第35話 綱
港に、その冬はじめての雪が降った。
海のそばの雪は、積もる前に溶けてしまうものらしい。倉庫の窓から見える坂道は、白くなりかけては黒く濡れて、また白くなる。
一階の奥の倉庫は、木箱が消えてから、やけに広くて寒い。
机の下の火鉢に足をかざしていると、港の署長が戸口に立った。
異議の場からこっち、港の署長がこの倉庫まで下りてきたことは一度も無い。
「上席どの。王都から、知らせがございまして」
港の署長は、戸口から中へは入ってこなかった。
目は、俺の顔ではなく、机の角のあたりを見ている。
「旦那様の不服は、王都の財務院でお預かりになるそうです」
「そうですか」
「旦那様は先月のうちに、一万二千枚を一度に納めておられます。それでも、不服は不服だと」
「払うものを払って、文句も言う。筋は通ってますね」
「片づくまでは、この港の更正は確定しない、ということで」
「でしょうね」
「ですので、上席どのの歩合の千二百枚は、王都で片づくまで、お出しできません」
そこで港の署長は、ようやく、ちらりと俺の顔を見た。
「確定してから払ってくれと、上席どのがおっしゃいましたので」
「言いましたね」
「……はい」
港の署長は、それきり黙った。
帰るのかと思ったら、まだ戸口に立っている。
「それから、先月の港の関税ですが」
「ええ」
「去年の同じ月の、十倍でございました」
港の署長は、俺が何か言う前に頭を下げて、二階へ戻っていった。
十倍と言ったときも、港の署長の目は、机の角から動かなかった。
「千二百枚、止まっちゃいましたね」
隣の机で、ギンが言った。
「自分で作った決まりに、自分で縛られてりゃ世話ねえな」
「決まりを作ったのは、最初の街の署長ですよ。ヘイジさんは言っただけです」
「言わなきゃよかったよ」
千二百枚。
週に銀貨八枚の俺の給金なら、三十年近く働かないと手に入らない額だ。それが、王都のどこかの机の上で、ほこりをかぶっている。
火鉢に足をかざしたまま、俺はしばらく、その机のことを考えていた。
*
ギンと濡れた坂道を下りていく途中で、屋敷の使用人とすれ違った。
籠を一つ提げて、魚市場の方から上ってくる。
使用人は俺に気づくと、足を止めて、いつものように胸に手を当てた。
「上席さま。旦那様が、雪の中ご苦労さまです、と」
「旦那に、よろしく言っといてください」
使用人は深く頭を下げて、また坂を上っていった。
ギンが、その後ろ姿を振り返る。
「あの人が自分で魚を買いに行くの、初めて見ました」
「魚屋が、坂の上まで届けに行かなくなったんだろうよ」
桟橋に下りると、関税の桁が変わったのは、港の署長に言われるまでもなく分かった。
税関の小屋の日陰で、カードを配っている役人は、もう一人もいない。
入ってきた船の前には、役人が二人ずつ立って、樽を一つずつ秤にかけている。
港の署の調査官たちも、桟橋に下りてきていた。
子持ちの四十がらみが、葡萄酒の樽を抱えて秤にのせようとして、腰を押さえている。
杭に座った俺と目が合うと、四十がらみは、照れたような顔をした。
「上席どの。樽ってのは、重いもんですな」
「重いですよ」
「十年、この港にいて、持ち上げたのは今日が初めてです」
四十がらみはそう言うと、樽を秤にのせて、腰を叩きながら次の船へ歩いていった。
桟橋の付け根には、若い役人が立っている。
異議の場の次の朝から、税関の頭は、何も言わずに若い役人を桟橋に戻した。港の署長が、頭に何か言ったらしい。
若い役人は、袖口を新しいインクで汚しながら、降りてくる荷を一つずつ数えていた。
その横を通る船長たちが、ぼやく声が聞こえてくる。
「あの若いのに数えられると、樽一つ、ごまかせやしねえ」
「去年までは、二十樽って言やあ二十樽で済んだのによ」
ぼやきながらも、船長たちは、言われた分の関税をちゃんと払っていく。
*
干し魚の船長は、このところ毎日、浜の外れの岩で酒を飲んでいる。
その日は珍しく、桟橋まで下りてきていた。
船長は、自分のものだった船の前に立って、旦那の雇い人が甲板を洗うのを眺めていた。手に持った瓶は、半分ほど空いている。
若い役人が、数えるのをやめて、船長の方へ歩いていった。
「船長さん。税関の荷改めを、手伝ってもらえませんか」
「俺に?」
船長は、瓶を下ろした。
「お前、俺が誰だか分かって言ってんのか。七十二枚取られた男だぞ」
「知ってます。だから、頼んでるんです」
「何だと」
「樽を持ち上げただけで、中に何が入ってるか分かる人が要るんです」
若い役人は、自分の細い腕を見下ろした。
「僕は数えられますけど、持ち上げたって何も分かりません」
船長は、じろりと若い役人を見た。それから、杭に座っている俺の方を見る。
俺は、湾の方を向いた。
入り江の口から、帆を半分たたんだ船が一艘、ゆっくり入ってくるところだった。
「歩合取りの手先になれってのか」
「税関の手伝いです。日当は銀貨二枚で、頭には、僕から話しました」
船長はしばらく、手の中の瓶を眺めていた。
「……干し魚の樽に何を詰めりゃ重くなるかなら、この港で俺が一番よく知ってるぜ」
「はい」
「酒は、朝のうちだけにしとくか」
船長は瓶に栓をして、上着の内側へしまった。
若い役人は、頭を一つ下げると、また桟橋の付け根へ戻って数えはじめる。
ギンが、杭の横から俺の顔を覗き込んできた。
「ヘイジさんが、あの人に言ったんですか」
「何をだよ」
「船長さんを呼べって」
「知らねえよ。俺の知ったことじゃねえ」
ギンは、何も言わずに湾の方を向いた。
*
夕方、浜の縄屋の前を通った。
杭と杭の間に張った綱の向こうの端で、母親が腰の麻を撚り足しながら、後ろ向きに少しずつ下がっている。車の取っ手を回しているのは、妹だ。
小屋の前には、小さな船の船主が二人、順番を待っている。
一人は、屋台の亭主だった。
「春までに、もう一本頼むよ。今度のは、少し太くしてくれ」
母親は、後ろへ下がる足を止めずに聞き返した。
「はいよ。網の引き綱ですか」
「ああ。浜の連中にも、ここで頼めって言っとくからな」
母親は、黙ってうなずいた。
大きな船の注文は、まだ一本も戻っていない。
主の船も、主に借りのある船も、相変わらずこの縄屋には寄りつかない。それでも、小さな船の綱は、一本ずつ戻りはじめていた。
母親が俺に気づいて、顔を上げた。
「あの子は、朝が早くなりましたよ」
「そうですか」
「暗いうちから、桟橋に立ってます。数えるのが、好きなんです。小さい頃から」
母親は、また腰の麻に指をやった。
俺は、小屋の前に積んである綱の輪を、つま先で軽く押してみた。ずいぶん固く綯ってある。
「一巻き、いくらです」
「銀貨三枚」
「高えな」
「港で一番、切れにくい綱ですから」
母親が、少しだけ笑う。
結局、綱は買わずに縄屋を出た。
*
年が明けて、桟橋に薄く雪の残っている朝だった。
入ってきた船の、見慣れない若い船長が、税関の役人に向かって大声で言った。
「干し魚を三十樽だ。急いでるんで、早いとこ頼むぜ」
樽を降ろしていた人足たちの間から、税関の手伝いになった干し魚の船長が出てきた。
樽の一つに両腕を回して、ひょいと持ち上げる。持ち上げたまま首をかしげて、そっと桟橋に下ろした。
「干し魚の樽ってのはな、もっと軽いもんだぜ」
干し魚の船長は、若い船長の顔を見上げた。
「開けてみな。俺も昔、同じのを運んでたんだ」
若い船長の顔から、血の気が引いていく。
桟橋の付け根で、若い役人が、口の中で樽の数を数え直していた。
俺は杭に座ったまま、その樽を眺めていた。
入ってきたその場で見つかりゃ、ただの関税だ。俺の歩合は、一枚も付かねえ。
「惜しいことしたな」
「何がですか」
隣の杭で、ギンが聞いた。
「あの樽、俺が見つけたかったんだよ」
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