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第4話 観念

 卸問屋の店の前に着いたのは、ちょうど朝の荷車が裏口に並び始めた頃だった。

 中央通りの東の方を何度か振り返ってみたが、粉まみれの前掛けは見えない。隣でギンも、同じ方ばかり見ている。


「来ますかね、あの人」

「来なかったら、俺ひとりでやるさ」

「ひとりで、勝てるんですか」

「勝てねえな」


 ギンが呆れた顔をした。

 本当のことなんだから、仕方がない。

 ゆうべは家で、卸問屋が三年でいくら隠したのかを、ずっと勘定していた。

 その額の一割が、俺の歩合になる。それを考えていたら目が冴えてしまって、おかげで今朝は少し寝不足だ。

 ただ、その額は俺が頭の中で出しただけのものだ。卸問屋に認めさせる手が、まだ一つ足りない。


 店に入ると、番頭が昨日と同じように奥へ引っ込み、すぐに主人を連れて戻ってきた。

 卸問屋は、昨日と同じ笑顔を浮かべている。


「おや、二日続けてお越しとは。昨日は、うちの取引先を一軒ずつ回っておられたそうですな」

「ええ。今日は、その話をしに参りました」


 カウンターの前で、俺は少し声を大きくした。

 店では、荷運びの若い衆が粉の袋を担いだまま足を止めている。番頭はカウンターの脇で筆を持ったまま固まっていて、戸口には客の使いも二、三人いた。


「領収書を出さずに売った分が、この店にはありますね。カウンターの脇で、見習いが受け取っていた分です」


 卸問屋は眉一つ動かさずに、店じゅうに聞こえるような声で笑った。


「見習いが、小遣い稼ぎでもしていたんでしょう。叱っておきますよ」

「三年前から、ずっとですか」

「領収書の無い売り買いなど、この店にはございません。あったと言うなら、払った者を連れてきなさい」


 卸問屋の言う通りだった。

 俺が見たのは、袋が手から手へ渡るところだけだ。


「調査官さん、あんたが真面目な方なのは分かります」


 卸問屋は、俺の肩に手を置いた。


「ですがね、見習いの手元を眺めただけで、街一番の店に乗り込んでくるのは、どうですかな」

「いけませんか」

「さすがに、歩合が欲しすぎやしませんか。うちは先代から五十年、この通りで商売をしてるんです」


 戸口の使いたちの間から、くすくす笑う声がした。

 ギンが、拳をぎゅっと握るのが見える。


「払った者を連れてこい、とおっしゃいましたね」

「ええ、言いましたとも」

「ですから、払った人が来るのを、ここで待たせてもらいます」


 俺がそう言うと、卸問屋は今度は声を落として、俺にだけ聞こえるように言った。


「東門の食堂の亭主でしょう。昨日、あんたがあの店に寄ったのは聞いてますよ」

「耳が早いですね」

「あの男は来ませんよ。うちの粉が無けりゃ、あの店は一日だってやっていけないんだから」


 そう言うと、卸問屋は俺に背を向けた。

 カウンターの奥の番頭に、わざと店じゅうに聞こえる声で言いつける。


「おい番頭。東門の食堂に明日届けるうちの粉な、あれは積まなくていいぞ」


 番頭が、筆を持ったまま主人の顔を見た。

 隣で、ギンが息をのむ。

 卸問屋に逆らった店がどうなるのか、戸口にいるほかの店の使いたちに聞かせたわけだ。

 荷運びたちは袋を担いだまま、下ろすに下ろせずに突っ立っている。

 そのとき、戸口の方で、誰かが咳払いをした。

 振り返ると、客の使いたちが脇へよけて、その間から前掛けの男が入ってくるところだった。

 前掛けにも手にも、まだ白い粉がついている。仕込みの途中で、抜けてきたらしい。

 店主はカウンターの前まで来ると、卸問屋の顔を正面から見た。


「俺が払った。領収書はくれなかった」


 店が、しんと静まった。

 荷運びの一人が、担いでいた袋をそっと床に下ろす音まで聞こえる。


「毎週、このカウンターの脇に金を置いた」


 店主は、カウンターの脇に立つ番頭を指さした。


「領収書をくれと言ったら、そこの番頭さんが、旦那の言いつけだからって首を振った。三年、ずっとだ」


 番頭が筆を置いて、うつむいた。

 違うとは言わない。

 卸問屋の笑顔は、まだ崩れていなかった。何か言い返そうと口を開きかけたとき、戸口の方からもう一つ声がする。


「見物に来ただけなんだがな」


 中央通りの裏の酒場の主人だった。

 戸口の柱に寄りかかって、太い腕を組んでいる。


「うちもだよ。領収書の無い葡萄酒を、三年買わされた」


 主人は自分で言っておいて、頭をがりがり掻いた。


「……言っちまったな。まあいい、どうせ明日から酒は来ねえんだろう」


 卸問屋は、しばらく黙って二人を見ていた。

 それから、ゆっくりと笑い直した。さっきより、少しだけ固い笑い方だ。


「調査官さん。こいつは掛けを溜めて、うちに店を取られかけてる男ですよ」

「知ってます」

「そっちの酒場は、去年から葡萄酒の値に文句ばかり言ってる」

「それが、何か」

「借金を踏み倒したい店と、値が気に食わない店が、口をそろえて何か言ったところでね」


 卸問屋は、店の客の使いたちを見回した。


「口裏なんて、いくらでも合わせられる。証拠があるなら、出してもらいましょうか」


 店の中が、また静かになった。

 卸問屋の言う通りだった。二人がどれだけ言っても、それは二人の口から出た話だ。

 卸問屋は、今度は店主の方へ向き直った。その口から、吐き捨てるような声が出る。


「お前の店には、もう粉一袋だって卸さんからな」


 店の荷運びたちが、一斉に目を伏せた。

 それでも店主は一歩も引かずに、卸問屋をにらみ返している。


「どうせ、借金のかたにうちの店を取る気だったんだろうが」


 そのとき、カウンターの脇でうつむいていた番頭が、顔を上げた。

 そのまま誰の顔も見ずに、店の奥へ入っていく。卸問屋が、怪訝そうにその背中を目で追った。

 しばらくして戻ってきた番頭の手には、角のすり切れた分厚い帳簿が一冊あった。

 番頭は、それを黙って俺の前のカウンターに置いた。


「番頭、お前、何を……」

「旦那、もう帳簿を二通りつけるのは勘弁してください」


 番頭は、主人の方を見ないまま続けた。


「お役人に見せる方は、毎年わたしが一晩で作り直してたんです」


 番頭は、帳簿の表紙に手を置いた。


「先代がご存命のうちは、こんなものは一冊も無かった」


 卸問屋の手が、カウンターの上へ伸びた。

 番頭は、その手の前に、黙って自分の体を入れた。


「どけ」

「どきません」


 番頭の声は、少し震えていた。それでも、一歩も動かない。

 卸問屋の顔が、そこで崩れた。

 頬の肉が下がって、口が半開きのまま動かなくなる。言い返す言葉を探すように店を見回したが、荷運びも番頭も客の使いたちも、誰ひとり主人と目を合わせようとしない。

 肥えた体が、カウンターの脇の椅子にどさりと落ちた。

 しばらくして、卸問屋がかすれた声で俺に聞いた。


「……何年分だ」

「三年分です。領収書を出さずに売った分に、隠していた分の加算を乗せまして」


 俺はカウンターに手を置いて、店じゅうに聞こえるように言った。


「〆て、金貨六百枚」


 卸問屋は、それを聞いても顔を上げなかった。椅子に沈んだまま、ぼんやりと自分の店の中を眺めている。

 もう店の中に、主人の側に立つ者は一人も残っていなかった。

 店主は、何も言わずに帰っていった。酒場の主人も、いつの間にか戸口から消えている。


     *


 署へ戻る道で、ギンはしばらく黙って歩いていた。


「食堂の人、これで卸から何も買えなくなりますね」

「ああ」

「借金もあるのに。どうするんでしょう」

「俺は調査官だ。卸の代わりに、粉を売ってやるわけにはいかねえよ」


 ギンは何か言いたそうに俺の顔を見上げたが、それきり口を閉じた。


     *


 番頭の出したものを三日かけて数え直すと、臨場の前の晩に俺が頭の中で勘定した額と、十枚も違わなかった。

 卸問屋が金庫の金で六百枚を納めた日の夕方、署長が二階の俺の机まで、歩合の袋を持ってきた。


「でかいのを釣ったな、ヘイジ。春の締めは、これで去年を越える」


 署長は上機嫌で袋を置くと、部屋の真ん中の机をちらりと見てから、自分の部屋へ戻っていく。

 真ん中の机では、先輩が机に向かったまま、こっちを見ようともしない。指輪の手が、同じ紙を何度もめくっては戻していた。

 ようやく顔を上げたかと思うと、先輩は鼻を鳴らした。


「六十枚か。せいぜい、使い道を間違えるなよ」

 袋の口を縛ったまま、手のひらに載せてみる。

 何度か上げ下げして重さを量ってから、口をほどいて中身を机に空けた。

 金貨が六十枚。

 十枚ずつ積むと、山が六つできる。崩して、もう一度積み直す。何度数えても六十枚なのに、数えるたびに積むのが速くなっていくのが、自分でも分かった。

 隣の椅子から、ギンがじっとこっちを見ている。


「何だよ」

「何も言ってません」


 そう言いながら、ギンの目は俺の手から離れない。

 俺は引き出しから、使っていない革袋をもう一つ出した。六つの山のうち三つを崩して、一枚ずつ数えながら、そっちの袋へ移していく。

 両方の袋の口を縛って、片方を引き出しに戻し、もう片方をコートの内側にしまった。

 椅子から立つと、コートの左側だけが、少し重かった。


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