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第34話 六百十二艘

 一番の鐘が鳴る前から、港の署の一階には人が入りはじめていた。

 窓口の机は壁際へ寄せられて、真ん中に長い机が一つ置いてある。そこに港の署長が座り、俺とギンの椅子は、その脇に二つ並べられていた。

 壁際に立つ顔を、俺は端から数えていった。

 人足が十四人に、船長が六人。浜の連中が九人で、その真ん中に、屋台の亭主がいる。

 干し魚の船長は戸口の柱にもたれて、赤い目をしていた。ゆうべも飲んだらしい。

 宿のおかみさんは、紺の古い上着を肩に羽織って、人足たちの後ろに立っている。袖が、手の先までだらりと余っていた。

 港の調査官も、四人とも来ていた。子持ちの四十がらみは、俺と目が合うなり床を見る。

 年寄りの人足は、一番後ろの壁に背中をつけて、腕を組んでいた。誰とも目を合わせようとしない。

 壁際だけで、三十四人。

 港の署の一階に、これだけの人が入ったのは、たぶん初めてだろう。


「ヘイジさん。人足のおじいさん、来てます」

「見りゃ分かるよ」


 隣で、ギンの声が少しだけ弾んでいた。


 鐘が鳴り終わると同時に、戸が開いた。

 屋敷の主が入ってくる。後ろには、使用人がついていた。

 その後ろから、もう三人。

 若い役人と、縄屋の母親と、妹だ。

 母親は、浜では見たことのない上等な肩掛けをしている。妹の髪には、新しい青いリボンが結んであった。

 ゆうべ浜の縄屋の灯りが消えていたと、ギンが言っていた。

 屋敷で、晩飯でも食わせやがったな。

 主は港の署長に軽く頭を下げてから、使用人の引いた椅子に腰を下ろした。


「朝早くから、お手数をおかけします、署長」

「い、いえ。旦那様こそ」


 港の署長は、額の汗を袖で拭ってから、机の上で両手を組んだ。


「それでは。上席調査官の更正について、旦那様から異議が出ております」


 主は、穏やかな顔のまま、壁際の人たちをゆっくり見回した。

 それから、俺の方に向き直る。


「推計は推計です、上席どの」

「そうですね」

「船の腹の沈み方で、港の五年分を量られては、こちらもたまりません」

「でしょうね」

「ですが上席どのは、数えた者がいるとおっしゃる。ですから、その者に来てもらいました」


 主は、若い役人の方へ手を差し出した。


「去年の船の数を上席どのに話したのは、君だったね」

「はい」

「その数がどうやって出た数だったのか。皆さんに、話してあげなさい」


 若い役人が、一歩前に出た。

 袖口を両手で握りしめている。インクで黒くなった、あの袖口だ。

 若い役人は、まず主の顔を見た。主は、晩飯の席で客を見るのと同じ顔で、小さくうなずき返している。

 それから若い役人は、俺の方を見た。

 俺は、何も言わなかった。言うことなんか、何も無い。


「去年、この港に入った船は」


 若い役人は、そこで一度だけ息を吸った。


「六百十二艘です。僕が数えました」


 一階が、しんと静まった。

 壁際の人足の一人が、止めていた息を吐く音まで聞こえる。

 俺は、主の顔を見た。

 笑顔が崩れたわけではない。怒ったわけでもない。

 さっきまで顔に乗っていたものが、全部どこかへ行ってしまっていた。この男が何も無い顔をしているのを、俺は初めて見た。


「夏の初めに、岩場の見張り小屋へ回されました」


 若い役人は、主から目をそらさずに続けた。


「灯りを消して、お屋敷の下の洞へ入っていく船を、毎晩、小屋の窓から数えました」


 主は、椅子に座ったまま黙って聞いている。


「税関を外されてからは、浜の家の屋根から数えました」

「何艘だね」


 主が聞いた。

 声だけは、さっきと同じように静かだった。


「おとといの晩までで、二百四艘です。一艘も、税関には寄っていません」


 主はしばらく、若い役人の袖口を見ていた。

 それから、椅子の背にゆっくりともたれる。


「一人で、夜の岩場を数えた数だね」

「はい」

「灯りの無い海だ。見間違いということも、あるだろう」


 若い役人は、答えなかった。

 答える前に、壁際で誰かが咳払いをしたからだ。

 浜の連中の真ん中から、屋台の亭主が一歩前に出ていた。


「見間違いじゃありませんよ、旦那」


 亭主は、主の前まで来ると、日に焼けた首をぐいと伸ばした。


「灯りを消した船は、あの岩の間を抜けなきゃ洞に入れねえ」


 主は、椅子に座ったまま、黙って亭主を見上げていた。


「あそこを灯り無しで抜けられるのは、浜で生まれた者だけだ。旦那も、よくご存じでしょう」


 亭主は、後ろに並んだ浜の男たちを顎で示した。


「こいつら八人は、旦那に船を取られた連中です」


 主は、浜の男たちの方を見もせずに聞き返した。


「それが、何か」

「借金の残りの代わりに、夜になると、沖の船を洞まで引かされてるんですよ」


 亭主の声が、少しだけ大きくなった。


「今年の夏だけで、八人で二百回は引いてます」


 浜の男たちは、誰も何も言わなかった。

 ただ、八人とも、主の顔をまっすぐに見ている。

 主が何か言いかけたとき、一番後ろの壁から、年寄りの人足が人を押し分けて出てきた。

 腕を組んだまま、主の前ではなく、港の署長の机の前に立つ。


「洞に入った荷は、俺らが担いだ」


 年寄りの人足は、港の署長に向かってそう言った。


「胡椒と、絹と、南の葡萄酒だ。担いで匂いを嗅げば、そのくらいは分かる」


 港の署長は、丸い腹の前で組んでいた手をほどいて、年寄りの人足を見上げていた。


「税関の札が貼ってある樽なんぞ、四十年担いで、洞の中じゃ一度も見たことがねえ」


 港の署長が、組んでいた両手をほどいた。

 その手で、また額の汗を拭く。

 戸口の柱の方から、酒臭い息を吐く音がした。


「旦那。俺が干し魚の樽に詰めて運んだ葡萄酒な」


 干し魚の船長は、柱にもたれたまま、主の背中に向かって言った。


「あれの半分は、洞に下ろしたんだ。旦那の言いつけでな」


 主は、船長の方を見なかった。


「俺は、自分の七十二枚はもう払ったぜ」


 船長は、柱から背中を離した。


「次は、旦那の番だろうが」


 壁際が、ざわざわと鳴りはじめた。

 人足たちが顔を見合わせ、船長たちが小声で何かを言い合っている。

 宿のおかみさんは、何も言わなかった。

 ただ、羽織った紺の上着の前を、片手でぎゅっと合わせていた。主の目が、その上着の真鍮のボタンで、少しだけ止まる。

 港の署長は、壁際と主の顔を、何度も見比べていた。

 やがて、ごくりと喉を鳴らしてから、机の上に手をつく。


「……洞の倉を、開けさせましょう」


 主が、ゆっくりと港の署長の方を向いた。


「署長」


 主は、それしか言わなかった。

 港の署長は、主の顔を見ないまま、税関の頭を呼んで人足を付けるように言いつけていた。


     *


 洞の口では、港の調査官が四人がかりで、人足の運び出す樽を数えていた。

 子持ちの四十がらみは、樽を一つ数えるたびに、俺の顔をちらちらと見る。


「あの人たち、ちゃんと数えてますね」

「数えるしかねえだろ。開けろと言ったのは、あいつらの署長だ」


 洞の中の樽と箱を数え終えたのは、昼を回った頃だった。

 夏から入った分として、俺が船の腹の沈み方から見積もっていた数と、樽で十も違わない。

 一階に戻ると、壁際の人は一人も減っていなかった。

 主は、朝と同じ椅子に座っていた。使用人が淹れた茶には、口をつけた跡が無い。

 俺は、長い机の前に立った。


「五年分です。隠していた関税に、加算の半分を乗せまして」


 主が、顔を上げた。


「〆て、金貨一万二千枚」


 誰も、声を出さなかった。

 一割で、千二百枚。

 頭の中で勝手に勘定が回りだすのを、俺は止めなかった。止めたって、どうせ回る。

 主は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、膝の上で組んでいた手をほどいて、立ち上がる。


「払いましょう」

「どうも」

「それから、王都の方へ、不服を申し上げることにします」

「どうぞ。王都には、そういう窓口もありますから」


 主は小さくうなずくと、使用人を連れて戸口へ歩いていった。

 途中で、若い役人の前を通る。

 主はそこで足を止めかけたが、何も言わずに、そのまま出ていった。

 縄屋の母親が、肩掛けを外していた。きちんと畳んで、主の座っていた椅子の上に置く。

 妹は、髪のリボンに手をやって、母親の顔を見上げている。母親は、リボンの方はほどかなかった。

 若い役人は、まだ同じところに立っていた。

 ずっと握りしめていた袖口から、ようやく手が離れる。

 開いた手のひらに、袖口のインクが黒く移っていた。

 母親がその手を取って、麻で裂けた親指で、黒いところをこすった。

 インクは、なかなか落ちない。


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