第45話 川沿いの農夫
うちの麦を打ち終えたのは、収穫祭の五日前だった。
庭に広げた穂を、竿の先の打ち棒で叩いていく。
叩いた穂を親父が箕で揺すると、殻が風に飛んで、重い粒だけが箕の底に残る。それを袋に詰めるのは、女房の役目だ。
六つの娘は、庭の隅で、落ちた粒を一つずつ拾っては、小さな袋に入れていた。
「去年より、袋が二つ多いな」
最後の袋の口を縛って、親父が言った。
「川の泥が、まだ効いてるんだ」
娘が、小さな袋を振りながら駆けてきた。
「これは、あたしの分」
「そんなに拾って、どうするんだ」
「お姉ちゃんにあげるの。署の、髪の白いお姉ちゃん」
「あの人は、町の人だ。麦なんか、もらったって困るだろう」
「困らないよ。この前、あたしの麦を噛んで、甘いって言ってたもん」
女房が、袋を詰める手を止めて、少しだけ笑った。
笑ったのを見たのは、刈り入れが始まってから初めてだった。
親父は、積んだ袋を手のひらで叩いて回った。
三年前に川があふれたとき、うちの畑は泥に埋まった。掻き出すのに、ひと月かかった。
泥の下から出てきた畑は、次の年から、前より粒の大きい麦をつけるようになったのだ。
親父はそれを、川からの貰い物だと言っている。
俺は、打ち棒を壁に立てかけて、自分の手を見た。
この手で掻き出した泥のことは、親父には言っていない。
*
五年前、親父は村長と一緒に、伯爵様の館へ行った。
帰ってきた次の朝には、川沿いの畑の畦に、紋を焼きつけた杭が立っていた。
何が変わったのかと聞いたら、親父は笑って、何も変わらねえよと言った。
種をまくのは、うちだ。刈るのも、打つのも、市場へ引いていくのも、うちだ。
変わったのは、秋に代官へ払う金の名前だけだった。前は税と呼んでいた金を、次の年からは名義料と呼ぶようになった。
額は、半分で済んだ。
親父は毎年、秋に代官へ金を払うたびに、払わずに済んだ分を指で数えていた。それが五年続いている。
俺は、それを止めなかった。
半分で済むなら、その方がいいと思っていたからだ。
調査官が村の寄り合いに来たのは、刈り入れの最初の晩だった。
茶色のコートの、目つきの悪い男だった。
一軒で、五年分が金貨四十枚。名乗り出なければ、六十枚。
あの晩、寄り合いがはねてから、俺は広場で、あの男の前に立った。何を言うつもりだったのかは、自分でも分からない。
*
代官が村に来たのは、麦を打ち終えた次の日の昼だった。
前の代官は、もういない。伯爵様に何もかも押しつけられて、館を出されたと聞いた。
新しい代官は、葦毛の馬に乗っていた。後ろに、館の若い者を二人連れている。
代官は村の真ん中の広場で馬を止めると、家々の戸口に向かって、声を張り上げた。
「伯爵様からのお言葉だ。よく聞け」
あちこちの家から、人が出てきた。
俺も、打ち棒を持ったまま、庭の垣根の所まで出た。
「川沿いの畑は、どれも伯爵様の物だ。王都への届けで、そう決まっている」
「そんなこと、皆知ってるよ」
隣の家の女が言うと、代官は馬の上からその女をじろりと見た。
「だったら、調査官の所へ名乗り出る者などおらんな」
広場が、静かになった。
「名乗り出た者の畑は、伯爵様がお取り上げになる。伯爵様の畑を、勝手に自分の物だと言いふらした罰だ」
代官は、そこで一度言葉を切った。
「収穫祭の日には、皆、館の庭に来い」
代官は、馬の上から広場をぐるりと見回した。
「伯爵様が、お前たちの口から、誰の畑かを聞きたいとおっしゃっている」
それだけ言うと、代官は馬の首を返した。
葦毛の尻が村の外れの木立に隠れてしまうまで、誰も口をきかなかった。
垣根の内側で、親父が、俺の腕をつかんでいた。
*
その晩の飯は、薄く焼いた麦の粉のパンと、羊の乳のチーズだった。
新しい麦で焼いた最初のパンだから、いつもなら親父がひとしきり、今年の粉の出来を自慢する。
その晩は、誰も何も言わずに食べた。
娘だけが、パンの端をかじりながら、俺の顔を見上げた。
「うちの畑、取られちゃうの」
「誰が言った」
「隣のおばちゃん」
女房が、娘の口にチーズを一切れ押し込んだ。
親父は、パンを置いた。
「黙っていろ」
娘に言ったのかと思ったら、親父は俺の方を見ていた。
「何も言ってない」
「言いそうな顔をしてる。寄り合いの晩から、ずっとだ」
親父の声は、低かった。
「紙の上じゃ、あの畑は伯爵様の物なんだ。取り上げると言われたら、それまでだ」
「調査官は、名乗り出れば二十枚安いと言ってた」
「畑を取られたら、二十枚安くたって何になる」
「名乗り出なくても、六十枚だ」
「村長が何とかしてくださる。伯爵様と話をつけてくださったのも、村長だ」
「その話が、こうなったんじゃないか」
親父は、黙った。
黙ったまま、テーブルの上の、パンを置いた所を見ていた。
「……わしが、決めたことだ」
女房は、何も言わなかった。
娘を寝かしつけに奥へ行って、戻ってくると、棚の上の壺を下ろしてテーブルに置く。
壺の口を傾けると、中から金貨が七枚と、銀貨が少し出てきた。この家にある金は、それで全部だ。
女房はそれを数えもしないで、また壺に戻した。
戻してから、壺を棚へは上げずに、テーブルの真ん中に置いたままにした。
俺は、自分の手を見た。
指の節に、打ち棒の柄の跡が赤く残っている。
四十枚。
うちの麦を、半年分まるごと売って、やっと届く額だ。
半年分を売ってしまったら、冬に食う物が無くなる。
*
収穫祭の前の日の夕方、村長がうちに来た。
村長は庭の袋の山を見て、今年もいい麦だと親父を褒めた。親父は袋を一つずつ叩いてみせながら、また泥の話をしている。
それから二人は、垣根の所で、しばらく声を低くして話していた。
村長が帰りがけに、俺のそばで足を止めた。
「明日は、皆で館へ行こう」
「はい」
「伯爵様の前で頭を下げれば、それで済む。調査官も、そのうちいなくなる」
村長は、いつものように愛想よく笑っている。
俺が子供の頃から、村長はこういう笑い方をする人だった。日照りの年も、川があふれた年も、この顔で村を回って、皆の話を聞いてくれた。
名義の話を持ってきたときも、同じ顔だったのだろう。
「村長は、名乗り出ないんですか」
聞くつもりは無かったのに、口から出ていた。
村長の笑顔は、少しも変わらなかった。
「わたしは、村の者と同じにする。それだけだ」
村長は、俺の肩を一つ叩いて、帰っていった。
親父は垣根の所に立ったまま、俺の方を見ないで言った。
「余計なことを聞くな」
*
収穫祭の前の晩は、月が明るかった。
家の者が寝静まってから、俺は一人で川沿いの畑へ出た。
刈ったあとの畑には、短い刈り株が、月の光に白く並んでいる。その向こうで、川が音を立てていた。
三年前に、親父と二人で積み直した石積みだ。月の下だと、新しい石も古い石も、同じ色に見える。
畦の角に、杭が立っていた。
頭に伯爵様の紋を焼きつけた、あの杭だ。三年前の泥の次の年に、館の若い者が来て、新しく打っていった。
俺は、杭の前にしゃがんだ。
両手で、杭の首をつかむ。
力を入れると、乾いた土が、杭の根もとで小さく割れた。もう少し引くと、杭は少しだけ傾いて、土の中から白い木肌がのぞいた。
そこで、手が止まった。
抜いて、どうする。
抜いた杭を持って、明日、館の庭へ行くのか。それとも、朝までに薪にしてしまうのか。
どっちにしても、親父が起きてきて、これを見る。
俺は、杭から手を離した。
杭は、傾いたまま、元へは戻らなかった。
押し戻そうかと思ったが、それもしなかった。手のひらについた土を、ズボンで拭いて立ち上がる。
家の方を振り返ったが、ここからでは、うちの屋根は川沿いの柳に隠れて見えない。
女房は、まだテーブルの壺の前に座っているだろうか。
俺は、傾いた杭をそのままにして、家へ帰った。
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