第36話 十倍の数字
王都の財務院は、冬の終わりになっても、廊下の石が足の裏から冷えてくる。
私が次官の部屋の戸を叩いたのは、夕方の鐘が鳴ったあとだった。
次官は灯りの下で、ペンを動かしていた。私が入っていっても、顔は上げない。いつものことだ。
「港から、先月の関税の届けがまいりました」
「言え」
「金貨で、百九十枚でございます」
次官のペンが、止まった。
「去年の同じ月は、十九枚でした」
次官は、顔を上げなかった。止まったペンの先から、インクが一滴、紙に落ちる。
「十倍でございます」
次官は、ペンを置いた。
それきり、何も言わなかった。
窓の外で、中庭の木の枝から雪の落ちる音が、二度した。灯りの芯が、じじっと小さく鳴る。
私は、手を前で組んだまま待った。
次官がこういうふうに黙るのを、私はこの部屋で何度か見ている。ただ、こんなに長いのは初めてだった。
去年の春、港への辞令を私に渡すとき、次官は一言だけ言ったのだ。
「港なら、秋まではもつまい」
去年の春に私が辞令を読み上げた、茶色のコートの調査官。
あの男の数字は、港で止まるはずだった。
数字が止まれば、あの男を守っていた税収も消える。そのくらいのことは、わざわざ聞かなくても私にも分かった。
それが、十倍だ。
港へ調査官を送る辞令は、これまでにも二度、私が読み上げている。
一人目は、半年で桟橋から落ちた。二人目はひと月で王都へ戻ってきて、それからは、いい酒ばかり飲んでいる。
一年近くたっても港に残っているのは、三人目のあの男だけだった。
*
次官の机の端には、ふた月前から、紐で縛った紙の束が一つ置いてある。
港の屋敷の主から届いた、不服の申し立てだ。封の蝋には、錨に波を二本重ねた印が押してあった。
次官は、その束に手を伸ばした。
ようやく開くのだろうか。
ところが次官は、束を一度も開かずに、机の引き出しへ入れてしまう。それから引き出しに鍵をかけて、その鍵を上着の内側にしまった。
私は、何も言わなかった。
不服が片づかなければ、港の更正は確定しない。確定しなければ、あの男の歩合の千二百枚は出ない。
そして、この不服を片づけるのは、この部屋の主なのだ。
次官は新しい紙を引き寄せて、もう一度ペンを取った。書き終えるまで、そう長くはかからなかった。
「春になったら、読んでこい」
渡された辞令には、穀倉地帯の署の名が書いてあった。
インクが、まだ乾ききっていない。
「かしこまりました」
私は辞令を受け取ってから、少しだけ迷って、口を開いた。
「港の上席は、また栄転ということで、よろしゅうございますか」
「好きに言え」
次官は、もうこちらを見ていなかった。
*
春の港は、潮と魚の匂いがした。
前にこの港へ下りてきたとき、税関の小屋の役人たちは、日陰に座ってカードを配っていたものだ。
その日陰の腰掛けが、今は片づけられている。代わりに、小屋の前には大きな秤が据えてあった。
秤の横では、酒臭い男が樽を抱え上げては、役人に何か耳打ちしている。人足頭か何かだろう。
坂を上って署の戸をくぐると、港の署長が私を見るなり両手を揉んで、二階へどうぞと言った。
「上席調査官に、辞令を伝えにまいりました」
「上席どのでしたら、一階の奥に」
「奥、と申しますと」
「倉庫でございます。机が、そちらにございまして」
港の署長の額に、春なのに汗が浮いていた。
港の署長は、そこで声を落とした。
「あの、使いどの。王都では、わたしのことは、何か」
「港の関税が十倍になった、とだけ伺っております」
「さようで……」
港の署長は、ほっとしたのか、かえって怖くなったのか分からない顔で、何度もうなずいた。
一年いて、まだ倉庫か。
私は少し驚いて、それから、あの男なら倉庫でも気にしないだろうと思い直した。
倉庫には、窓が一つしかなかった。
その窓の下の机に、茶色のコートの男が座っている。隣の机では、銀髪の娘が頬杖をついていた。
去年の春、最初の街の署の窓口で、私が辞令を手渡した娘だ。
私が辞令を広げると、男は椅子から立った。娘も立った。
「辞令を申し伝えます。港の署の上席調査官、ヘイジ」
男は、黙って聞いている。
「右の者を、穀倉地帯の署へ移すものとする。記録役も、同行させるものとする」
栄転ですよ、と言いかけて、私はやめた。
なぜやめたのかは、自分でもよく分からなかった。
「穀倉ですか」
男の返事は、それだけだった。
「馬車は、いつです」
「明後日の朝に、出ます。峠の先の分かれ道までは、私もご一緒いたします」
「そうですか」
それから男は、思い出したように付け加えた。
「それと、俺の千二百枚。王都で止まってるそうですね」
「屋敷の主の不服が、まだ片づいておりませんので」
「片づいたら、穀倉まで届けてください。利子は取りませんから」
私は、次官が引き出しの鍵を上着の内側にしまったときの手つきを、思い出していた。
「……お伝えしておきます」
隣で、銀髪の娘が男を見上げた。
「あたしも、行くんですよね」
「記録役も同行、とございます」
「知ってます。一応、聞いただけです」
娘はそう言うと、机の下から干し魚の束を引っぱり出して、鞄に詰めはじめた。
「母に送るんです。穀倉へ行くなら、途中で最初の街を通りますよね」
「ええ。王国の真ん中を抜けていくことになります」
「だったら、自分で届けます」
辞令を読み上げた使いの前で、干し魚を鞄に詰める者を、私は初めて見た。
*
港を出る朝、馬車は魚市場の前を通って、桟橋の付け根の方へ下りていった。
見送りは、誰も来ていなかった。
ただ、魚市場の前で荷を担いでいた年寄りの人足が、足を止めて馬車の方を見た。浜の方の屋台からは、亭主らしい男が、鍋の湯気の向こうでこちらを眺めている。
男は、湾の方の窓を見ていた。娘は、男の向かいで、桟橋の方の窓に顔を寄せている。
馬車が税関の小屋の前を通った。
桟橋の付け根に、袖口をインクで汚した若い役人が立っていた。
入り江の口から、ちょうど帆を張った船が一艘、入ってくるところだった。若い役人は、その船の腹を見て、唇を動かしている。
馬車の窓のすぐ外を通ったのに、若い役人は、こちらを見なかった。手も振らない。
「手、振りませんね」
娘が言った。
「数えてる最中に手なんか振ったら、数が狂うだろうが」
男は、湾の方を見たまま言った。
馬車が坂を上りはじめると、桟橋はすぐに、魚市場の屋根の陰に隠れてしまう。
峠にかかったあたりで、私は男に聞いてみた。
「屋敷の主の二千枚を、お断りになったそうですね」
「そんな話まで、王都に届いてるんですか」
「港の噂は、船より早く王都に着きますので」
男は、それには返事をしなかった。
代わりに、男の向かいに座った娘が、私の顔をじっと見ている。窓口に座っていた頃は、客の申告を、きっとこういう目で読んでいたのだろう。
「使いの人は、どうしてそれを聞くんですか」
「さあ。どうしてでしょうね」
聞いてどうするつもりだったのか、私にも分からなかった。次官に、聞いてこいと言われたわけでもない。
男は、窓の外の峠の木々を眺めながら、ぼそりと言った。
「穀倉ってのは、パンがうまいんですかね」
「麦の土地ですから、たぶん」
「そいつはいい」
娘が、呆れたように小さく息を吐いた。
峠の先の分かれ道で、私だけが馬車を降りる。
王都へ向かう馬車に乗り換えてからも、次官に何と言うかを、私はずっと考えていた。
辞令は、読み上げました。あの男は、穀倉へ向かいました。港の関税は、十倍のままです。
言うのは、それだけにしておこう。
それだけで、あの方はまた長いこと黙るのだろう。




