第51話 開かない門
春の日なたは、窓辺の椅子の上がいちばん暖かい。
この署に来て十五年、朝の仕事はたいてい、そこで爪を切ることから始まる。切り終えたら、目を閉じる。目を開けたら、昼だ。
その朝は、爪を三本切ったところで、表の通りに馬車の止まる音がした。
降りてきたのは、王都の使いだった。
細い男だ。去年の刈り入れの朝に、次官からの上等なコートを箱に入れて運んできて、そのまま箱ごと持って帰った男でもある。
今度は、箱を抱えていなかった。脇に挟んでいるのは、筒に巻いた紙が一本きりだ。
それを見ただけで、何を持ってきたのかは見当がついた。
開けっぱなしの戸の向こうでは、上席さんが自分の机で申告の紙をめくっていた。顔も上げずに言う。
「署長、また爪ですか」
「三本目だよ」
「十本切り終わる前に、王都の人が入ってきますよ」
入ってきた。
窓口の女が立ち上がって頭を下げると、使いは、まず私の方へ会釈をした。
「署長に、少しだけお話がございまして」
私は爪切りを引き出しにしまって、使いを自分の部屋に通した。
部屋の戸を閉めたのは、何年ぶりだろう。
部屋には、机と椅子のほかに、棚が一つあるきりだ。棚には、王都へ送った税の控えと、伯爵様から届いた紙の束が、十五年分ほこりをかぶっている。
使いは椅子に浅く腰かけると、膝の上で手を組んだ。
「穀倉の署は、今年の春の締めで、王都に送る額が去年の何倍にもなるそうですね」
「窓口が、そう言っていたね」
「財務院でも、話に出ておりました」
私は、自分では数えていない。
去年の今ごろと比べて、窓口に来る村の者の数が増えた。それくらいのことしか知らない。
「それから、これは王都の廊下で耳にしただけの話ですが」
使いは、膝の上で組んだ手を、ほどきもせずに続けた。
「伯爵様が、王都へ不服をお出しになりました」
「何の不服だね」
「名義の畑の件だと伺っております。書いたのは、新しい代官の方のようで」
「そうだろうね。伯爵様は、ご自分で筆を持つお方じゃない」
「もう一つ。神殿都市の大司祭様は、伯爵様の遠縁にあたられるそうです」
使いは口を閉じて、膝の上の手を組み直した。
どうしてその話を私にするのかは、言わない。私も、聞かなかった。
筒の紙の行き先が神殿都市だということは、それで分かった。
分かってみると、何も驚くことではない。去年の刈り入れのころは港の功を褒めるコートで、今年の春は神殿都市への辞令だ。どちらも、同じ王都の机から出てきている。
私は、棚の上の束に目をやった。
五年のうち三年、伯爵様の代官が凶作の届けを持ってきて、窓口の机に置いていった。
私は、その届けを一度も開かずに判を押した。
貴族には触るな。触っても何も出ない。そう言って、十五年この署にいた。
あの男は、ひと夏で触った。
出てきたのは、金貨四千二百枚だった。
使いが、椅子から腰を上げかけて、思い出したように私の顔を見る。
「上席は、こちらではいかがでしたか」
「よく食べる男だったね。市場のパン屋で、毎朝二つ買っていた」
「二つ、ですか」
「それと、よく数えていたよ。秤の年寄りのところにも、粉屋にも通っていた」
使いは、さようで、とだけ言って立ち上がった。
何を聞きたかったのかは、この男にも分かっていないような顔だった。
*
使いが辞令を読み上げたのは、表の部屋の、上席さんの机の前だった。
上席さんは、椅子から立って聞いていた。隣の机では、記録役の娘も立っている。
「右の者を、神殿都市の署へ移すものとする。記録役も、同行させるものとする」
「神殿ですか」
上席さんの返事は、それだけだった。
「申し添えておきますが」
使いは、辞令を畳みながら言った。
「あの街は、国王の許可が無ければ、調査官を門の内へ入れません」
「入れないって、署の調査官もですか」
「信者でない方は、どなたも。それが、あの街の古い決まりでございます」
記録役の娘が、上席さんの顔を見た。
上席さんは、辞令を受け取って、表と裏を一度ずつ見た。
「入れなきゃ、外から数えるだけですよ」
使いの細い顔が、ほんの少しだけ動いた気がした。
笑ったのか、困ったのか、私には分からない。
「それと、伯爵様の不服ってのは、百五十枚の方ですか」
「お耳が早いですね」
「署長の部屋の戸は、閉めても隙間だらけなもんでね」
十五年もいて、私はそれを忘れていた。
上席さんは、辞令を机の上に置いた。
「俺の千二百枚は、まだ王都の引き出しですか」
「屋敷の主の不服が、まだ片づいておりません」
「伯爵の百五十枚の歩合まで、同じ引き出しに入れられたら困るんですがね」
「お伝えしておきます」
使いは、顔の色一つ変えずにそう言って、頭を下げた。
*
発つのは、次の日の朝だった。
その前の晩、私は引き出しから袋を一つ出して、上席さんの机に置いた。
伯爵様の四千二百枚の、歩合の分だ。異議の期限は、冬のうちに過ぎている。
「数えるのかね」
「数えますよ」
上席さんは、袋の中身を机の上に空けた。
十枚ずつ積んでいくと、山が四十二できた。
それで終わりかと思ったら、上席さんは端の山を崩して、また一枚ずつ積み直しはじめた。
自分の手で金を数える男を、私はこんなに近くで見たことがない。
記録役の娘は、帰り支度の手を止めて、黙ってそれを見ている。
やがて上席さんは、金貨を袋に戻して、口の紐を縛った。
「百五十枚の方が片づいたら、その分は神殿まで届けてください」
「門の内へは、届けられないよ」
「門の外で、受け取りますよ」
上席さんは、袋をコートの内側にしまった。
去年の春にこの署へ来た日と同じ、茶色のコートだ。袖口の糸が一本、ほつれて垂れている。
そのとき、表の戸が開いた。
入ってきたのは、川沿いの村の、川下の農夫だった。
去年の収穫祭の日に、伯爵様の庭で一人だけ前に出たのがこの男だと、前に窓口の女が教えてくれた。冬のうちに十枚を持ってきたのも、この男だ。
農夫は窓口の前で帽子を取って、上席さんの方を見た。
「明日、発つって、市場で聞いた」
「ええ。朝の馬車で」
「次は、どこへ行くんだ」
「神殿都市です」
「遠いのか」
「麦の土地からは、だいぶね」
農夫は、帽子を両手で持ったまま、少し黙っていた。
礼を言うのかと思った。言わなかった。
上席さんの方も、何も言わずに待っている。
「……そうか。神殿か」
農夫はそれだけ言うと、帽子をかぶり直して、表へ出ていった。
戸が閉まってから、記録役の娘が上席さんの顔を見た。
「行き先を、聞きに来ただけですかね」
「知らねえよ」
上席さんは、それきり帰り支度に戻った。
*
朝の馬車は、市場の前から出た。
私は、署の戸口まで出て、それを見送った。
窓口の女が、私の顔を不思議そうに見ている。十五年で、私が戸口まで出たのは、たぶん初めてだ。
馬車に乗り込む前に、記録役の娘が私の前で足を止めた。
「署長さん。爪、ちゃんと十本切ってくださいね」
「……覚えておくよ」
娘は真顔のまま頭を下げて、馬車に乗った。
上席さんは、馬車の窓から市場の方を見ていた。記録役の娘は、反対の窓から川の方を見ている。
川沿いの畑では、もう種をまき終えたころだろう。
どちらも、手は振らなかった。
馬車が麦の倉の陰に消えてから、私は署の中へ戻った。
「署長、お茶を淹れましょうか」
「あとでいい」
窓口の女は、もう一度不思議そうな顔をした。
奥の部屋の日なたの椅子は、いつもと同じ場所にある。
表の部屋では、上席さんの机が空いていた。紙も、ペンも、何も載っていない。
私は、日なたの椅子には座らなかった。
自分の部屋の棚から、伯爵様の届けの束を下ろしてくる。ほこりを手で払って、空いた机の上に置いた。
紐をほどくのに、ずいぶん手間取った。
一枚目は、四年前の凶作の届けだった。
見慣れた代官の字で、凶作と書いてある。その下に押してあるのは、私の判だ。
私は、その一枚目を、初めて頭から読んだ。
読み終えると、指で行を押さえながら、麦の袋の数を、一つずつ数えはじめた。




