第42話 誰が耕しているか
川沿いの麦は、穂の先まですっかり色づいていた。
あと十日もすれば刈り入れだと、市場の年寄りが言っていた。川から風が渡ってくるたびに、畑じゅうの穂が同じ向きに傾いて、乾いた音を立てる。
畦の角には、杭が一本ずつ打ってあった。
杭の頭に焼きつけてあるのは、伯爵の紋だ。名義の上では、この川沿いの畑は一枚残らず伯爵の物になっている。
そのくせ、畑の中にいるのは村の者ばかりときた。
「ヘイジさん、今日は何を聞くんですか」
「誰が、何をやってるかだよ」
「それだけですか」
「それだけだ。名義なんてのは、名前が書いてあるだけだからな」
一枚目の畑では、女が一人、畦にしゃがんで草を抜いていた。
俺のコートを見て腰を浮かせかけたが、隣のギンに気づくと、また座り直す。この前ひとりで村を回ったギンの顔を、もう覚えているらしい。
「精が出ますね。この畑の種は、どなたがまいたんです」
「うちの人と、あたしだよ。春先にね」
「種の麦は、どこから」
「去年の麦を取っておいたのさ。どこの家もそうだよ」
「伯爵様の館から、種が届いたりはしませんか」
女は、抜いた草を握ったまま笑い出した。
「伯爵様が、種なんか持ってるもんかね」
*
隣の畑の畦では、痩せた年寄りが鎌を研いでいた。
畑の向こうの端では、三十すぎの男が荷車の車輪を外して、輪金を叩き直している。年寄りの倅だろう。
車輪の脇から、小さな女の子が顔を出した。ギンを見つけると、ぱっと駆けてくる。
「この前のお姉ちゃんだ」
「こんにちは。お父さんのお手伝い?」
「うん。釘を持ってるの」
女の子は、握った手を開いて、錆びた釘を三本見せた。
そのあいだに、俺は年寄りの前にしゃがんだ。
「刈り入れは、どなたがやるんです」
「村じゅうで、順番に刈るんだ。今年は、うちが三番目だな」
「刈った麦は」
「町の市場まで、倅が荷車で引いていく」
「売ったお金は、どこへ入ります」
「うちに入るさ。そこから、代官様に名義料を払う」
年寄りは、研ぎ上がった鎌の刃に、親指の腹をそっと当てた。
「名義料ってのはな、税の半分で済むんだ」
「そうらしいですね」
「五年で、金貨二十枚は浮いた。村長の言うとおりにして、よかったよ」
俺は、返事をしなかった。
浮いたってのは、この年寄りの勘定の中だけの話だ。
畑の向こうで、倅が金槌を振り下ろす音が、一つだけ大きく響いた。
「三年前の春に、川があふれたそうですね。粉屋の親父さんから聞きました」
「ああ。川沿いの畑が四枚、泥に埋まった。うちのも、その一枚だ」
「泥は、どなたが」
「村の者で掻き出したよ。ひと月かかった」
「崩れた川の石積みは」
「それも、村の男衆で積み直した」
「その年の種は」
「隣の家から借りたな。次の年に、倍にして返した」
「伯爵様は、何を」
年寄りは、少し首をかしげた。
「その年の名義料も、代官様がいつもどおり持っていったよ」
「見には、来ましたか」
「来るもんか」
年寄りは笑って、鎌を鞘に収めた。
「杭だけは、次の年に新しいのが立ったがね」
車輪の脇で、倅が一度だけこっちを見た。
何も言わずに、また輪金を叩きはじめる。女の子が、その手に釘を一本ずつ渡していた。
*
村を出て、川の石積みの上を町の方へ歩いた。
積み直した所は、石の色が新しいので、すぐに分かる。苔の生えた古い石のあいだに、白っぽい石が帯のように続いていた。
「伯爵様、何もしてないんですね」
「ああ。何もしてねえ」
「畑が泥に埋まっても、ですか」
「損をしたのは村の者だけだ。損をかぶらねえ持ち主なんて、持ち主じゃねえよ」
ギンは、新しい石の上で足を止めた。
「じゃあ、やっぱり」
「ああ。税は、村の者に掛かる」
ギンは黙って、村の方を振り返った。
風が吹いて、石積みの下の麦が、また同じ向きに傾いている。
「あの子のおじいさん、よかったって言ってましたね」
「言ってたな」
俺は、それしか言わなかった。
*
町へ戻ったその足で、市場の穀物商の店に寄った。
市場の通りで一番大きな店で、裏の倉には、去年の麦の袋がまだ天井近くまで積んである。
主人は、俺のコートを見ても嫌な顔をしなかった。伯爵の四千二百枚の話は、もう町じゅうに回っているらしい。
「川沿いの村の麦は、毎年ここへ来ますか」
「来ますよ。刈り入れが済むと、あの村の者が自分で荷車を引いてきます」
「代金は、誰に払ってます」
「引いてきた者に、その場で払いますよ。どこの店でもそうでしょう」
「伯爵様の館から、麦を売りに来たことは」
「一度もありませんな」
穀物商は、倉の袋の山を見上げた。
「あの川沿いは、いい畑でしてね。川の泥が肥やしになるもんだから、粒がそろってるんです」
「そうなんですか」
俺は礼を言って、店を出た。
*
その晩、宿の一階で遅い晩飯を済ませたところへ、川沿いの村の村長が訪ねてきた。
村から町まで、暗い道を歩いてきたのだろう。突いてきた杖の先が、夜露で黒く濡れている。
村長はギンにまで丁寧に頭を下げると、勧めた椅子には座らずに、テーブルの脇に立ったまま口を開いた。
「昼間、畑を回っておられたそうですな」
「ええ。皆さん、よく話してくれましたよ」
「年寄りは、話すのが好きでしてな」
村長は、愛想よく笑っている。
「お願いに上がりました」
「何でしょう」
「川沿いの畑を、これ以上調べないでいただきたい」
村長は、笑った顔のまま言った。
「調べれば、村が税を払うことになる。そうでしょう」
「そうなりますね」
「五年分です。どこの家にも、そんな金はありません」
「でしょうね」
「名義を移そうと決めたのは、わたしです。村の者は、わたしの言うとおりにしただけでしてな」
「見逃しませんよ」
村長の笑顔は、崩れなかった。
ただ、テーブルの端に添えていた手を、ゆっくりと下ろした。
「そうですか」
それだけ言うと、村長はもう一度頭を下げて、宿の戸口から暗い通りへ出ていった。
杖が石畳を突く音は、来たときと同じ速さで遠ざかっていく。
「村長さん、怒りませんでしたね」
「怒ったってどうにもならねえのを、あの人が一番よく知ってるんだろ」
ギンは、閉まった戸を見ていた。
「一軒、いくらになるんですか」
「五年で、四十枚ってとこだ」
「加算は」
「隠してた分には、半分が乗る。六十枚だな」
「六十枚なんて、あの村の人たちに払えるわけないです」
払えねえだろうな。
前世の署でも、調べが入る前に自分から申告を直してきた者には、加算を軽くしたものだった。
黙っていれば見つからなかったかもしれないのに、自分から言いに来た者がいる。そいつと、最後まで黙っていた者を同じ額にする理由は、どこにも無い。
*
次の朝、署長は窓辺の日なたに椅子を引っぱり出して、居眠りをしていた。
俺がその前に立つと、片目だけを開ける。
「更正の前に、自分から名乗り出た家には加算をかけない。そういう決まりにしてもらえませんか」
「……村を、やるのかい」
「やります」
「伯爵様から、四千二百枚も出たんだよ。もう十分だろう」
「伯爵は伯爵、村は村ですよ」
「村から取ったって、たかが知れてるよ」
「一軒で、四十枚です」
署長は、もう片方の目も開けた。
「加算をかけないと、きみの歩合も減るんだよ」
「減りますね」
「物好きだねえ」
署長は大きなあくびを一つしてから、机の引き出しを開けて判を出した。
俺の差し出した紙に、ろくに目も通さずに押す。
「判なら押すよ。面倒なことは、もう私の所へ持ってこないでくれ」
面倒なことを持ってくるのが、こっちの仕事なんだがな。
判の乾いた紙を受け取りながら、俺は頭の中で、一軒あたり加算の二十枚を勘定していた。その一割の二枚が、俺の歩合から消えたことになる。それが、二十五軒ぶん。
……数えるのは、よそう。
*
昼過ぎに、もう一度川沿いの村へ行った。
村長は、自分の家の前の庭で、杖を膝に立てかけて、箕に入れた麦を揺すっていた。来年の種にする麦から、殻やごみを飛ばしているのだ。
俺が庭に入っても、村長の手は止まらなかった。
「名乗り出た家には、加算をかけないことにしました。署長の判も、もらってあります」
「それは、ご丁寧に」
「期限は、収穫祭の日までです。その日までに、町の署へ来てください」
「さようですか」
箕の中で、麦がさらさらと鳴る。
風に乗った殻が、俺のコートの裾にまで飛んできた。
「村の皆さんに、伝えてもらえますか」
「刈り入れの前で、皆、気が立っておりましてな」
「伝えては、もらえないんですか」
村長は、ようやく顔を上げた。
昨夜と同じ、愛想のいい笑い方だった。
「わざわざ、ありがとうございました」
それきり、村長はまた箕に目を落とした。
俺たちが庭を出るまで、村長の手は一度も止まらない。
村の者に伝えるとは、最後まで言わなかった。
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