第43話 上等なコート
王都の使いが穀倉の署に来たのは、川沿いの村で刈り入れが始まった朝だった。
港に辞令を持ってきた、あの細い男だ。平たくて長い箱を一つ、脇に抱えている。
署長は使いの顔を見るなり、椅子から跳ね起きた。昼前に署長の目が両方開いているのを、俺はここへ来て初めて見た気がする。
「上席調査官に、次官からのお届け物でございます」
使いは俺の机に箱を置くと、蓋を取った。
中に畳んで入っていたのは、黒に近い紺の、厚い生地のコートだった。襟には、柔らかそうな灰色の毛皮が付いている。
「港の功に、とのことです」
使いは、それだけ言った。
隣の机から、ギンが身を乗り出して箱を覗き込む。署長まで日なたの椅子から立ってきて、口の中で、ほう、と言った。
手で触らなくても、上等なのは分かった。
売りゃあ、金貨二十枚にはなるな。
いや、売ったら売ったで、もらったのと同じことか。
「持って帰ってください」
使いの顔は、少しも動かなかった。
「お受け取りには、なりませんか」
「調査官が、上から物をもらったら贈与ですよ」
「贈与って、税がかかるんですか」
横から、ギンが聞いた。
「かかるうえに、借りまでできる。どっちも、ごめんだね」
俺は、箱の蓋を自分で閉めた。
「それより、俺の千二百枚の方は、どうなってます」
「屋敷の主の不服が、まだ片づいておりませんので」
「コートより、そっちを届けてもらいたいもんですね」
使いは、黙って箱を抱え直した。
抱え直すときに、一度だけ、椅子の背に掛けてある俺の茶色のコートに目をやった。肘のあたりが、だいぶ薄くなっている。
「次官には、そのようにお伝えします」
使いは頭を下げると、来たときと同じ足取りで、署を出ていった。
千二百枚は王都の机の上で止めておいて、コートだけは穀倉まで届くのかよ。
戸が閉まると、署長が大きく息を吐いた。
「もらっておけばよかったのに。王都の次官からだよ」
「署長だったら、もらいますか」
「私には、誰も何もくれないよ」
署長はそう言って、日なたの椅子へ戻っていった。
椅子のきしむ音がしたと思ったら、もう目をつぶっている。
「似合いそうでしたけど」
ギンが、閉まった戸の方を見たまま言った。
「茶色の方が、汚れが目立たねえんだよ」
「肘、薄くなってますよ」
「着られりゃいいんだよ」
*
昼飯を買いに、市場の通りのパン屋へ寄った。
穀倉の町に来てから、朝と昼のパンはたいていここで買っている。
カウンターの向こうで、パン屋の主人が、焼き上がったパンを籠に移していた。腕の太い、四十がらみの男だ。
「調査官さん、今日は川沿いには行かないのかい」
「行きますよ。夕方から」
「だったら、ちょうどいい。刈り入れの最初の晩だからな」
「何かあるんですか」
「川沿いの村じゃ、刈り入れの最初の晩は、村じゅうが麦打ちの広場に集まるんだよ」
「集まって、何を」
「明日からどの家の畑を刈るか、順番を決めるのさ。毎年、灯りを吊るしてな」
主人は、パンを二つ紙に包んで、俺に寄越した。
「うちの親父も、あの村の出でね。若い頃は、順番の決め方で毎年揉めたって言ってたよ」
「揉めるんですか」
「誰だって、自分の畑を先に刈りてえからな」
包みを受け取って、銅貨を二枚置いた。
村長に頼んでも、寄り合いなんか開いてもらえないだろう。だったら、向こうが勝手に集まる晩に行けばいい。
日が落ちてから、ギンと二人で川沿いの村へ歩いた。
広場の真ん中には、刈ったばかりの麦の束が積み上げてあった。
その周りで、村の者が百人あまり、束に腰かけたり、地べたにしゃがんだりしている。川沿いの二十五軒から、どの家も四人は来ているらしい。
柱に吊るした灯りの下で、村長が順番を読み上げていた。
二番目の家まで読んだところで、村長は俺たちに気づいた。読み上げる声は、少しも途切れない。最後の家まで読み終えてから、ようやく愛想のいい顔をこっちへ向けた。
「これは、調査官殿。刈り入れの晩に、何か」
「少しだけ、皆さんにお話があります」
「どうぞ。明日も早うございますので、手短に」
広場じゅうの顔が、こっちを向いた。
束の上で、母親の膝に頭をのせて眠っている女の子がいる。この前、ギンに釘を見せていた子だ。
「署の調査官です。川沿いの畑の、この五年の収穫税の話をしに来ました」
「伯爵様の畑に、税なんか掛からねえだろう」
束に腰かけていた若い男が、すぐに言い返した。
「名義は、伯爵様です」
「だったら」
「ですが、種をまいて、刈って、市場で売っているのは皆さんだ」
若い男は、口を閉じた。
「ですから、税は皆さんに掛かります」
「いくらだい」
しゃがんでいた年かさの女が、低い声で聞いた。
「一軒で、五年分が金貨四十枚ほどです」
広場の話し声が、ぴたりとやんだ。
誰かの手から砥石が落ちて、麦の束の上で鈍い音を立てる。
四十枚あれば、職人の一家が四十週は食っていける。麦をどれだけ売れば届くのか、ここにいる誰もが頭の中で数えているはずだ。
「隠していた分には、罰として半分が上乗せになります。そうなると六十枚です」
年かさの女が、両手で口を押さえた。
「ただし、収穫祭の日までに、自分から町の署へ名乗り出た家には、上乗せをかけません」
年かさの女が、口から手を離した。
「本当かい」
「署長の判も、もらってあります」
前の方で、痩せた年寄りが腕を組んだまま聞いてきた。
この前、畦で鎌を研いでいた年寄りだ。
「名乗り出たら、伯爵様に畑を取り上げられやしねえか。紙の上じゃ、伯爵様の畑なんだろう」
「伯爵様が何をなさるかまでは、俺には請け合えません」
年寄りは、ふんと鼻を鳴らした。
「ただ、税のことなら、名乗り出た方が二十枚安くなる。それだけは本当です」
柱の灯りの下で、村長が穏やかに手を挙げた。
「調査官殿のお話は、皆、よく分かったと思います」
村長は、広場の顔をぐるりと見回した。
「名乗り出るも出ないも、家ごとに決めることだ。わたしは、何も言わん」
「村長さん、それでいいのかい」
年かさの女が聞いた。
「いいも悪いもない。刈り入れが済んでから、家でゆっくり考えればいい」
広場の者たちは、隣の顔を見て、それから村長の顔を見た。
村長は、穏やかに笑ったままだった。
その目が、端から順に一人ずつ、広場の顔の上をゆっくりと通っていった。目が合った者は、一人残らず足もとを見る。
「名乗り出る家がいるなら、今ここで手を挙げてもらえれば、明日にでも話を伺いに来ます」
誰も、手を挙げなかった。
柱の灯りに、羽虫が一匹ぶつかって落ちた。
まあ、そうだろうな。俺がこの村の者でも、村長の目の前で手なんか挙げやしねえ。
「うちは、村長の言うとおりにする」
痩せた年寄りが、誰に聞かせるでもなく言った。
何人かが、それにうなずいた。うなずかなかった者も、手は膝の上から動かさない。
年寄りの後ろには、あの倅が、束に腰かけもせずに立っていた。父親の背中を、黙って見下ろしている。
「調査官殿。お話は、以上ですかな」
村長が、にこやかに言った。
「以上です。夜分に、すみませんでした」
*
寄り合いが終わると、村の者たちは家ごとにかたまって、広場から帰っていった。
誰も、俺たちのそばを通らない。わざわざ麦の束の向こうを回っていく。
眠った女の子は、母親の背中に負われていった。母親は、一度もこっちを見なかった。
「誰も、挙げませんでしたね」
「挙げねえよ。村長の前じゃな」
「村長さん、自分は何も言わないって言ってましたよ」
「目で言えば済むんだから、口で言う必要がねえのさ」
ギンは、灯りの消えかけた広場を見回した。
積み上げた束の陰に、まだ一人、男が残っていた。
三十すぎの、あの年寄りの倅だ。肩に鎌を担いで、束の山をぐるりと回って、こっちへ歩いてくる。
男は、俺の前で足を止めた。
灯りが半分しか届かないので、顔の片側だけが見える。日に焼けた頬が、少しこわばっていた。
俺は、何も言わずに待った。
男は俺の顔を見て、それから、刈り株の残った足もとを見ている。
口は、一度も開かなかった。
肩の鎌を担ぎ直すと、男は向きを変えて、父親たちが帰っていった道の方へ歩いていった。
「ヘイジさん、今の人」
ギンが、小声で言った。
「ああ。見てたよ」
男の歩いていった道の先で、刈り株を踏む音が、しばらく続いていた。




