第40話 凶作の年
伯爵の館は、狩り場の森を背にした丘の上にあった。
門をくぐると、中庭では馬丁が三人がかりで、馬を一頭ずつ引き回している。どの馬も毛並みが光っていて、首を振るたびに汗が飛んだ。
厩の奥からは、犬の吠える声が絶えない。猟犬の小屋が、別にあるらしい。
「港の調査官か! よく来た、よく来た」
声の方を見上げると、館の二階の露台から、四十がらみの大柄な男が身を乗り出していた。
乗馬の上着の前を開けたまま、片手に鞭を持っている。
伯爵だ。御者が言っていたとおり、笑い声が中庭の隅まで響いた。
伯爵は露台から引っ込むと、すぐに中庭まで下りてきた。俺の肩を、鞭を持ったままの手でばんばん叩く。
「噂は聞いておるぞ。港で、どこぞの商人を丸裸にしてきたそうではないか」
「税を払ってもらっただけですよ」
「謙遜するな。それで、明日は鹿を追うのだ。お前も来い。馬なら貸してやる」
「馬には、乗れませんので」
「乗れんのか!」
伯爵は、また大声で笑った。
それから、俺の後ろのギンを見る。
「娘、お前はどうだ」
「乗ったことがありません」
「なんだ、二人とも乗れんのか。都の役人というのは、つまらんものだな」
伯爵は、本当につまらなそうに鞭を振った。
「今日は、収穫税の話で参りました」
「税?」
伯爵は、鞭を止めて眉を上げた。
「税の話なら、代官に聞け。余は、数えたことなど一度も無い」
「一度も、ですか」
「数えるのは代官の仕事だ。余の仕事は、狩りと馬だ」
伯爵は振り返って、館の方へ声を張り上げた。
「代官! 代官はおるか! 都の役人が、税の話をしに来たぞ!」
*
通されたのは、壁に鹿の角がいくつも掛かった広間だった。
窓の外には、館の裏手の厩と、その向こうの狩り場の森が見えている。
伯爵が大きな椅子にどっかり座ったところへ、代官が入ってきた。
村の道で、俺を見て馬の足を速めた、あの痩せた男だ。今日は乗馬靴ではなく、柔らかい室内履きを履いている。
「調査官どの。わざわざのお越し、恐れ入ります」
代官は、伯爵の椅子の斜め後ろに立って、頭を下げた。
顔は落ち着いていた。村の道のときとは違う。今日は、来るのが分かっていた顔だ。
「この五年のうち、三年。凶作の届けが出ていますね」
「はい。去年と、一昨年と、四年前でございます」
代官は、聞かれる前に年を言った。
「どの年も、ご領地のまわりの村の刈り高が、平年の半分を割りましたので」
「半分を、ですか」
「村ごとの刈り高は、届けに書き添えてございます。署長さまにも、毎年お目通しいただいております」
淀みのない声だった。
計算の速い男だと、町では言われているらしい。きっと、どの村の刈り高を聞いても、すぐに答えるんだろう。
だから、刈り高の話はしないことにした。
「町の市場で、秤の番をしている年寄りに会いました」
「はあ」
「ここ五年、麦の値は動いていないそうです。凶作の年なら、値は倍になるはずだと言ってました」
代官は、黙って聞いている。
「町はずれの粉屋は、この五年、毎年三度ずつ臼の目を立て直したそうです」
「粉屋が、何を」
「村から麦を運んでいる御者は、毎年同じだけ往復したと言ってました」
代官の目が、ほんの少しだけ動いた。
椅子の伯爵は、足を組み替えて欠伸をしている。
「それから、東の村で六人に聞きました」
「村で」
「去年も一昨年も四年前も、税は一割、きっちり代官さまに払ったそうです」
「それは」
「半分で済んだ年は、一度も無かったと言ってました」
広間が、少しのあいだ静かになった。
代官は、さっきより低い声で言った。
「百姓というのは、払った額を、多めに言うものでございます」
「そうかもしれませんね」
「でしたら」
「でしたら、村の人を、ここへ呼びましょうか」
代官の口が、半分だけ開いて止まった。
俺は、黙ってその顔を見ていた。
村の者を六人並べて、一人ずつ払った額を言わせれば、この男の刈り高は全部ひっくり返る。それが分からないほど、計算の遅い男じゃないはずだ。
「……代官」
声を出したのは、椅子の伯爵だった。
組んでいた足をほどいて、身を乗り出している。
「今のは、どういうことだ。村からは一割取っておいて、余には凶作だと届けさせたのか」
「旦那様」
「余を騙したのか。余の名で、都に嘘を届けたのか!」
伯爵の声が、広間の鹿の角にびりびり響いた。
ギンが、俺の隣で肩をすくめている。
代官の顔から、すうっと血の気が引いていった。
しばらく、何も言わなかった。それから代官は、伯爵の方へ向き直って、深く頭を下げた。
「旦那様のお言いつけでございます」
「何だと」
「五年前の秋に、申し上げました。凶作と届けておけば、都に納める税は半分で済みます、と」
「それが、何だというのだ」
「村からは、いつもどおり一割を集めます。残りの半分は、旦那様のお手元に残ります」
代官は、頭を下げたまま続けた。
「旦那様は、それで新しい馬が買えるな、とおっしゃいました」
伯爵の太い眉が、上がったまま下りてこない。
代官は、ゆっくり顔を上げると、窓の外の厩を手で示した。
「四年前の分で、猟犬の小屋を建て直しました。一昨年の分は、あの栗毛を二頭」
窓の外では、馬丁が中庭の馬を厩へ引いていくところだった。そのうちの二頭が、栗毛だ。
「去年の分は、狩り場の森を囲う柵に。お申しつけのとおり、森の向こうの端まで回してございます」
代官の声は、もう淀んでいなかった。そのかわり、ひどく疲れた声になっている。
伯爵は、窓の外の栗毛と代官の顔を、何度か見比べていた。それから、助けを探すみたいに俺の方を向く。
「……そんなことを、余が覚えているわけがなかろう」
さっきまで広間の隅まで響いていた声が、急に小さくなっていた。
「覚えておられなくても、馬は厩におりますよ」
伯爵は、何も言い返さなかった。
大きな椅子に、どさりと背中を戻す。手の中の鞭が、床に落ちて乾いた音を立てた。
「三年分の差額が、二千八百枚。隠していた分の加算に、その半分を乗せまして」
俺は、伯爵の椅子の前に立った。
「〆て、金貨四千二百枚」
*
伯爵は、しばらく壁の鹿の角を見上げていた。
それから、いきなり大声で笑った。
「よかろう。払ってやる」
伯爵は、床の鞭を拾いもせずに、手をひらひらと振った。
「代官、払っておけ」
「旦那様。金庫には、そこまでは」
「なら、何か売れ。余は知らん」
伯爵は、もう代官の方を見ていなかった。
「それが済んだら、お前は出ていけ。余を騙した者を、置いてはおけんからな」
代官は、黙って頭を下げた。
顔を上げたとき、その目は伯爵ではなく、窓の外の栗毛を見ていた。
金庫の鍵を取りに行くのだろう。代官は広間を出ていく途中で、俺の横を通った。足は止めずに、低い声で言う。
「五年、数えてまいりました。数えた分は、全部あの馬と柵になりました」
「そうですか」
「旦那様は、一度も数えてはくださいませんでしたがね」
代官はそれだけ言うと、廊下の奥の、金庫のある部屋の方へ歩いていった。
その背中を、ギンが黙って目で追っている。
四千二百枚の一割で、四百二十枚。
頭の中で勝手に数えておいてから、俺は気がついた。確定すれば、の話だ。港の千二百枚だって、まだ王都で止まったままなのだ。
それでも、四百二十枚は四百二十枚だった。
*
帰りぎわ、伯爵は俺たちを、二階の露台まで引っぱっていった。丘の下を見せたいらしい。
広間でのことは、もう半分くらい忘れてしまったような顔をしている。
「調査官、お前は気に入ったぞ。今度は狩りに来い。馬には、余が乗せてやる」
「乗れませんよ」
「乗せてやると言っておる」
伯爵が胸を張ると、隣のギンが俺の袖を引いた。
「ヘイジさん、乗せてもらったらどうですか」
「落ちたら、誰が四千二百枚を数えるんだよ」
ギンは、本気で残念そうな顔をした。
伯爵は、露台の手すりに両手をついて、丘の下を見下ろした。
丘の下には、川が一本流れている。その川沿いに、麦畑が帯のように続いていた。
「だがな、税の話なら、もう来ても無駄だぞ」
伯爵は、上機嫌で言った。
「余の土地からは、一粒の税も取れんぞ。紙が全部そう言っておる」
伯爵は、川沿いの畑の方へ顎をしゃくってみせた。
俺は、その顎の先を見た。
川沿いの麦畑には、畦ごとに杭が一本ずつ打ってあった。
杭の頭には、どれも鹿の角を二本交えた紋が焼きつけてある。伯爵の紋だ。
その杭のあいだで、村の者たちが、腰をかがめて麦の手入れをしていた。
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