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第41話 杭の紋

 伯爵様の四千二百枚は、夏の終わりまでに、三度に分けて署へ運ばれてきた。

 一度目は館の金庫の金で、二度目と三度目は、馬と猟犬を売った金だったらしい。厩の栗毛が二頭とも町の馬商人に引かれていったのを、市場の人たちはみんな見ている。

 代官は、一度目の袋を署へ届けに来たのを最後に、館を出されたと聞いた。

 署長さんは、袋が届くたびに日なたの椅子から立ち上がって、ため息をつきながら判を押していた。

 ヘイジさんは、三度目の袋が届いた日から、ずっと機嫌がいい。確定するまで歩合は出ないのに、袋の山を眺めては、ときどき口の端を上げている。

 あたしの方は、あの日から、ずっと引っかかっていることがあった。

 露台で伯爵様が言った、一粒の税も取れない土地のことだ。

 三度目の袋が届いた次の朝、あたしはヘイジさんに、川沿いの村まで散歩してきますと言って署を出た。

 ヘイジさんは、袋の山から目を離さずに、おう、と言っただけだった。


     *


 川沿いの道を歩いていくと、麦はもう、すっかり色づいていた。

 穂が重たそうに垂れて、風が吹くたびに、畑ぜんぶが金色の波みたいに揺れる。春に馬車の窓から見た緑の縞が、いつの間にかこんな色になっていた。

 畦ごとに、杭が一本ずつ打ってあった。

 どの杭の頭にも、鹿の角を二本交えた伯爵様の紋が焼きつけてある。

 一本、二本と数えていくうちに、あたしは数えるのをやめた。目に入る畑には、全部その杭が立っている。

 杭のあいだでは、村の人たちが働いていた。

 麦の穂を手のひらに載せて実の入りを確かめている人がいて、畦に座り込んで鎌を研いでいる人もいる。もうじき、刈り入れなのだろう。


「おや。町のお役人さんのところの、記録役さんでしたかな」


 畦道の向こうから、杖をついた年寄りが歩いてきた。

 白い髭をきれいに刈り込んで、村の人よりずっと上等な上着を着ている。


「この村の長をしております。わざわざ、こんな所まで」

「散歩です。麦が、きれいだったので」

「そうでしょう、そうでしょう。今年もよく実りましたよ」


 村長さんは、にこにこしながら、あたしの横に並んで歩きだした。

 村の家の屋根は、どれも新しい藁で葺いてあった。村長さんは、それを杖の先で一軒ずつ示していく。


「五年前から、少しずつ葺き替えましてな。おかげさまで、村も楽になりました」

「おかげさまって、誰のですか」

「それはもちろん、伯爵様のおかげですよ」


 村長さんは、川沿いの杭の列を、誇らしそうに眺めた。


     *


 村長さんが寄り合いの家に呼ばれていったあと、あたしは一人で畦道を歩いた。

 畑の端の、杭の根もとに、小さな女の子が座り込んでいた。

 六つくらいだろうか。膝の上に木の鳴子を載せて、麦の上に雀が下りてくるたびに、それをからから鳴らしている。

 鳴らしていないときは、口をもぐもぐ動かしていた。


「何を食べてるの」


 あたしが聞くと、女の子は手のひらを開いて見せてくれた。

 麦の穂から揉み出した、まだ柔らかい粒が載っている。


「麦だよ。噛んでるとね、だんだんもちもちしてくるの」

「おいしいの?」

「ちょっとだけ甘い。お姉ちゃんにも、あげる」


 女の子は、粒を半分、あたしの手のひらに分けてくれた。

 口に入れて噛んでみると、最初は青くさい。それでも噛んでいるうちに、本当にもちもちしてきて、少しだけ甘くなった。

 女の子は、それを見て得意そうに笑った。


「ここ、あなたの家の畑?」

「うん。ここはうちの畑だけど、伯爵様の畑なんだよ」


 あたしは、噛んでいた口を止めた。


「どっちなの」

「どっちも。じいちゃんが、そう言ってた」


 女の子は、杭の頭の紋を、小さな指でなぞってみせた。


「この杭があるとね、税を払わなくていいんだって。じいちゃんが、得したって言ってた」

「得、したの」

「うん。でも、刈るのはとうちゃんとかあちゃんだよ。伯爵様は、刈りに来ないもん」


 畑の向こうから、男の人の声が女の子を呼んだ。

 三十すぎくらいの男の人が、畦に座って鎌を研いでいた手を止めて、こっちを見ている。

 女の子はぱっと立ち上がると、あたしに手を振って、そっちへ駆けていってしまった。

 杭の根もとには、鳴子が置きっぱなしになっている。

 あたしはそれを拾って、畦道を男の人の方へ歩いた。


「これ、忘れ物です」

「……どうも」


 男の人は、鳴子を受け取ると、隣にいる女の子の膝に載せてやった。

 その手は、指の節が太くて、爪のあいだまで黒い土が入っている。洗っても、たぶん落ちない土だ。


「町の、署の人ですか」

「はい。記録役です」


 男の人は、それには何も言わなかった。

 あたしの肩の向こうの、杭の頭の紋を、しばらく黙って見ている。

 それから、研ぎかけの鎌をまた砥石に当てた。


「うちの子が、何か言いましたか」

「麦の粒を、分けてもらいました」

「そうですか」


 砥石の上で、鎌がしゃっ、しゃっと鳴る。

 女の子は父親の膝に寄りかかって、もう鳴子を鳴らしはじめていた。


     *


 帰りぎわ、村長さんがわざわざ村の外れまで見送りに出てきた。

 寄り合いでいい話でもあったのか、さっきよりもっと機嫌がいい。


「記録役さん。この村は、伯爵様には足を向けて寝られませんよ」

「伯爵様は、この村に何をしてくれたんですか」

「名前を貸してくださったんです。名義料を納めるだけで、村は……」


 村長さんは、そこで言葉を切った。

 あたしは、聞き返した。


「名義料って、何ですか」


 村長さんは、しばらく杖の先で畦の土をつついていた。

 やがて顔を上げると、また笑っている。困ったような笑い方ではない。自分の工夫を、誰かに話したくてしかたがない人の笑い方だ。


「五年前に、村の畑を全部、伯爵様のお名前に移したんです」

「全部、ですか」

「全部です。伯爵様のお土地には、収穫税がかかりませんでしょう」

「貴族の土地だから、ですか」

「そうです。その代わり、毎年、麦の値の五分を、名義料として伯爵様にお納めしております」


 村長さんは、指を一本立ててみせた。


「税は一割ですからな。名義料なら、その半分で済むわけです」

「村の人は、それでいいって言ったんですか」

「わたしが、皆を説いて回りました。若い者の親父たちは、喜んで判を押しましたよ」

「伯爵様は、それで何を得するんですか」

「名義料が、黙っていても毎年入ります。伯爵様は紙に名前を書くだけ、村は税の半分が浮く」


 村長さんは、満足そうにうなずいた。


「誰も、損をしておりませんでしょう」


 そこまで言って、村長さんはあたしの顔を見た。

 あたしが署の記録役だということを、今ごろ思い出した顔だった。

 それでも、村長さんの笑い顔は崩れなかった。


「ですがね、記録役さん。紙の上では、ここは全部伯爵様の畑ですよ」

「紙の上では、ですか」

「どこにも嘘は書いてございません。伯爵様も、そうおっしゃっておられます」


 村長さんは、川沿いの杭の列の方へ、杖を一振りしてみせた。


     *


 町へ戻る道で、あたしは何度か後ろを振り返った。

 金色の麦の上に、杭の頭が点々と並んでいる。

 耕しているのも、刈るのも、村の人たちだ。伯爵様は、刈りに来ない。

 だったら、あの畑は伯爵様の畑じゃない。村の人の畑だ。

 村の人の畑なら、収穫税がかかる。

 そこまで考えて、あたしは足を止めた。

 払わずに済んでいた収穫税が、五年分。そこに、隠していた分の加算が乗る。

 払うのは、伯爵様じゃない。

 新しい藁の屋根の家の人たちと、鳴子を鳴らしていたあの子の家だ。

 ヘイジさんに言えば、ヘイジさんは見逃さない。

 あたしが黙っていれば、村の人たちは、来年も新しい藁の屋根の下で暮らせる。

 口の中には、まだあの麦の粒の甘さが残っていた。

 それでも、窓口にいた頃のあたしは、嘘の申告を一度も黙って通さなかった。

 黙って通せる人だったら、今ごろはまだ、あの窓口に座っていたはずだ。


 署に戻ると、ヘイジさんは日が傾いた窓辺で、まだ袋の山を眺めていた。

 署長さんは、日なたが無くなった椅子で目を閉じていたけれど、あたしの足音で片目だけ開けた。


「記録役さん、どこへ行ってたんだね」

「川沿いの村です」

「あそこは、全部伯爵様の畑だよ。触っても何も出ない」


 署長さんは、それだけ言うと、また目を閉じた。

 あたしは、ヘイジさんの机の前に立った。


「ヘイジさん」

「おう。散歩はどうだった」

「川沿いの村の畑は、伯爵様の畑じゃありません」


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