第44話 粉屋の客
川の石積みに沿って町へ戻る途中で、あたしは足を止めた。
静かすぎたからだ。
この道を通るとき、いつもなら町はずれの水車小屋の方から、ごとん、ごとんと低い音が聞こえてくる。その音がしない。
刈り入れが終わって、どこの村でも新しい麦を挽く時期なのに。
小屋の前まで来ると、水車は止まっていた。羽根の板に、乾いた藻がこびりついている。
小屋の脇の長椅子には、粉屋のご主人が座っていた。開け放した戸の奥では、奥さんが空っぽの石臼の周りを、箒で掃いている。
「調査官さんたちかい。今日は、挽く麦が無くてね」
ご主人は、あたしたちを見ると、膝を叩いて笑った。
ヘイジさんは、止まった水車の羽根を見上げていた。
「伯爵様の村の麦は、まだ来ないんですか」
「来ないよ。今年からは、伯爵様の館の下の水車で挽くんだそうだ」
「誰が、そう決めたんですか」
「新しい代官様さ。わざわざ馬で来て言ってったよ」
ご主人は、代官の声を真似て、少し顎を上げてみせた。
「口の軽い粉屋に挽かせる麦は無い、だとさ」
ちょうどそのとき、村の方から、荷車の軋む音が近づいてきた。
麦の袋を山のように積んだ荷車が、三台続いている。引いているのは、伯爵様の村の人たちだ。その先を、葦毛の馬に乗った男がゆっくり進んでいた。
前の代官より、ずっと若い。あれが、新しい代官なのだろう。
荷車は、止まった水車の前を通り過ぎていった。
引いている人たちは、誰も小屋の方を見ない。粉屋のご主人と顔なじみのはずの年寄りまで、袋の山の向こうに顔を隠すようにして、車を押していく。
代官だけが、馬の上から振り返った。
「よく休めて結構だな、粉屋」
ご主人は、長椅子に座ったまま、何も言い返さなかった。
荷車の音が遠ざかって、伯爵様の館のある方へ曲がっていく。
奥の臼のそばでは、いつの間にか奥さんの箒の音が止んでいた。前掛けで手を拭きながら、奥さんが戸口まで出てくる。
「いいんだよ、お嬢さん。しゃべったのは、うちの人の勝手なんだから」
「でも、あたしたちが聞きに来なければ」
「聞かれたから、覚えてるとおりに言っただけさ」
長椅子のご主人が、膝の上の粉を手で払った。
「麦刈りの後の目立ても、今年はまだしてねえ」
そう言って、小屋の壁に立てかけた鑿の方へ顎をしゃくる。
「臼の溝が、ちっとも減らねえからな。町の年寄りが、自分の家で食う分を持ってくるだけだ」
「秋に水車を止めたことなんか、一度も無かったのにねえ」
奥さんは、笑いながらそう言った。
あたしは、ヘイジさんの顔を見た。
ヘイジさんは、水車の羽根から目を下ろすと、あたしの方は見ずに言った。
「調査官が、粉屋の客の心配までしてられるかよ」
それだけ言うと、ヘイジさんは、もう町の方へ歩き出していた。
あたしは、ご主人と奥さんに頭を下げた。下げたまま、しばらく顔を上げられない。
ご主人は、気にするなというように手を振ってくれた。
追いついてからも、あたしはヘイジさんの背中に、何も言わなかった。何か言ったら、きっと窓口にいた頃の口になってしまう。
その日、ヘイジさんが宿に帰ってから何をしていたのかは、知らない。
*
次の朝、あたしは早めに宿を出て、市場の通りのパン屋へ行った。
ヘイジさんは、朝のパンをたいていあそこで買う。きのうのことを、もう一度だけ言ってやろうと思ったのだ。
店の前まで来ると、ヘイジさんはもうカウンターの前にいた。
焼きたての丸いパンを一つ、その場でかじっている。
「……じゃりっとするな」
ヘイジさんが顔をしかめると、パン屋のご主人が、カウンターの向こうで太い腕を組んだ。
「分かるかい。このところ、挽き屋の石がすり減ってきてな」
「挽き屋ってのは」
「町の南の、川下の粉屋だよ。安いんだが、どうしても砂が混じる」
「ほかで挽いてもらえばいいじゃないですか」
「そりゃあ、川上の爺さんの粉が欲しいさ。あそこの石は細かく挽けるからな」
ご主人は、籠の中のパンを一つ取って、割ってみせた。
「だがな、あの粉屋は毎年、伯爵様の村の麦で、秋じゅう塞がってるんだ」
「へえ」
「うちの分まで挽いてくれる暇なんか、無えのさ」
「今年は、空いてるそうですよ」
ヘイジさんは、パンの残りを口に放り込みながら言った。
ご主人の手が、割ったパンを持ったまま止まった。
「本当かい」
「本当ですよ。水車が止まってました」
「なんで、調査官さんがそんなことを知ってるんだ」
「パンがじゃりじゃりすると、俺の朝飯が不味いんですよ」
ヘイジさんは銅貨をカウンターに置いて、もう一つパンを取った。
振り返ったところで、戸口に立っていたあたしと目が合う。
「お前も買うなら、早くしろよ。今日は川沿いだぞ」
「……はい」
ヘイジさんは、あたしの横をすり抜けて、通りへ出ていった。
パン屋のご主人は、割ったパンを手に持ったまま、ヘイジさんの背中を見送っている。
あたしがパンを一つ買って銅貨を置くと、ご主人は、ようやくこっちを向いた。
「お嬢さん。あの調査官さん、いつもああなのかい」
「いつもは、もっと口が悪いです」
「そうかい」
ご主人は、首をひねりながら、あたしにパンを包んでくれた。
きのうヘイジさんに言ってやろうと思っていたことは、店を出るまでに、どこかへ行ってしまっていた。
*
それから三日のあいだ、ヘイジさんは粉屋の話を一度もしなかった。
四日目の昼過ぎ、川沿いの村からの帰り道で、ヘイジさんはいつもの石積みの道ではなく、町はずれの方へ回った。
「こっちは、遠回りですよ」
「腹ごなしだよ」
水車小屋が見えてくると、小屋の前に、荷車が一台止まっていた。
荷台には、麦の袋が十ほど積んである。袋の横で汗を拭いているのは、パン屋のご主人だった。
ヘイジさんの足は、止まらなかった。
小屋の方は見もしないで、そのまま道を歩いていく。あたしだけが、小屋の手前で立ち止まった。
粉屋のご主人が、長椅子から腰を浮かせていた。
「あんた、市場のパン屋だろう。何の用だい」
「挽いてほしいんだよ、親父さん。うちのパンの分だ」
パン屋のご主人は、荷台の袋を、平手でぽんと叩いた。
「これから毎週、このくらい持ってくる。前から、ここの粉で焼いてみたかったんでな」
「うちの粉で、かい」
「親父がよく言ってたんだよ。川上の爺さんの粉は、噛んでも砂の音がしねえってな」
粉屋のご主人は、浮かせた腰をそのままにして、荷台の袋を見ていた。
戸口から、奥さんが顔を出した。
「市場のパン屋さんが、どうしてうちに」
「客に言われたのさ。ここが空いてるってな」
「客って」
「毎朝うちのパンにけちをつける、目つきの悪い客だよ」
奥さんが、道の方を振り返った。
「……あの人が」
奥さんは、それきり黙った。
粉屋のご主人は、何も言わずに長椅子から立ち上がった。荷台から袋を一つ下ろして、肩に担ぐ。四十年担いできた人の、慣れた担ぎ方だった。
袋を臼のそばに下ろすと、ご主人は小屋の外へ出て、水車の脇の太い棒に手をかけた。
棒を引くと、どこかで木の外れる音がする。
止まっていた羽根に、川の水が当たった。
一枚目の羽根が、重たそうに沈む。二枚目が続いて、三枚目からは、もう止まらなかった。
小屋の中で、石臼がごろりと動き出す。
ごとん、ごとん、と、あの低い音が足の裏から伝わってきた。
しばらくすると、臼の脇の口から、白い粉が細く流れ出してくる。
粉屋のご主人はそれを手のひらに受けて、指先でこすり合わせた。それから、パン屋のご主人の鼻先へ、その手を突き出す。
「どうだ。細けえだろう」
「ああ。砂の一粒も噛まねえな」
パン屋のご主人は、粉のついた指をなめて、にやりと笑った。
「回ったな、婆さん」
「回りましたねえ」
奥さんは、前掛けで目のあたりをこすっていた。
それから、あたしの方を向いて、頭を下げた。下げられても、あたしは何もしていない。
「お嬢さん。あの人に、お茶ぐらい飲んでいけばいいのにって、言っといておくれよ」
「言っても、飲まないと思います」
「そうだろうねえ」
奥さんは、少しだけ笑った。
あたしは、もう一度頭を下げてから、石積みの道へ駆け出した。
水車の音が、背中の方から追いかけてくる。
茶色のコートは、石積みの道のずっと先を、もう町の方へ歩いていた。




