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第3話 買った方は覚えてる

 中央通りの裏の酒場は、昼前だというのに戸が半分開いていた。

 中では、太った主人がひとりで机を拭いている。俺のコートを見たとたん、布巾を持つ手がぴたりと止まった。


「うちは去年の分、ちゃんと払ったぜ」

「知ってますよ。今日はおたくの話じゃないんです」

「じゃあ、何の用だ」

「昨日の朝、卸問屋のカウンターの脇で、小さな袋を渡してましたよね」


 主人は、俺の後ろに立っているギンの顔を見た。

 それから、もう一度俺を見る。


「……見てたのか」

「ええ。領収書は、もらってませんでしたね」


 主人はしばらく黙って机を拭いていたが、やがて布巾を放り出して、椅子にどっかり腰を下ろした。


「領収書をもらわなきゃ、葡萄酒が一割安くなるんだよ」

「なるほど」

「うちだけじゃねえぞ。この通りの店は、みんなやってる」

「いつからです」

「さあな。三年か、もっと前か」


 主人は棚から杯を二つ取って、葡萄酒の瓶を傾けかけた。


「まあ、一杯やってけよ。せっかく来たんだ」

「仕事中なんで、やめときます」

「堅えなあ。歩合取りってのは、もっと話の分かる連中だと思ってたぜ」

「話の分かる歩合取りなら、裏通りの鍛冶屋にでも行ってください」


 ギンが、後ろで小さく吹き出した。

 主人は肩をすくめて、自分の杯にだけ葡萄酒を注いでいる。


「その話、卸問屋の前でも言えますか」

「言えるわけねえだろ」


 主人は、鼻で笑った。


「あそこに睨まれたら、明日から酒が一滴も来なくなる。酒の無い酒場なんて、ただの椅子置き場だぜ」


 それはそうだ。

 俺は礼を言って、酒場を出た。


「あの人、全部言ってくれましたね」


 ギンが、後ろから追いついてくる。


「言っただけだ。卸の前で言えねえ話じゃ、金は一枚も取れねえよ」

「じゃあ、意味がなかったんですか」

「三年って数は聞けた。意味ならあるさ」


     *


 西門の方の黒パンの店では、恰幅のいい女将が戸口に出てきた。

 話を半分も聞かないうちに、粉だらけの手を顔の前で振っている。


「勘弁しとくれよ。うちを巻き込まないでおくれ」

「巻き込むつもりはありませんよ。ちょっと話を聞きたいだけで」

「去年、南の通りの菓子屋がどうなったか、知ってるかい」


 女将は声を落として、通りの左右を確かめた。


「卸の旦那に、値上げはおかしいって言ったんだよ」

「それで」

「次の日から、砂糖が一粒も来なくなった。ひと月もたたずに店じまいさ」

「砂糖を、ほかの卸から買えばよかったのに」


 ギンが言うと、女将は気の毒そうな顔をした。


「この街で砂糖を卸してるのは、あの旦那のとこだけなんだよ、お嬢ちゃん」


 女将はそれだけ言うと、戸を閉めてしまった。

 宿屋の主人は、もっと早かった。俺の顔を見るなり、奥へ引っ込んで出てこない。


 通りを戻りながら、ギンが首をかしげた。


「さっきの酒場の人も、三年前からって言ってましたよね。三年前に、何かあったんですか」

「卸の先代が死んで、今の旦那が店を継いだのが三年前だ」

「じゃあ、今の旦那さんになってから」

「そういうことだろうな」


 先代は、街の者に好かれていたと聞く。息子の方は、帳簿をきれいにつけるのだけは先代に負けないらしい。


「みんな、卸問屋が怖いんですね」

「怖いってより、商売なんだよ。粉も酒も砂糖も来なくなったら、店はやっていけねえ」


 俺だってあいつらの立場なら、歩合取りに戸を閉める。


「残りは一軒だな」

「東門の方の食堂です。昨日、すごい顔でにらんでた人の店ですけど」

「知ってるよ」


     *


 食堂は、東門へ向かう道の角にあった。

 昼どきを過ぎて、客はもういない。煙突から細い煙が上がっていて、肉の焼ける匂いが道まで漂ってくる。

 腹が鳴った。

 隣でギンが、聞こえなかったふりをしている。


「……朝飯を抜いたんだよ」

「何も言ってません」


 戸を開けると、窯の前にいた店主が振り返った。昨日の、粉まみれの男だ。


「昨日、卸の店で見てた歩合取りだな」


 店主は、手に持っていた木べらを台に置いた。


「うちの帳簿を狙う気か。言っとくが、うちは一枚もごまかしちゃいねえぞ」

「おたくを調べに来たんじゃありません。調べてるのは、卸問屋の方です」

「信じられるか、そんな話」


 店主は腕を組んで、戸口をふさぐように立った。

 そのとき、奥から女の声がした。


「あんた、お客さんかい」


 前掛けで手を拭きながら出てきたのは、店主と同じくらいの年の女だった。

 女房らしい。俺のコートを見て、それから店主の背中を見ると、あっさり言う。


「卸の旦那の話なら、聞かせてやりゃいいじゃないか」

「黙ってろ」

「黙ってたって、どうせ取られる店だろ」


 店主の肩が、びくりと動いた。

 俺は、女房の方に聞いた。


「取られる、ってのは」

「うちはね、あの旦那に借金があるんだよ」


 女房は、店の隅の椅子を俺たちに勧めて、自分も腰を下ろした。

 店主は立ったまま、窯の方を向いている。


「三年前くらいからかね。粉も肉も、急に値を上げられてさ」

「払えなかったんですか」

「払えないって言ったら、じゃあ掛けにしてやるって言われてね」

「掛けで買わされたんですね」

「そう。気がついたら、とても返せない額になってた」

「それで、店を」

「去年、期日までに返せなかったらこの店をよこせ、って約束させられたんだ」

「残りは」

「あと三十枚。金貨でね」


 女房は笑ったが、目は笑っていなかった。

 金貨三十枚なら、こういう店の半年分の稼ぎだ。


「この窯はね、うちの人の親父さんが積んだんだよ」


 女房が、窯の方へ顎をしゃくった。

 店主は背中を向けたまま、木べらで窯の火をつついている。


「この人は、生まれたときからこの匂いの中で育ったんだよ」

「いい匂いですもんね」


 ギンがそう言うと、店主の木べらが一瞬だけ止まった。


「だろ? それなのにあの旦那は、借金のかたに、この窯ごと店を取り上げようとしてるんだよ」


 俺は、さっきから聞きたかったことを聞いた。


「領収書の出ない分は、どうやって払ってました」

「うちの人が、毎週あのカウンターの脇に持っていってたよ」

「何の分を、ですか」


 ギンが、横から身を乗り出した。


「粉と肉と、葡萄酒の分さ。一度も抜かしたことはないね」

「領収書は」

「一枚ももらってない。くれって言ったら、次から粉の値をもっと上げるって言われたんだってさ」


 ギンが、横で小さく息を吸った。

 俺は、女房の顔を見た。


「今の話を、卸問屋の前でも言ってもらえますか」

「やめろ」


 店主が、窯の前から振り返った。


「そんなことをしたら、卸から何も買えなくなる」

「どっちにしたって、取られるんだよ」


 女房が言い返しても、店主は首を振った。


「粉も肉も来なけりゃ、借金を返す前に店が潰れちまうんだぞ」


 女房は立ち上がると、店主の前まで歩いていった。


「あの旦那に払ったのは、あたしたちだろ。払ったって言って、何が悪いのさ」

「お前は分かってねえんだ」

「分かってるよ。あんたが毎週、あのカウンターの脇で頭を下げてたのも、全部ね」


 店主は何か言い返そうとして、口を閉じた。

 窯の中で、薪がはぜる音がした。

 しばらくして、俺は椅子から立ち上がった。

 店主はまだ窯の方を向いたまま、こっちを見ない。


「明日の朝、卸問屋の店に行きます。もし来てもらえるなら、カウンターの前で待ってます」


 店主は答えなかった。

 女房だけが、黙ってうなずいた。


「来ますかね、あの人」


 食堂を出て角を曲がったところで、ギンが聞いた。


「さあな」

「来なかったら、どうするんですか」

「来なかったら、俺が卸の前でひとりで恥をかくだけだ」

「……それ、本気で言ってます?」

「本気だよ。だから来てほしいんだがな」


 振り返ると、食堂の煙突から上がる煙が、さっきより少し太くなっている。

 夜の仕込みが始まったらしい。

 また腹が鳴ったので、今度はギンより先に咳払いをしておいた。


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