払っていくかを、カウンターの脇で見てきた人です」
番頭は署長の前で、帽子を両手で握りしめた。
「東門の食堂さんは、粉も肉も葡萄酒も、毎週ほとんど同じだけお買いになっていました」
「増えたことは」
「三年で、一度もございません。あの店の窯で焼ける分しか、お買いになりませんでしたから」
「署長。あの店が粉を買ってたのは、卸の店だけです」
「それがどうした」
「その粉で焼けるパイの数を数えると、あの店の申告とちょうど合うんですよ」
署長が、眉を寄せた。
「売り上げを隠してたなら、隠した分のパイを焼く粉が、どこかから出てこなきゃおかしい」
「出てこないのか」
「どこからも出てきません。あの店は、卸の粉の分しか焼いてないんです」
署長は返事をせずに、番頭と先輩の顔を見比べた。
この番頭の口で、署は六百枚を取っている。今さら疑うわけにはいかない。
やがて署長は、先輩の方に向き直った。
「この追徴は取り消す。袋は返してこい」
先輩の笑いが、ぴたりと止まった。
俺には、まだ言っておくことがあった。
「署長、鍋と包丁は、どの店から持ってきても同じことになりますよ」
「どういう意味だ」
「包丁を取ったら、あの店は明日から一皿も出せません」
「それがどうした」
「皿を出せない店は潰れます。潰れた店からは、来年の税が一枚も入ってこない」
「ふむ」
「取った包丁なんか売ったって、銀貨一枚にもなりゃしません」
署長は、黙って顎をさすっている。
「来年の税収を、包丁一揃いで潰すことはないでしょう」
署長はしばらく、俺の顔を見ていた。
俺が店をかばっているのか、署の税収を数えているのか、測っている目だ。両方だと言ってやってもよかったが、黙っておいた。
「鍋と包丁、寝床。それに、職人の道具もだな」
署長は指を折りながら、ぽつりぽつりと並べた。
「暮らしと商売に要る物は、差し押さえるな。今日から署の決まりにする。窓口にも伝えておけ」
それから、先輩の方は見ないまま付け足した。
「返しに行くのはお前だ。ヘイジ、ついていって見届けてこい」
*
食堂までの道を、先輩は麻袋を提げたまま、一言もしゃべらずに歩いた。
東門へ向かう通りに入ったあたりで、ようやく口を開く。
「で、三十枚の飯ってのは、何皿食ったんだ」
「一皿だ」
「一切れです」
ギンが横から正確に言い直したので、先輩は鼻を鳴らしてそれきり黙った。
食堂の戸は、閉まっていた。昼どきだというのに、煙突から煙も上がっていない。
店主は戸口の段に腰を下ろして、膝の上で手を組んだまま、通りを歩いてくる俺たちをにらんでいた。
先輩は、その前で足を止めた。
「署の手違いだ。返す」
店主が黙って受け取ろうとすると、先輩は袋を一度引いて、店の中を覗き込んだ。
「八十枚は無しになったがな。三十枚も入る店だ、来年の春の申告は、俺がじっくり見てやるよ」
店主は答えずに袋をひったくると、口をほどいて、中から大きな鉄の鍋を引っぱり出した。
毎朝火にかけてきたんだろう、底が真っ黒に焼けている。それを両手で持ち上げて、先輩の鼻先へ突き出した。
「次は、その頭をこいつで殴るぞ」
「おお、怖い怖い」
先輩は笑ってみせながら、鍋の縁に手をかけて押し戻そうとした。
指輪が鉄に当たって、かちかちと小さく鳴り続けている。先輩はその手を、慌てて袖の中に引っ込めた。
騒ぎを聞きつけたのか、奥から女房が出てきた。
袋に残った包丁を一本ずつ取り出しては、戸口の段に並べていく。大きいのが三本、小さいのが四本、それと骨を断つ厚い刃が一本。
並べ終えると、女房は先輩ではなく、俺の顔を見た。
「全部あります」
「そうか」
「……あんたのとこの署は、ひどいね」
「ああ。ひどいな」
店主は鍋を抱えたまま、肩で一つ息をした。
それから先輩の方は見ずに、女房と二人で包丁を拾い集めて、店の中へ入っていく。戸は、開けたままだった。
通りを戻りかけたところで、ギンが一度振り返った。
「煙、出てきました」
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん腹が鳴る。今日は、飯を食いに来たわけじゃねえ。
*
署に戻ると、先輩が二階の廊下で待っていた。
袖から出した指輪の手は、もう震えていない。
「三十枚で、店を買ったつもりか」
俺は答えずに、先輩の横を通り過ぎた。




