第39話 水車小屋
町はずれの川べりの水車は、近くまで来ると、思っていたよりずっと大きかった。
羽根が一枚ずつ水をすくい上げては、てっぺんでざあっとこぼしていく。小屋の中からは、石臼の回るごろごろという音が、足の裏まで伝わってきた。
戸口から覗くと、粉屋の親父が臼の前に立っていた。
髪も眉も、粉で真っ白だ。
「署の調査官です。少し、話を聞かせてもらえますか」
親父は、臼から目を離さなかった。
漏斗に麦を足して、落ちてくる粉を指でつまむ。指先でこすって、また臼の方を見る。
返事をしたのは、小屋の裏から出てきた女房の方だった。
「うちの人は、臼が回ってるあいだは口をききませんよ。話なら、あたしが聞きます」
女房は、粉だらけの前掛けで手を拭いて、小屋の前の長椅子を勧めてくれた。
小屋の脇には、土で塗り固めた小さな窯がある。そこから、パンの焼ける匂いが流れてきていた。
「ここで挽く麦は、どこから来るんです」
「伯爵様のご領地のまわりの村からですよ。村の倉の麦を、荷馬車で運んでくるんです」
「毎年、どのくらい挽きます」
「さあ、数えたことはないねえ」
女房はそう言ってから、小屋の中の親父の背中を顎で示した。
「でも、うちの人は覚えてますよ。臼の目で」
「臼の目、ですか」
ギンが聞き返すと、女房はうなずいた。
「石臼ってのはね、挽いてるうちに溝がすり減って、粉が粗くなるんです」
「溝が、ですか」
「そう。だから、ときどき溝を彫り直してやるんですよ」
「それを、何回やったかで」
「ええ。うちの人は、毎年三度。麦刈りの後と、雪の前と、春先とね」
小屋の中で、臼の音が止まった。
親父が戸口に出てきて、粉だらけの手で、壁に立てかけた鑿を一本取る。刃先を、日に透かして見た。
「去年も三度だ」
親父は、刃先を見たまま言った。
「一昨年も、その前もな。この五年、二度で済んだ年は一度も無え」
親父はそれだけ言うと、鑿を壁に戻して、また臼の前へ戻っていった。
臼が、ごろごろと回りだす。
女房が、少し得意そうに笑った。
「ね。あの人は、臼の目で一年を数えてるんですよ」
「凶作の年も、三度だったんですね」
「凶作?」
女房は、きょとんとした顔をした。
「この辺りで凶作なんて、聞いたことがありませんよ」
「去年も、ですか」
「去年の冬なんか、うちの人は腰を痛めるくらい挽いたんだから」
「村の麦は、誰がここへ回してるんです」
「代官様ですよ。どの村の麦をうちで挽くか、代官様が決めてくださるんです」
女房は、前掛けの粉を払いながら言った。
「うちは、代官様のおかげで食べてるようなもんでね」
「だったら、今の話は、伯爵様の前で言うことになっても、かまいませんか」
女房が、困ったような顔で小屋の中を振り返った。
臼の音が、また止まっていた。
「臼の目の数は、誰の前で言ったって変わらねえよ」
中から、親父の声だけが返ってきた。
女房は肩をすくめて、仕方なさそうに笑った。
「ああいう人なんですよ」
女房はそう言って立ち上がると、窯の前にしゃがみ込んだ。
鉄のへらで、焼けた丸いパンを二つ、三つと引き出していく。
「ちょうど焼けたところでね。挽いたばかりの粉だから、町のパン屋のよりおいしいですよ」
割ると、湯気と一緒に、麦の甘い匂いが顔にかかってきた。
皮は固いのに、中は指が沈むほど柔らかい。噛むと、塩の後から、麦の味が口の中にじわっと広がる。
一つ目を食べ終えたところで、気がつくと二つ目に手が伸びていた。
女房が、それを見てけらけら笑った。
「調査官さん、遠慮ってものを知らないね」
「港の一年で、忘れちまいました」
「ヘイジさんは、港に行く前から知りませんでしたよ」
ギンが、パンを半分にちぎりながら言った。
女房が、また笑った。
*
パンを食べ終えた頃、街道の方から、荷馬車が一台下りてきた。
荷台には、麦の袋が積んである。御者台の男は、日に焼けた顔を手ぬぐいで拭きながら、水車小屋の前で馬を止めた。
「おかみさん、今日の分だ。二十袋」
「はいよ。そこへ下ろしといておくれ」
御者は、袋を一つずつ肩に担いで、小屋の脇へ積みはじめた。
積み終えるのを待ってから、俺は声をかけた。
「毎年、村からここへ麦を運んでるんですか」
「一年じゅうさ。もう二十年になる」
「凶作の年は、運ぶ袋が少なかったでしょう」
「凶作?」
御者は、手ぬぐいを首にかけたまま、俺の顔をしげしげと見た。
今日だけで、この顔を見るのは二度目だ。
「一往復に二十袋。毎年、同じだけ往復したよ」
「去年もですか」
「去年もさ。袋が半分になってたら、俺の稼ぎも半分だ」
御者は、空になった荷台を叩いてみせた。
「そんな年があったら、俺は女房に家を追い出されてるよ」
御者は笑いながら御者台に上がると、また街道の方へ馬を返していった。
*
町の東にある村までは、麦畑のあいだの道を歩いて、半刻ほどだった。
膝の高さまで伸びた麦のあいだで、村の者が腰をかがめて草を抜いている。
道ばたで休んでいた夫婦に声をかけると、亭主の方が、俺のコートを見て身構えた。
「税なら、秋にちゃんと代官様に払ってますよ」
「知ってます。今日は、その話を聞きに来たんです」
「その話?」
「去年と一昨年と、四年前。その三年の税は、いくら払いました」
「いくらって、いつもと同じですよ。麦を売った金の、一割です」
亭主は、隣の女房と顔を見合わせた。
「三年とも、ですか」
「三年ともですよ。毎年、秋になると代官様が回ってきて、一割きっちり持っていく」
「一粒もまけてくれなかったよねえ」
女房の方が、口をとがらせて言った。
「一昨年なんか、うちの人が足を怪我して、刈り入れが遅れたんですよ」
「それでも代官様は、待ってくれなかったんですか」
「待つもんですか。一割きっちり、秋のうちにね」
「凶作の年だったのに、ですか」
ギンが聞くと、亭主は眉を寄せた。
「凶作?」
今日、この顔を見るのは三度目だった。
「凶作なんて、誰が言ったんです」
「伯爵様が、王都にそう届けてるんですよ。去年も一昨年も、四年前も」
亭主は、しばらく返事をしなかった。
それから、自分の畑の麦を見て、俺の顔を見て、また麦を見た。
「……それで、何か変わるんですか」
「凶作の年は、税が半分になるんです」
「半分?」
亭主の声が、少しだけ大きくなった。
草を抜いていた隣の畑の男が、腰を伸ばしてこっちを見る。
「俺たちは、一割払ってますよ。半分になんか、一度もなってない」
「でしょうね」
隣の畑の男が、抜いた草を手に持ったまま、畦を踏んでこっちへ来た。
その後ろから、草取りをしていた村の者が、一人、二人とついてくる。
「おい、半分ってのは何の話だ」
「伯爵様が、凶作だって王都に届けてたんだとよ。去年も、一昨年もだ」
亭主がそう言うと、隣の畑の男は、手の草を道に放った。
「冗談じゃねえ。去年なんか、うちの麦は穂が重くて、倒れちまったくらいだぞ」
「うちだって一割払ったよ。秋に、代官様の前で数えてね」
後ろにいた年寄りの女が、そう言って腰を叩いた。
いつの間にか、道ばたには村の者が六人も集まっていた。
みんな、払ったのは一割だと言う。半分で済んだ年があったと言う者は、一人もいない。
隣の畑の男が、俺の顔をのぞき込んだ。
「お役人さん。じゃあ、残りの半分は、どこへ行ったんです」
俺は、答えなかった。
答えるより先に、道の向こうから、馬の蹄の音が近づいてきたからだ。
*
麦畑のあいだの道を、鹿毛の馬が一頭、こっちへ駆けてくる。
乗っているのは、五十がらみの痩せた男だった。上等な乗馬靴を履いて、鞍の脇に革の鞄を下げている。
畑の者たちが、草を抜く手を止めて、いっせいに頭を下げた。
「代官様だ」
亭主が、俺の横で小さく言った。
代官は、頭を下げた村の者たちを見回しながら、馬の足をゆるめた。
それから、道ばたに立っている茶色のコートに目を留めた。
俺の顔を見て、隣のギンを見て、もう一度俺のコートを見る。
代官の手が、手綱をぐっと握り直した。
鹿毛の馬が、横腹を蹴られて首を振る。代官は俺たちの前を、さっきより速い足で駆け抜けていった。
村の者たちは、頭を下げたまま、その背中を見送っている。
「あの人、いつもあんなに急いでるんですか」
ギンが聞くと、亭主は首をかしげた。
「いつもは、もっとゆっくり、畑を一枚ずつ眺めていかれるんですがね」
蹄の音は、伯爵の館のある方へ、どんどん遠ざかっていった。




