第54話 巡礼宿
王都からの返事は、夏になっても来なかった。
坂の石畳が昼には熱くなるころ、あたしは坂の中ほどの巡礼宿に泊まることにした。
言い出したのは、あたしの方だ。
「巡礼の人は、門の内に入れますよね」
「入れるな」
「門の内から出てきた人が、夜に何をしゃべってるのか、聞いてみたいんです」
ヘイジさんは、署の二階の窓から坂の上を眺めたまま、少し考えていた。
「宿代は、自分の給金から出せよ」
「……出してくれるんですか」
「出さねえって言ったんだよ」
だから、宿代はあたしの給金から出している。
*
宿は、坂の道に面した、白い三階建てだった。
戸口をくぐると、丸い顔のご主人が、カウンターの向こうから大きな声で迎えてくれた。
「いらっしゃい。一人かい」
「はい」
「若いのに、えらいねえ。で、何を治してもらいに来たんだい」
ご主人は、あたしの頭のてっぺんから足の先まで、悪い所を探すように眺めた。
「どこも、悪くないです」
「なんだ、お参りだけかい。感心だ」
ご主人はそれきり、あたしが誰なのかを聞かなかった。
聞かれたら、署の者だと言うつもりでいた。窓口にいた頃から、聞かれて嘘をついたことは一度も無い。
でも、誰も聞いてくれなかった。
夕方になると、一階の長い机に、その日に着いた巡礼の人たちが集まってきた。
灰色の上着を脱いで、パンとスープの晩ごはんを食べる。ほとんどの人が、食べる前に手を組んでお祈りをしていた。
ご主人は、空いた皿を下げながら、机を一人ずつ回っていく。
「あんたは、どこが悪いんだい」
「去年の冬に、荷車の下敷きになりましてね。脚の骨が、どうも曲がってくっついちまって」
杖を椅子に立てかけた男が、膝をさすりながら答えた。
「骨か。なら、五枚だ」
「五枚」
「金貨で五枚だよ。用意してきたかい」
「ええ、まあ」
「なら、今夜のうちに五枚だけ、別の袋に分けときな。門の前で財布から数えてたら、後ろがつかえるからね」
男は、うなずいて、懐から袋を一つ出した。
ご主人は、もう次の人のところへ行っている。
顔を赤くして、ずっと汗を拭いている女の人だった。
「熱かい。なら、三枚だ」
「三枚で、足りますか」
「足りる足りる。熱は三枚って決まってるんだ」
決まってる、とご主人は言った。
あたしは、スープのスプーンを持ったまま、その言葉を聞いていた。
ご主人は、その奥の机でも足を止めた。
片方の目が白く濁った、四十くらいの男の人の前だ。
「目かい。目は十枚だよ」
「十枚……」
「目は高いんだ。そのぶん、よく見えるようになるさ」
男の人は、濁っていない方の目で、自分の袋をじっと見ていた。
隣の机で、今度は白髪のおじいさんが手を挙げた。
「なあ、ご主人。多めに入れといた方が、神様はお喜びになるかね」
「いやいや、決まった数でいいんだよ。多くても少なくても、門番さんが困るからね」
「少なかったら、どうなる」
ご主人は、皿を重ねる手を止めた。
「門の前で、帰されるよ。悪いことは言わないから、きっちり持っていきな」
おじいさんは、黙って自分の袋の口をほどいた。
机の上に、金貨を一枚ずつ並べていく。並べ終わると、ほっとしたような顔で、またそれを袋に戻した。
あたしは、門の前で袋の口を開けていた女の人のことを思い出していた。
腕に、咳をする子供を抱いていた人だ。
*
朝ごはんは出さないから隣の粥屋で食べな、とご主人に言われていた。
隣の粥屋は、間口の狭い、小さな店だった。
戸口の脇で、大きな鍋が湯気を上げている。その前で、日に焼けたご主人が、長い木のへらで鍋の底をかき回していた。
店の中には、細い机が一つと、長い腰掛けが二つあるだけだ。巡礼の人が、腰掛けにぎゅうぎゅうに詰まって座っている。
空いた所に座ると、奥さんが鍋から粥をよそってくれた。
「はい、お待ちどおさま」
よそったお椀を運ぶのは、女の子の役目らしい。
十二か、十三くらいだろう。奥さんからお椀を両手で受け取ると、顔のすぐ前まで持ち上げて、中をのぞいている。
それから、腰掛けのあいだを、一歩ずつ確かめるように歩いてきた。
お椀を置く前に、片手の指先で、机の縁にそっと触る。それから、あたしの前にお椀を置いた。
「どうぞ。熱いから、気をつけてね」
「ありがとう」
山羊の乳で煮た、燕麦の粥だった。
上に、砕いた胡桃がひとつまみ散らしてある。スプーンですくって口に入れると、乳の甘さのあとから、胡桃の香ばしいのが来た。
女の子は、あたしの横に立ったまま動かない。
あたしの頭の方へ、ぐっと顔を寄せてくる。
「お姉さんの髪、何色?」
「銀色って、よく言われます」
「近くで見ていい?」
あたしがうなずく前に、女の子は、もう鼻がくっつきそうな所まで顔を寄せていた。
「ほんとだ。銀色だ」
「こら」
鍋の前から、ご主人が振り返った。
「お客さんの頭を、そんなに近くで見るもんじゃない」
「いいですよ、別に」
あたしがそう言うと、ご主人は少しだけ困ったように笑って、また鍋の方を向いた。
女の子は満足したように体を起こすと、空いたお椀を下げに行く。その途中で、腰掛けの脚に足をぶつけてしまった。
お椀は落とさずに、いた、と小さく言って、すぐに笑っている。
「ほら、また。ちゃんと足もとを見な」
奥さんがそう言って、女の子の手からお椀を受け取る。
鍋の前のご主人は、へらを動かす手を止めて、女の子の方を見ていた。
それから、何も言わずに、また鍋の底をかき回しはじめた。
あたしは、粥の代に銅貨を一枚、机の上に置いた。
*
昼過ぎに、門の内から巡礼の人たちが下りてきた。
宿の戸口で、ご主人が一人ずつ迎えている。
坂の上の方から、ゆうべの、脚の骨が曲がってくっついたという男が下りてくるのが見えた。
杖を、手に持っていない。
杖は、肩に担いでいた。
一歩ずつ、坂の石畳を確かめるように踏んでいる。それが、宿の前まで来ると、急に早足になった。
「ご主人!」
男は、宿のご主人の両手をつかんだ。
「見てくれ、真っすぐだ。真っすぐ歩ける」
「な、言ったろう」
「神官様が、手を当ててくださったんだ。膝の中が、こう、熱くなって」
男は、何度も自分の膝を叩いた。
叩くたびに、目から涙が落ちていく。
ご主人は、男の肩を抱いて、宿の中へ連れていった。
あたしは、戸口の脇に立って、それを見ていた。
治るのは、本当なんだ。
あの人は、冬からずっと、曲がった脚で歩いてきたんだろう。それが、たった一日で、真っすぐになった。
あたしだって、喜んでいる人の顔を見て、嬉しくないわけじゃない。
男の腰には、ゆうべ五枚を分けて入れた袋が、もう下がっていなかった。
夕方、宿のご主人が戸口の前を箒で掃いていたので、あたしは聞いてみた。
「骨は五枚とか、熱は三枚とか、あれは誰が決めたんですか」
「さあねえ。わしがこの宿を継いだときには、もう決まってたよ」
ご主人は、箒の手を止めずに答えた。
「親父も、来た人に同じことを言ってた」
「神殿の方が、決めてるんですか」
「門番さんに聞いてごらん。……いや、やめといた方がいいな」
「どうしてですか」
「お参りの人が値段のことなんか聞いたら、門番さんに変な顔をされるよ」
そう言ってから、ご主人は自分で笑い出した。
「おっと、値段って言っちゃいけないんだった。寄進だよ、寄進」
「でも、決まってるんですよね」
「決まってた方が、みんな安心するのさ」
ご主人は、掃き集めた砂を、道の端へ寄せた。
「いくら持ってきゃいいのか分からないのが、遠くから来る人には一番困るんだよ」
「帰されるから、ですか」
「そうさ。何日も歩いてきて、足りなくて帰されたら、泣くに泣けないだろう」
ご主人の顔は、本当にそう思っている人の顔だった。
あたしは、何も言い返せなかった。
*
その夜、あたしは三階の部屋で、なかなか眠れなかった。
この宿の壁は、薄い。階段の下から、遅く着いた巡礼の人とご主人の声が、上がってくる。
「熱かい。なら、三枚だ」
ゆうべと、同じ言い方だった。
しばらくして、机の上に金貨を置く音が、一つずつ聞こえてきた。
一枚。二枚。三枚。
そこで、音がやんだ。
「よし、それでいい。今夜はよく寝ときな」
ご主人の声は、少しも悪いことをしている声ではなかった。
宿に着いた人に、一番大事なことを教えてやっている声だ。
門の前で、あの司祭様は、お気持ちですからいくらでも、と言った。
この宿では、誰もお気持ちとは言わない。
骨は五枚。熱は三枚。目は、十枚。
どれも、あたしが自分の耳で聞いた値段だった。




