第50話 一枚の畑
川沿いの種まきは、今日かららしい。
ヘイジさんがそう言ったのは、朝、市場の大秤の前で、秤のおじいさんと立ち話をしたあとだった。
言ったのはそれだけで、行けとも、行くなとも言わない。そのまま、さっさと署の方へ歩いていってしまった。
だから、あたしは一人で川沿いへ来ている。
穀倉に来て、ちょうど一年になる。去年の今ごろ馬車の窓から見た緑の縞も、この川沿いでは、これからだ。
川沿いの畑は、どれも黒く起こしてあった。
畑の真ん中を、娘さんのとこのご主人が歩いている。腰に下げた袋に手を入れては、種麦をひとつかみ、扇を開くように前へまく。三歩進んで、またひとつかみ。
その後ろを、お父さんが歩いていた。
まいたばかりの種に、木の熊手で土をかぶせていく。腰は曲がっているのに、熊手を引く手だけは、ご主人の足に少しも遅れない。
「親父、そこはもう少し深くだ」
「分かってる。鳥にやる麦なんか無えよ」
畑の端では、奥さんが、空になった袋に新しい種麦を詰め直していた。
話しているのは、種と土のことだけだった。
*
両隣の畑でも、種まきが始まっていた。
川上の側の畑では、収穫祭の日に足を出しかけたご主人が、牛に馬鍬を引かせている。この冬、畑の公売のあとで、牛を売らずに済んだと奥さんが言っていた、あの牛だ。
川下の側では、白髪のおじいさんが、種を一つかみずつまいていた。
どちらの畑の畦にも、新しい杭が打ってある。
杭の頭に焼きつけてあるのは、伯爵様の紋ではなかった。市場の穀物商が、麦の袋につけている店の印だ。
畦の上には、穀物商の店の若い男が一人立っていて、畑ごとに、何か口で数えては指を折っていた。
村の一番奥の、少し高い畑でも、誰かが種をまいている。
目を凝らすと、村長さんだった。
あの畑も、今は穀物商の畑だ。村長さんは、ほかの家と同じ速さで、同じように種をまいている。
お昼の少し前に、川上の側の牛が、畦を越えて、娘さんのとこの畑に入ってきた。
起こしたばかりの土に、蹄の跡がいくつもつく。
ご主人は種をまく手を止めると、牛の方へ歩いていって、垂れていた手綱を拾った。
牛を畦の向こうまで連れて戻して、手綱を、隣の畑のご主人に渡す。
「おう」
「おう」
二人が言ったのは、それだけだった。
隣のご主人は牛を引いて、自分のではなくなった畑へ戻っていく。娘さんのとこのご主人は、蹄の跡を足で均してから、また袋に手を入れた。
両隣の新しい杭のあいだで、あの家の畑だけが、杭の無い一枚になっていた。
*
お昼になると、畑の人たちは、それぞれの畦に腰を下ろした。
川上の家は川上の畦に、川下の家は川下の畦に。穀物商の若い男は、新しい杭の一本に寄りかかって、一人で川の方を眺めている。
あたしが畦の端に立っていると、奥さんが手招きをした。
「お嬢さん、こっちへお座りよ。炒り麦しかないけどね」
奥さんは布の包みを開いて、あたしの手のひらに、炒った麦をひとすくい載せてくれた。
香ばしい匂いがする。噛むと、かりっと割れて、粗い塩の味が舌に残った。
あたしは上着のポケットから銅貨を一枚出して、包みの横に置いた。
「何だい、これ」
「お代です」
「炒り麦に、お代なんか取らないよ」
「取ってください。あたし、署の者なので」
奥さんは、銅貨をつまみ上げてしばらく眺めてから、吹き出した。
「あんたのとこの調査官さんも、そういうことをしそうだね」
奥さんは笑いながら、銅貨を前掛けのポケットにしまった。
ご主人は、畦の少し離れたところで、黙って炒り麦を噛んでいる。その隣で、お父さんが水の入った革袋を傾けていた。
「村長さんも、種をまいてましたね」
「毎朝、誰より先に畑に出てるよ。もう自分の畑じゃないのにね」
奥さんは、村の奥の高い畑の方を見た。
「穀物商の若いのが来る前に、一枚まき終えちまうんだから」
「村長さんとは、話しますか」
「井戸で会うと、おはようって言ってくれるよ。前と同じにね」
奥さんは、炒り麦を一粒、指先でつまんだ。
「村の人は、みんなそうさ。おはようって言って、それでおしまい」
あたしは、何と答えればいいのか分からなかった。
奥さんの方も、答えを待っている顔はしていない。つまんだ一粒を口に入れて、ゆっくり噛んでいた。
お昼が済むと、お父さんが真っ先に畦から立ち上がった。
熊手を拾いかけたところで、あたしは声をかけた。
「あの、それ、手伝えませんか」
「調査官のお嬢さんがかい」
「記録役です」
お父さんは、しばらくあたしの顔を見ていた。
それから黙って、熊手の柄をこっちへ向ける。
まいた種の上を、見よう見まねで引いてみた。思っていたより、ずっと重い。土の上を滑るばかりで、種がちっとも隠れてくれない。
「浅い。それじゃ、鳥の餌だ」
「すみません」
「手で引くんじゃねえ。腰で引くんだ」
言われたとおりに腰を落とすと、熊手の歯が、やっと土に沈んだ。
黒い土が、麦の粒の上にかぶさっていく。
お父さんは、あたしが引いた跡を、自分の足で一つずつ踏んで確かめていた。
「窓口ってのは、熊手は使わねえのか」
「ペンしか使いませんでした」
お父さんは、喉の奥で短く笑った。
五歩も引かないうちに、熊手は取り上げられてしまった。
お父さんは、あたしが引いた所をもう一度引き直しながら、ときどき川下の側の畑に目をやった。白髪のおじいさんが種をまいている、穀物商の杭の立った畑だ。
何を見ているのかは、あたしには分からなかった。
*
「お姉ちゃん」
畦にしゃがんで見ていたら、後ろから袖を引かれた。
娘さんだった。去年の夏より、背が少しだけ伸びている。
「こっち来て。いいもの見せたげる」
手を引かれて、畑の裏の家の方へ行った。
家の壁に沿って、割った薪が腰の高さまで積んである。
娘さんは、その一番上から、薪を一本引き抜いた。
ほかの薪より、ずっと太い。四角く削った木を、縦に二つに割ったものだ。片方の面の端が、黒く焦げている。
焦げの中に、鹿の角の焼き印が、一本ぶんだけ残っていた。
「これね、伯爵様の杭なの」
「杭なの?」
「とうちゃんがね、収穫祭の次の日に、畑の杭をみんな抜いたの。それで、斧で割っちゃった」
娘さんは、焦げたところを指でこすった。
黒い粉が、指先についた。
「すごくよく燃えるんだよ。かあちゃんが、伯爵様の杭はいい木を使ってるって」
「そうなんだ」
「これだけね、まだ燃やしてないの。角が一本残ってるから」
娘さんは、薪を両手で抱えて、焼き印をあたしの方に向けた。
二本を交えた紋だったのが、割られて、一本きりになっている。
「とうちゃんがね、これは種まきが済んだ晩に燃やすんだって」
「どうして、その晩なの?」
「知らない。とうちゃん、聞いても教えてくれないの」
娘さんは口をとがらせてから、薪を一番上に戻した。
焼き印を外の方へ向けて、ていねいに置き直す。
「だから、今夜燃やすの。お姉ちゃんも見に来る?」
「今夜は、宿に戻らなきゃいけないの」
「なんだ」
娘さんは、ちっとも残念そうじゃない顔で言った。
*
畑に戻ると、ご主人が、腰の袋を詰め直しに畦まで来ていた。
あたしに気づくと、少しだけ頭を下げる。
あたしも、頭を下げた。
「残りの十枚は、秋ですね」
言ってから、ほかに言うことはなかったのかと思った。
窓口にいたころから、あたしの口は、だいたいこうだ。
ご主人は、袋の口を縛りながらうなずいた。
「秋の麦で払う」
「はい」
「冬に十枚持っていったら、窓口のおばさんに、ずいぶん早いねって言われたよ」
ご主人は、少しだけ笑った。
それから袋を腰に下げ直して、黒い土の上を、また畑の真ん中へ歩いていく。
お父さんが、熊手を持って後ろに続いた。
両隣の畑で、牛の鈴と、穀物商の若い男が数を数える声がしている。
ご主人は、種麦をひとつかみ前へまいてから、あたしの方を振り返らずに言った。
「来年も、ここで麦を作る」
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