第5話 三十枚
あたしが東門の方へ足を向けたのは、昼の鐘が鳴ってすぐのことだった。
別に、用があったわけじゃない。卸問屋に六百枚の追徴が決まってから、もう四日になる。あの食堂がどうなったのか、ちょっと気になっただけだ。
ヘイジさんには言っていない。言ったら、たぶん暇なのかと聞かれる。
角を曲がったところで、あたしは足を止めた。
食堂の戸口で、ご主人が頭を下げている。相手は、卸問屋の店の印を前掛けに縫いつけた若い男だった。
「旦那は、追徴で金庫が空になっちまったんだ」
若い男は、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「だから、街じゅうの掛けを今月のうちに集めろってお達しでな」
若い男は、丸めた紙でご主人の胸を軽く叩いた。
「残りは金貨三十枚。期日は三日後だ」
「……分かってる」
「払えなきゃ、約束どおりこの店は旦那の物になる。恨むなら、旦那を売った自分を恨みな」
ご主人は頭を下げたまま、何も言わなかった。
若い男が鼻歌まじりに中央通りの方へ戻っていくと、ご主人はようやく顔を上げて、あたしに気づいた。
でも、すぐに目をそらして、店の中へ入ってしまう。戸を閉める音は、思っていたよりずっと静かだった。
しばらくして、奥さんが裏から出てきた。前掛けで手を拭きながら、あたしの前まで来る。
「あんた、この前の記録役さんだね。聞こえちまったかい」
「三日後、なんですか」
「そうなんだよ。あの旦那、自分が六百枚取られたもんだから、こっちから取れるだけ取ろうって腹なのさ」
奥さんは、何でもないことみたいに笑った。
この前、ご主人の前に立ったときと、同じ笑い方だった。
「あんたのとこの調査官さんのせいじゃないよ。うちの人が、自分で行くって決めたんだから」
「粉は、どうしてるんですか。卸から買えなくなったのに」
「粉屋から直に買ってるよ。卸より高いけどね。肉も、肉屋に頭を下げて分けてもらってる」
「じゃあ、店を取られたら」
「さあね。あの旦那に雇ってもらって、自分の店だった窯でパイを焼くことになるのかね」
あたしは、何か言わなきゃいけないと思った。
なのに、窓口で客に「その申告、嘘ですよね」と言うときには勝手に動いた口が、このときは一つも動いてくれなかった。
*
署に戻ると、ヘイジさんは二階の窓際の机で、別の店の申告を読んでいた。
「食堂、三日後に店を取られます」
「そうか」
机の前に立って言ったのに、ヘイジさんは目も上げなかった。
「卸問屋が、追徴の金を作るために掛けを取り立ててるんです。残りは三十枚だそうです」
「そうか」
「そうか、だけですか」
「ほかに何て言うんだよ」
「あの日、ご主人が来てくれなかったら、六百枚は取れなかったですよね」
「取れなかったな」
「だったら」
そこまで言って、あたしは続きが言えなくなった。
追徴で入った六百枚は、一枚残らず署と王都のお金だ。食堂に回す決まりなんて、どこにも無い。窓口で毎日お金の出入りを見てきたあたしが、それを一番よく知っている。
「だったら、何だ」
「……何でもないです」
ヘイジさんはそれきり、返事をしなかった。
ただ、持っているペンの先が、さっきから同じところで止まったまま動かない。
あたしは自分の椅子に座ったけれど、何も手につかなかった。
あの店のことを話したのに、ヘイジさんが言ったのは、そうか、と、取れなかったな、だけだ。
部屋の真ん中の机では、先輩が鼻歌まじりに金貨を数えていた。今日のあたしには、その音がやけに耳についた。
夕方の鐘が鳴ると、ヘイジさんは茶色のコートを椅子の背から取った。
「飯に行くぞ。ついてこい」
「どこへですか」
ヘイジさんはそれには答えずに、さっさと階段を下りていった。
*
署を出たヘイジさんは、中央通りを東へ歩いていく。
あたしは半歩後ろをついていきながら、通りの店の灯りが一つずつ消えていくのを数えていた。
酒場の前も、宿屋の前も素通りして、東門へ向かう道に入ったところで、さすがに行き先の見当がつく。
「まさか、食堂ですか」
「飯に行くって言っただろ」
ヘイジさんは、振り返りもしなかった。
日が落ちたばかりの食堂には、客が一人しかいない。奥の席の端で、年寄りが葡萄酒の杯を両手で抱えていた。
窯の火のおかげで、店の中は暖かい。肉の焼けるいい匂いがする。
ご主人は、あたしたちを見るなり顔をしかめた。
「何しに来た」
「飯だ。パイを一皿くれ」
ヘイジさんは、空いた席に勝手に座った。あたしも向かいに座るしかない。
ご主人はしばらく突っ立っていたけれど、やがて舌打ちをした。
「調査官に食わせるパイなんか無え、と言いたいとこだがな。銅貨を払うんなら、客は客だ」
そう言って奥へ入っていくと、切り分けた肉のパイの皿を持って戻ってきた。
皿がヘイジさんの前に、がちゃんと置かれる。縁から、パイの欠片が一つこぼれた。
ヘイジさんは文句も言わずに、一切れ取って食べ始めた。
一口ずつ、何かを確かめるみたいにゆっくり噛んでいる。署で昼にかじっている固いパンのときとは、食べ方がまるで違った。
「……うめえな」
ヘイジさんが、ぽつりと言った。
「当たり前だ」
ご主人はこっちに背中を向けて、窯の薪をいじり始める。
あたしも一切れもらって噛むと、厚い皮の中から熱い肉汁がじゅわっと出てくる。窓口の裏で食べていたお昼とは、比べものにならない。
一切れ食べ終えたヘイジさんは、指についた脂を布で拭いて、立ち上がった。
それから、コートの内側から革袋を一つ取り出す。
見覚えのある袋だった。
四日前、署の机で、ヘイジさんが六十枚を半分に分けて入れた袋だ。
ヘイジさんはその袋を、口も開けずに、皿の横へ置いた。
「悪りぃが、銅貨は払えねえ。手持ちがこれしか無くってな」
ご主人が、袋とヘイジさんの顔を見比べる。
「何だ、これは」
「釣りはいらねえぞ」
それだけ言うと、ヘイジさんはもう戸口の方へ歩き出していた。
あたしは慌てて残りのパイを口に押し込んで、椅子から立つ。
ご主人は袋を持ち上げようとして、その重さに手を止めた。口の紐をほどいて中を覗いたとたん、ご主人の顔から血の気が引いていく。
「おい、待て。こんなもん受け取れるか」
ヘイジさんは振り返らなかった。
戸口に手をかけたところで、背中を向けたまま言う。
「来年は税金が高くつくぞ。また来年、食いに来るわ」
戸が閉まった。
あたしはご主人に頭を下げてから追いかけようとして、つい足を止めてしまった。
窯の向こうから、奥さんが出てきたからだ。布巾を持ったまま、ご主人の手の中の袋を見て、黙ってそれを受け取る。
奥さんは、机の上に金貨を一枚ずつ並べ始めた。
唇だけが、数を数えて動いている。店の中で聞こえるのは、窯の薪がはぜる音と、金貨が机に当たる小さな音だけだった。
三十枚目を置いたところで、奥さんの手が止まった。
止まったまま、しばらく動かない。
「……あと三十枚、って言ったんだよ。あたし、あの人に」
奥さんは、誰に言うでもなくつぶやいた。
ご主人が前掛けを顔に押し当てて、窯の前にしゃがみ込む。その肩が、小さく揺れていた。
奥の席の年寄りは、杯を口に当てたまま、机の上の金貨を見つめている。
「飯代に……三十枚だと」
年寄りのかすれた声を背中に聞きながら、あたしは店を飛び出した。
この人はたぶん、明日の朝にはどこかの酒場で、同じことを言っているだろう。
通りの先を、茶色のコートが歩いていく。
追いかけて、いつもの半歩後ろにつく。
店の灯りに照らされたヘイジさんの耳は、後ろからでも分かるくらい赤かった。
あたしは、見なかったことにしてあげた。




