第37話 今年も来たぞ
港を出てから四日のあいだ、馬車の中はずっと干し魚の匂いがしていた。
ギンが、母親に届ける干し魚の束を、膝の上に抱えているからだ。最初は鞄に詰めていたのに、二日目の宿で、潰れると言って引っぱり出してきた。
向かいの席の毛織物商は、その日から窓の方へ顔を向けたきりだ。
気の毒だとは思うが、俺には何も言えない。束を抱いているのは、うちの記録役なのだ。
四日目の昼前に、馬車は東門をくぐった。
門から街の中へ延びる道は、去年の春に港へ発ったときと、何も変わっていない。
変わっていたのは、道の角だった。
角の食堂が、横に倍の長さになっている。
去年は空き家だった隣の家と、壁を抜いて一つの店につながっていた。大工がはめ込んでいた窓の向こうに、客の頭がいくつも並んでいる。
店の前の杭には、荷馬車の馬が二頭つないであった。
「東門の角だよ。西へ行くお客は、ここで降りてくれ」
御者が手綱を引いて、馬車を止めた。
「穀倉へ行くんなら、西門から出る馬車に乗り換えだ。出るのは明日の朝だよ」
降りたとたんに、窯の匂いが道まで出てきているのが分かった。
焼けた脂と、焦げた粉の匂いだ。四日ぶりに、干し魚ではない物の匂いを嗅いだ気がする。
ギンは干し魚の束を抱え直して、通りの先を見た。
「ヘイジさん。あたし、先に母さんの家に……」
そう言いかけたまま、ギンの鼻は窯の匂いの方を向いている。
「……お昼を食べてからにします」
「干し魚はどうすんだよ」
「もう四日も待ってるんです。あと少しくらい、平気です」
*
戸を開けると、店の中は昼の客でいっぱいだった。
荷馬車の御者らしい男たちが、壁を抜いた向こうの新しい席まで埋めている。窯だけは、前と同じ場所にあった。
その窯の前で、店主が木べらを握って、焼き上がったパイを引き出しているところだった。
俺は、戸口で言った。
「今年も来たぞ」
店主は、振り返らなかった。
「知ってるよ」
木べらの上のパイを台に移しながら、店主が言ったのはそれだけだった。
そのまま顎だけで、窯のそばの小さな机を示す。そこしか空いていないらしい。
座ったところへ、女房が皿を両手に三枚ずつ持って、客のあいだをすり抜けてきた。
俺の顔を見て、それからギンの顔を見る。
「あら、記録役さんじゃないか。ちょっと待っといで、今は手が離せないんだよ」
女房は、それだけ言ってまた行ってしまった。
俺の方には、一言も無かった。まあ、いい。こっちは飯を食いに来たんだ。
しばらくして、パイを持ってきたのは店主の方だった。
切り分けた肉のパイが二切れ、皿に載っている。店主はそれを机の真ん中に置くと、すぐに窯の前へ戻っていった。
端の焦げたところから、かじる。
皮がぱりっと割れて、熱い脂が舌に落ちてきた。港の一年、魚ばかり食っていたせいか、肉の味がやけに濃い。
気がつくと、一切れがもう無くなっていた。
ギンの方は、まだ半分も食べていない。膝に干し魚の束を載せたまま、熱そうにパイを吹いている。
隣の机では、御者が三人、俺のコートを見ながら顔を寄せていた。
「あの茶色いの、歩合取りじゃねえか。港へ飛ばされたって聞いたぞ」
「生きてたのかよ」
三人目の年かさの御者が、パイをかじりながら肩をすくめた。
「この街の署も、近ごろは妙なもんだぜ。二人で来て、取る前に理由まで言っていきやがる」
そこへ女房が、空いた皿を重ねながら割って入った。
「あんたたち、しゃべってる暇があったら、食べ終わった皿をこっちへよこしな」
御者たちは首をすくめて、皿を差し出した。
昼の客が少しずつ引いていくと、女房が前掛けで手を拭きながら戻ってきた。
空いた皿を下げるのかと思ったら、ギンの隣の椅子に、どすんと腰を下ろす。
「港は、どうだったい。ずいぶん潮くさくなって帰ってきたね」
「これ、母に持っていく干し魚なんです」
「道理で。さっきから店の中まで、海の匂いがすると思ったよ」
女房は笑ってから、少しだけ声を落とした。
落としたといっても、机の向かいの俺には、ちゃんと聞こえる声だ。
「隣の家ね、この冬に買い取ったんだよ」
「借りてたんじゃなかったんですか」
「借りてたさ。家主が売るって言うから、粉屋に頭を下げて金を借りてね」
「それで、買ったんですか」
「買ったよ。その借りた分も、こないだ残らず払い終えたんだ」
「よかったですね、奥さん」
「まあね。あんたには、言っとこうと思ってさ」
女房は、一度も俺の方を見なかった。
俺は、窓の外の荷馬車を眺めていた。杭につながれた馬が、二頭とも鼻先をこっちの窓へ向けている。あいつらも、この匂いにやられているらしい。
ギンは何も言わずに、残りのパイを食べはじめた。
さっきまでふうふう吹いていたのに、今度は吹かずに口へ運んでいる。
食べ終えたところで、俺は銅貨を二枚出して、皿の横に置いた。
店主が窯の前から来て、二枚をつまみ上げる。手のひらに載せて、一度だけ目を落とした。
「二枚だな」
「二切れだからな」
店主は、銅貨を前掛けのポケットにしまった。
空いた皿を取りかけたところで、その手が止まる。
「次は、どこへ行かされるんだ」
「穀倉です。西の」
「麦の土地か」
店主は皿を持ったまま、少しだけ考えるような顔をした。
「あそこの粉はいいって聞くな。挽きが細かいんだとさ」
「パン屋みたいなことを言いますね」
「パイの皮だって、粉で決まるんだよ」
俺がコートを取って立ち上がると、ギンも慌てて干し魚の束を抱えた。
戸口まで来たところで、後ろから女房の声がする。
「記録役さん、母さんによろしくね」
「母を、知ってるんですか」
「知らないよ。言っとくだけさ」
ギンは少し首をかしげてから、それでも丁寧に頭を下げた。
店主は、窯の方を向いたままだった。
*
ギンが母親の家へ駆けていくのを見送ってから、俺は西門のそばの宿へ向かった。
署のある中央通りは、通らずに済む道を選んだ。
次の朝の西門の通りには、また春の市の屋台が並びはじめていた。
穀倉行きの馬車の前で待っていると、ギンが鞄一つで走ってきた。干し魚の束は、もう抱えていない。
「届けたか」
「届けました。母さん、固くて歯が立たないって笑ってました」
「水で戻すんだよ、あれは」
「言いました。でも、ずっとあたしの顔ばかり見てて、聞いてなかったです」
「顔を?」
「港で死ぬかもしれないって、去年の手紙に書いたので」
「……書くなよ、そんなこと」
「本当のことでしたから」
それはそうだが。
ギンは先に馬車へ乗り込むと、窓ぎわの席に座った。俺は、その向かいに腰を下ろした。
*
西門を出て二日目の昼から、窓の外の景色が変わらなくなった。
低い丘を一つ越えると、また畑が始まる。次の丘を越えても、まだ畑だ。
春に種をまいたばかりの畑には、指の長さほどの緑の芽が、筋になって並んでいた。土の茶色と芽の緑が、縞になって、丘の向こうまで続いている。
ギンは窓に額をつけて、ずっと唇を動かしていた。
「何を数えてんだ」
「畑です。家と家のあいだで、一枚ずつ」
「何枚になった」
「百を越えたところで、どこからが次の畑なのか分からなくなりました」
ギンは悔しそうに、窓から額を離した。
御者が、御者台から振り返って笑った。
「数えたってきりがないよ、お嬢ちゃん。ここから先は、ずっと麦だ」
「ずっと、ですか」
「この辺りで麦じゃないのは、伯爵様の狩り場の森くらいなもんさ」
「伯爵様、ですか」
「この辺りの村は、みんな伯爵様のご領地のまわりにあるんだよ。狩りと馬のお好きな方でね」
御者は、それから声を立てて笑った。
「館で笑っておられると、麦畑の向こうまで聞こえるって話だ」
御者が鞭の先で示した方には、平らな畑の真ん中に、黒い森が一つだけ盛り上がっていた。
その森のぐるりにも、やっぱり緑の縞が寄せてきている。
この麦の値の一割が、収穫税になる。
どこまで続いているのかは知らねえが、続いているだけ税も続くわけだ。
そう思って眺めると、同じ縞ばかりの景色も、そう悪くはない。
港の千二百枚は、まだ王都で止まったままになっている。せめてこっちの麦で、その分くらいは稼いでおきたいところだ。
三日目の夕方、馬車は川を一本渡って、穀倉の町に入った。
町の手前には、背の高い倉がいくつも並んでいる。町はずれの川べりでは、水車が一つ、夕日の中でゆっくり回っていた。
町に入る坂の途中で、ギンがまた窓から身を乗り出した。
町の屋根の向こうにも、川の向こうにも、緑の縞がまだ続いている。
「ヘイジさん」
「何だ」
「どこまで麦なんですか」
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