第46話 伯爵の触れ
収穫祭まで、あと三日になった。
署の窓際に椅子を寄せて、俺は朝から表の通りを眺めていた。
市場へ麦を引いていく荷車が、昼までに二十六台。そのうち、川沿いの村の荷車が九台。
九台とも、署の前で速くなった。
引いている者は、誰も窓の方を見ない。見ないようにしているのが、こっちからでもよく分かる。
「今日も、誰も来ませんね」
隣の机で、ギンが言った。
「来ねえな」
「あと三日ですよ」
「言われなくても、数えてるよ」
ギンは、何も言わずに窓の外を見た。
ちょうど、川沿いの荷車がもう一台、署の前を足早に通り過ぎていくところだった。
*
その日の昼過ぎ、表で蹄の音がした。
一頭や二頭ではない。窓から覗くと、署の前に馬が四頭並んで、通りの荷車がみんな脇へよけている。
先頭の大きな黒馬から降りてきたのは、伯爵だった。
後ろの葦毛からは、新しい代官が降りてくる。前の代官より、ずいぶん若い男だ。
「調査官はおるか」
伯爵の声は、窓口を越えて、奥の机までそのまま届いた。
日なたの署長が、椅子から腰を浮かせたまま固まる。出迎えるか寝たふりをするか、迷っている顔だ。
迷っているうちに、伯爵の方が窓口の脇を抜けて、俺の机の前まで入ってきてしまった。
「おお、おった。調査官、元気そうだな」
「おかげさまで。伯爵様も、お変わりなく」
「余は、いつでも変わらん」
伯爵は大声で笑うと、窓口の女が慌てて運んできた椅子に、どっかりと腰を下ろした。
椅子が、嫌な音できしむ。
「四千二百枚の話は、もう済んだことだ。あれは、前の代官めの不始末でな」
「そうでしたか」
「余は、あの男に任せておっただけだ。任せた相手が悪かった。そういうことだ」
伯爵の後ろで、新しい代官が、表情を変えずに立っている。
あの男に任せておっただけ、か。
任せた相手が悪いってのは、任せた方は何も数えてなかったってことなんだがな。
「今日は、お前を収穫祭に招きに来たのだ」
「収穫祭に、ですか」
「村の者を、皆、余の館の庭に集める」
「村の者を、ですか」
「そこで、川沿いの畑が誰の物か、村の者の口から言わせてやろうと思うてな」
伯爵は、膝を叩いた。
「お前が村で何やら触れて回ったのは、聞いておる。名乗り出れば、どうとかいう話だ」
「上乗せをかけない、という話です」
「そんなことは、どうでもよい」
伯爵は、得意そうに俺の顔を覗き込んだ。
「村の者が皆、お前の目の前で、あの畑は伯爵様の物だと言う」
伯爵は、太い指を一本立てた。
「それで、お前の名乗りとやらも、しまいだ」
俺は、すぐには返事をしなかった。
収穫祭の日は、俺が村の寄り合いで言った期限の日だ。
その日に、村の者を一人残らず、一か所へ集めてくれるという。しかも、俺の目の前にだ。
この人は、自分が何をしようとしているのか、本当に分かってねえんだな。
「伺います」
「おお、来るか。それでこそだ」
伯爵は、また大声で笑った。
「祭りには、猪を焼いてやる。明日、余が森で仕留めてくる」
「伯爵様が、ご自分で」
「表の黒いのに乗ってな。先月買うた馬だが、あれは良い馬だぞ」
「そうですか」
「お前も狩りに来ればよいのだ。乗せてやると言うておろうが」
栗毛を二頭売った次の月に、黒いのを一頭買ったわけだ。
その代金がどこから出たのかは、聞かないでおいた。
伯爵が立ち上がると、椅子がまたきしんだ。
「村の者は、何人ほど来る」
伯爵は、新しい代官の方を振り返って聞いた。
「川沿いだけで、百は下りません」
「そうか。百か」
伯爵は、自分の村の数を、初めて聞いたような顔でうなずいた。
それから、日なたで固まっている署長にも、手を振った。
「署長も来い。猪は大きいぞ」
四頭の馬が通りの角を曲がってしまうまで、署長は腰を浮かせた格好のまま動かなかった。
ようやく椅子に座り直すと、額の汗を袖で拭いて、こっちを向く。
「だから、貴族には触るなと言ったんだよ」
「触ったら、四千二百枚出ましたけどね」
「私は、行かないよ」
「猪は大きいそうですよ」
「行かないと言ったら、行かないよ」
署長は日なたに背中を向けて、さっさと目を閉じてしまった。
ギンが、その背中を見て、それから俺の顔を見た。
「伯爵様、自分で村の人の数を知りませんでしたね」
「数えたことがねえんだろ。数えなくても、金は代官が持ってくるからな」
俺は、机の上で指を折った。
川沿いの二十五軒が、毎年、税の半分を名義料として伯爵に払っている。一軒で、一年に金貨四枚。
伯爵は紙に名前を一つ書いただけで、その金が、黙っていても毎年館に入ってくる。
俺の歩合より、よっぽど割がいいじゃねえか。
「ヘイジさん。伯爵様の名義料、勘定してますよね」
「してねえよ」
「指が、五本とも折れてます」
*
次の朝、パン屋のカウンターには、いつもの丸いパンの横に、見慣れないパンが並んでいた。
細く伸ばした生地を三本、三つ編みにして、輪の形に焼いてある。表に塗った卵が、つやつやと光っていた。
「収穫祭のパンだよ。祭りの朝には、どの家もこれを館の庭へ持っていくんだ」
パン屋の主人は、粉のついた手で輪を一つ持ち上げてみせた。
「今年は、川上の粉屋の粉で焼いたからな。皮の色が違うだろう」
「違いますね」
「だろう」
主人は満足そうにうなずいてから、店の中の客をちらりと見回した。
「調査官さん。川沿いの連中は、祭りの日は皆、館へ行くってよ」
「聞いてます」
「親父の従兄弟が、あの村にいてな。代官が馬で回って、名乗り出た者の畑は取り上げるって触れたそうだ」
「そうですか」
「館に行かなかった家も、名乗り出たのと同じに見るってさ」
主人は、編んだパンを籠に戻した。
「だから、誰も署には行かねえよ。行けるわけがねえ」
俺は、いつもの丸いパンを二つ買って、銅貨を置いた。
隣で、ギンが編んだパンの輪を見ていた。
主人に聞こえないように、小さな声で言う。
「……行けるわけがない、ですって」
「パン屋の言うことは、たいてい当たるよ」
*
収穫祭の朝は、よく晴れた。
一番の鐘が鳴ってから昼の少し前まで、俺は署の窓口の脇に座っていた。
表の通りは、朝から人であふれている。誰も彼も一番いい服を着て、編んだパンの輪を腕に通していた。
署の戸は、一度も開かなかった。
「行くか」
「はい」
ギンは、もう上着を着込んで立っていた。
伯爵の館へは、川沿いの道を行く。
道には、川沿いの村の者たちが、家ごとにかたまって歩いていた。年寄りが先に立ち、その後ろに夫婦が続き、子供は母親に手を引かれている。
先頭の家の者が、俺のコートに気づいた。
すると、その家の者たちは、黙って道の端へ寄った。後ろの家も、その後ろの家も、同じように寄っていく。
道の真ん中が、俺たちの前だけ、すっかり空いてしまった。
「……歩きやすいですね」
「そうだな」
ギンは、真顔のままだった。
道の脇には、川沿いの畑が続いている。刈り株の残った畑の畦ごとに、伯爵の紋の杭が一本ずつ、まっすぐに立っていた。
その中に一本だけ、少し傾いている杭があった。
根もとの土が、割れて乾いている。
俺は、足を止めなかった。ギンも、その杭のことは何も言わなかった。
*
伯爵の館の門は、丘の上で大きく開け放してあった。
門の奥から、肉の焼ける脂の匂いが流れてくる。館の屋根の向こうに、煙が一筋上がっていた。
村の者たちは、門の前まで来ると家ごとに並んで、順にくぐっていく。
門の脇には、新しい代官が立っていた。家が一つ通るたびに、口の中で何か数えている。
伯爵の代わりに数えるのは、この男の役目らしい。
俺たちの番が来ると、代官は軽く頭を下げた。
「調査官殿。今日は、伯爵様のお客人でございます」
「そのつもりで来ましたよ」
「でしたら、祭りのあいだは、お静かに願います」
代官はそれだけ言うと、また門をくぐる村の者の方へ目を戻した。
俺とギンは、門の内側の脇に立って、残りの家が通るのを待つことにした。
最後の方になって、あの痩せた年寄りが門の前に来た。
その後ろに、倅が続いている。倅の女房の前掛けの裾を、六つの娘が握っていた。
娘が、門の脇のギンを見つけて、小さな手を上げかけた。
女房が、その手をそっと下ろさせる。そのまま娘の肩を抱いて、門の中へ入っていった。
倅は、地面に目を落としたまま、俺の前を通り過ぎた。
百を越える村の者が、俺のすぐ前を通っていったことになる。
誰ひとり、俺の方を見なかった。




