第48話 名乗り出なかった家
「五年分の収穫税が四十枚。隠していた分の加算が、二十枚です」
ヘイジさんがそう言うと、奥さんは膝の上の赤ん坊を抱え直した。
炉には、薪が一本だけくべてある。戸の隙間から雪の匂いが入ってくるので、家の中は外とほとんど変わらないくらい寒かった。
ご主人は、炉の向こうで膝を抱えている。
収穫祭の日に、伯爵様の庭で片足を半歩だけ前に出しかけた人だ。あの日、その腕をつかんだのが、隣にいるこの奥さんだった。
「伯爵様が返した名義料の二十枚は、そっくり税の方へ回してもらいます」
ご主人が、顔を上げた。
「それでも、あと四十枚足りません」
「……四十枚」
ご主人は、炉の火の方を向いたまま、少しだけ笑った。
「あの日、足を出してりゃ、二十枚で済んだんだな」
「そうですね」
ヘイジさんは、それだけ言った。
違いますよ、とも、仕方なかったですよ、とも言わない。あたしはヘイジさんの横顔を見たけれど、いつもの、数を言うときの顔をしていた。
奥さんが、赤ん坊の背中を叩きながら口を開いた。
「あたしが、腕をつかんだからだよ」
「お前のせいじゃねえ」
ご主人は、奥さんの方を見ないで、すぐにそう言った。
奥さんはそれ以上何も言わずに、赤ん坊の背中を叩きつづけている。とん、とん、と同じ間で、止まらなかった。
「期限は、年が明けて最初の月の終わりまでです」
ヘイジさんは、そのまま続けた。
「払えない分は、畑を差し押さえることになります」
「牛を売りゃあ、半分にはなるかな」
「牛を売ったら、春に畑を起こせないよ」
奥さんが言うと、ご主人はまた黙ってしまった。
ヘイジさんは、どっちにしろとも言わずに立ち上がった。
*
川沿いの道は、雪の下で凍っていた。
名乗り出なかった川沿いの家を、あたしたちは三日かけて一軒ずつ回った。
どの家でも、ヘイジさんは同じことを、同じ順番で言った。
五年分が四十枚。加算が二十枚。返ってきた名義料の二十枚を税に回しても、あと四十枚。期限は、年が明けて最初の月の終わり。
赤ん坊のいる家でも、目の見えないおばあさんしかいない家でも、言い方は一つも変わらない。短くもしないし、長くもしない。
三軒目の家では、腰の曲がったおじいさんが、あたしたちを見るなり頭を下げた。
「伯爵様から、名義料が二十枚も戻ってきましてな。お役人さんのおかげです」
おじいさんは、炉の脇の壺を両手で抱えてきて、ヘイジさんに中を見せた。
金貨が、底の方で鈍く光っている。
「孫に、春になったら靴を買ってやろうと思うとるんです」
「そうですか」
ヘイジさんは、壺の中を見たまま、少しだけ黙った。
それから顔を上げて、ほかの家で言ったのと同じことを言った。
その二十枚は、そっくり税の方へ回してもらうことになる。回しても、まだ四十枚足りない。おじいさんがそれを飲み込むまでに、ずいぶんかかった。
分かったあとも、おじいさんは壺を抱えたまま、何度もうなずいていた。
「そうですか。税の方へ、回りますか」
「回ります」
「靴は、来年ですな」
おじいさんは、壺を炉の脇に戻した。
蓋を閉める手つきが、さっき開けたときよりずっとゆっくりだった。
五軒目では、誰も戸を開けてくれなかった。中で人の動く音はしているのに、ヘイジさんが名乗っても、戸はそのままだ。
「かあちゃん、だれ?」
戸の向こうで、小さな男の子の声がした。
すぐに、しっ、と叱る声がして、それきり何も聞こえなくなる。
ヘイジさんは、閉まった戸に向かって、四十枚と期限のことを言った。
戸の向こうに聞こえるように、ほかの家より少しだけ大きな声だった。
言い終わると、頭を下げてから戸を離れる。
戸は、最後まで開かなかった。
回る家は、二十四軒。
一軒四十枚なら、全部で九百枚を越える。
ヘイジさんが最初の街の食堂に置いていった、あの袋のことを、あたしは考えていた。考えずにいられなかった。
あのときの三十枚は、ヘイジさんが取り立てた相手に払ったお金じゃない。
この三日で回る家は、ぜんぶヘイジさんが取り立てる家だ。
取り立てた相手の家にお金を置いていったら、取ったものを裏から返すのと同じになる。
そうなったら、伯爵様の庭で一人だけ前に出た、娘さんのとこのご主人は、何のために出たのか分からなくなってしまう。
分かっている。分かっているのに、足もとの雪ばかり見て歩いていた。
「ヘイジさん」
「置かねえよ」
ヘイジさんは、前を向いたまま言った。
あたしは、まだ何も言っていなかった。
「……知ってます」
「なら、聞くな」
それきり、ヘイジさんは何も言わなかった。
凍った道で、茶色のコートの裾が一度だけ滑りかけて、すぐに持ち直す。
あたしは、ヘイジさんの隣に戻った。
村の真ん中へ上がる道は、川下の家の前を通る。
家の裏で、娘さんのとこのご主人が薪を割っていた。斧を振り下ろすたびに、乾いた音が川の方まで響いていく。
そこへ、一軒目の家のご主人が、桶を二つ提げて川から上がってきた。
二人の間は、十歩もない。
薪割りの斧が、一度だけ止まった。桶を提げたご主人も、ほんの少し足をゆるめた。
それでも、どちらも何も言わない。桶のご主人はそのまま坂を上っていき、斧はまた乾いた音を立てはじめた。
あたしたちが前を通っても、斧の音は止まらなかった。
*
三日目の夕方、最後に村長の家へ行った。村の真ん中の、少し高いところにある家だ。
回る順番を決めたのは、ヘイジさんだった。村長の家を最後にした理由は、聞いても言わない。
戸を叩くと、村長が自分で開けてくれた。
あたしたちが来るのを分かっていた顔で、炉のそばへ通してくれる。杖を炉の脇に立てかけて、村長は自分も腰を下ろした。
この家の炉も、ほかの家と同じで、火は小さかった。
「わたしのところも、同じでしょうな」
「同じです」
ヘイジさんは立ったまま、二十四度目の同じことを、同じ順番で言った。
村長は、最後まで黙って聞いていた。
それから、炉に薪を一本足して、短く言った。
「分かりました」
それだけだった。
伯爵様の名前も、ヘイジさんの名前も、川下の家の名前も出てこない。
あたしは、黙っていられなかった。
「伯爵様のせいだって、言わないんですか」
ヘイジさんが、横であたしを見た。
村長は、炉の火から目を上げて、あたしの顔を見る。怒った顔ではなかった。
「言うたら、四十枚が減りますかな」
「……減りません」
「なら、言うても仕方がない」
村長は、足した薪の先に火が移るのを見ていた。
「名を移そうと皆に言うたのは、わたしだ。庭で皆を止めたのも、わたしです」
村長は、それを、今日の天気の話でもするように言った。
「誰が悪かったかを決めるのは、わたしの役目じゃありませんでな」
「じゃあ、村長さんの役目は、何なんですか」
「春に、この村で種をまく者を、一人でも多く残すことですわ」
あたしは、それ以上何も聞けなかった。
村長は、それからヘイジさんの方を向いた。
「差し押さえた畑は、どうなりますかな」
「町で売ります」
「買うのは、市場の穀物商でしょうな。あそこは、前から川沿いの畑を欲しがっておった」
「買う人が誰かは、まだ分かりませんよ」
「分かっておりますよ。この辺りで、畑を買える金があるのはあそこだけだ」
炉の薪が、ぱちんとはぜる。
村長は杖を取って立ち上がると、壁の釘から古いランタンを下ろした。炉の火から芯に火を移して、ヘイジさんに差し出す。
「川沿いの道は、凍っておりますでな」
ヘイジさんは、少しのあいだランタンを見ていた。
それから、受け取った。
「明日、返しに来ます」
「急ぎませんよ」
*
ランタンの灯りは、あたしたちの足もとしか照らさなかった。
ヘイジさんがそれを提げて、前を歩いている。凍った雪が、ブーツの下できしきし鳴った。
村を出るところで、あたしは一度だけ振り返った。
来たときには、どの家の窓にも灯りがついていた。
今は、半分も残っていない。どの家も、冬の油を惜しんで、早くから灯りを落としたのだろう。
村長の家の窓だけが、まだ明るかった。




