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第38話 麦の値段

 穀倉の署は、市場の裏で、麦の倉と倉のあいだに挟まれた平屋だった。

 戸を開けると、窓口の机に中年の女が一人座っている。その奥に調査官の机が二つあって、さらに奥が署長の部屋だ。

 開けっぱなしの戸の向こうで、白髪の男が椅子を窓辺の日なたまで引っぱり出して、爪を切っていた。

 穀倉の署長だという。


「港から来た上席さんだね。話は王都から聞いてるよ」


 署長は、ぱちんと爪を切ってから、ようやく顔を上げた。


「調査官は、きみとそっちの記録役さんの二人だ。前にいた若いのは、去年の秋に王都へ帰ってしまってね」

「署の人は、ほかには」

「窓口と、私だけだよ。それで足りている」


 署長はそう言うと、切った爪を紙の上に集めて、窓の外へ払った。

 窓から風が吹き込んできて、外の畑の麦の芽が、一面に同じ向きへなびく。

 俺の机は、窓口の奥の二つのうちの一つだった。今度は倉庫じゃない。それだけで、穀倉の署はずいぶん上等に見える。


「ここの収穫税は、どうやって集めてるんです」

「伯爵様が、ご領地のまわりの村から集めてくださる」

「伯爵様が、ですか」

「伯爵様の代官が、秋に村を回って集めるんだよ。それを伯爵様が、まとめてうちへ納めてくださる」

「署は」

「受け取って、王都へ送る。それだけだね」

「それだけ、ですか」

「それだけで、私はこの署に十五年いるんだよ」


 署長は、何でもないことのように言った。

 隣で、ギンが小さく首をかしげている。


「村の人から、署が直に集めたりはしないんですか」

「この辺りの村は、みんな伯爵様のご領地のまわりだからね。代官の方が、村の顔をよく知っている」

「いつもの年で、いくらくらい納まるんです」

「千九百枚ほどだね。凶作の年は、その半分になる」

「凶作の年、というと」

「ここ五年なら、去年と、一昨年と、四年前だ」


 五年のうち、三年。

 俺は、窓の外の麦を見た。


「三年も凶作があって、よく町が干上がりませんでしたね」

「干上がってないねえ」


 署長は、のんびりとうなずいた。


「凶作の年は、伯爵様から届けが出る。収穫が少なかったから、税を半分にしてくれ、とね」

「出れば、半分にするんですか」

「それが決まりだからね」

「その届けが本当かどうか、確かめたことは」

「伯爵様の届けだよ。判を押すのが、私の仕事でね」


 署長は爪切りを引き出しにしまうと、そこで初めて、俺の顔をまともに見た。


「上席さん。港で何をしてきたのかは、聞いている。だがね、貴族には触るな」

「触ったら、どうなります」

「どうにもならないよ。触っても何も出ない。伯爵様の紙は、いつも全部揃ってるんだ」

「触ってみないと、出るかどうか分からないですよね」


 ギンが、真顔でそう言った。

 署長は、ギンの顔をしばらく眺めてから、また窓の外へ目をやった。


「若いね」


 それきり署長は、日なたで目を閉じてしまった。

 いつもの年が、千九百枚。凶作の年は、その半分の九百枚と少しだ。

 その差が三年分で、ざっと二千八百枚になる。

 もしその凶作が嘘だったら、そこに加算の半分が乗る。

 ……一割で、四百枚を越えるじゃねえか。

 日なたの署長の寝息を聞きながら、俺はコートを取って立ち上がった。


     *


 穀倉の町の市場は、町の真ん中の広場にあった。

 朝のうちに村から来た荷車が、広場のまわりに並んで、麦の袋を下ろしている。

 広場の真ん中には大きな秤が一つ据えてあって、袋は全部、そこで量ってから売り買いされるらしい。

 秤の番をしているのは、腰の曲がった年寄りだった。

 袋を皿に載せては、反対の皿に分銅を足していく。分銅を足す手は、一度も迷わない。

 ギンは広場の端に立って、入ってくる荷車を目で数えていた。港の一年で、すっかり癖になったらしい。


「この秤の番は、長いんですか」


 年寄りの手が空いたところで、俺は声をかけた。


「四十年になるかね。若い頃は、親父がここに立ってた」

「じゃあ、麦の値のことなら、何でもご存じでしょう」

「値なら、毎朝この秤で決まるからね」


 年寄りは、分銅を一つ持ち上げて、指で表面の粉を拭いた。


「凶作の年は、麦の値が上がったでしょう」

「凶作?」


 年寄りは、分銅を持ったまま俺の顔を見た。


「いつの話だい」

「去年です」

「去年は、いつもの年だったよ」

「一昨年は」

「一昨年もさ」


 年寄りは、分銅を秤の脇へ戻した。


「ここ五年、麦の値は動いてないよ。袋一つ、ずっと同じ値だ」


 ギンが、荷車を数えていた目をこっちへ向けた。

 年寄りは、秤の皿の縁を手のひらで撫でている。


「本当の凶作ってのはな、わしが若い頃に一度あったきりだ」

「どうなりました」

「この広場に来る荷車が、半分になった。荷車が半分になりゃ、麦の値は倍になる」

「倍、ですか」

「倍でも、買える麦が無い。パン屋の前に、朝から人が並んでたよ」


 年寄りは、広場のまわりの荷車を顎で示した。


「見てみな。今年も、あの頃の倍は来てる。去年も、その前もそうだった」

「そうですか」

「凶作なんて言ったら、村の連中に笑われるよ」


 そこへ、次の荷車の男が袋を担いでやってきた。

 年寄りは俺から目を離して、袋を皿に載せる。分銅を足す手は、やっぱり一度も迷わなかった。


     *


 広場の奥には、背の高い倉が三棟並んでいた。

 町で一番大きな穀物商の倉だと、荷車の男の一人が教えてくれた。村から来た麦の半分は、あの倉へ入るのだそうだ。

 倉の前では、穀物商の使いが、荷車から下りた袋に印をつけていた。


「去年の秋、この倉に入った麦は、いつもの年より少なかったですか」


 俺が聞くと、使いは印をつける手を止めて、妙な顔をした。


「少なかったら、旦那が怒鳴り散らしてますよ」

「怒鳴ってませんでしたか」

「去年の秋は、倉が足りないってんで、旦那が四棟目を建てるかどうか迷ってたくらいです」


 使いは、印をつけた袋を次の男に渡しながら言った。


「調査官さん、何を調べてるんです」

「麦の値段ですよ」


 使いは、まだ妙な顔のままで、次の袋に印をつけはじめた。


     *


 市場からの帰り道、ギンは珍しく、しばらく黙っていた。

 広場のまわりの荷車を、ずっと数えていたからだろう。


「朝のうちだけで、四十二台でした」

「よく数えたな」

「今が、おじいさんの若い頃の凶作の倍なら、そのときは二十一台です」

「そうなるな」

「去年も、四十台くらいは来てたってことですよね」


 ギンは、そこで足を止めた。


「去年も、凶作の届けが出てるんですよね」

「出てるな。署長が自分で判を押してる」

「でも、秤のおじいさんは、いつもの年だったって」

「穀物商の使いも、倉が足りなかったと言ってたな」

「署長さんに、言いますか」

「言ったって、日なたで目を閉じるだけだろうよ」


 ギンは口をとがらせて、署の方を振り返った。


     *


 署に戻ると、署長は日なたの椅子で、まだ目を閉じていた。

 窓口の女が、俺たちの靴についた麦の殻を見て、市場ですかと聞いた。


「ええ。秤の番の年寄りに、麦の値を聞いてきました」

「あのおじいさんなら、何でも覚えてますよ。わたしの嫁入りの年の値まで言い当てるんだから」


 窓口の女は、そう言って笑った。

 この署の窓口に座って、二十年になるのだという。


「凶作の届けは、誰が持ってくるんです」

「代官様ですよ。秋に、税のお金と一緒に」


 窓口の女は、窓口の机の端を指でとんとんと叩いた。


「毎年、ここに置いていかれるんです。凶作の年も、いつもの年も」

「凶作の年は、代官様も気の毒そうな顔をしてたでしょう」

「それがねえ」


 窓口の女は、日なたの署長の方を一度だけ見てから、声を落とした。


「にこにこしてらっしゃるんですよ。今年も半分で頼むよ、なんて」

「凶作なのに、ですか」


 ギンが聞き返すと、窓口の女は肩をすくめた。


「伯爵様のところは、凶作でもお困りにならないんでしょうね。わたしは、そう思ってましたけど」


 日なたの椅子が、ぎいっと鳴った。

 署長が、片目だけ開けてこっちを見ている。


「触ってないだろうね、上席さん」

「麦の値段を見てきただけですよ」

「それならいい」


 署長は、また目を閉じた。

 ギンが、俺の袖を小さく引っぱった。


「ヘイジさん。払えないから待ってくれって窓口に来た人で、笑ってた人はいませんでした」

「だろうな」


 俺は、窓の外へ目をやった。

 家並みの向こうで、麦の芽が、また一面に同じ向きへなびいている。

 凶作の届けが出た三年のあいだ、この町の市場だけは、凶作を一度も知らなかったことになる。


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