第33話 口を開く人
あたしが「行くな」と言われた次の朝も、ヘイジさんは桟橋の付け根の石の杭に座っていた。
湾に入ってくる船を、一艘ずつ目で追っている。旦那様の五年分はもう更正してしまったのに、船を数えるのだけはやめない。
その杭の周りにだけ、人がいなかった。
荷を担いだ人足たちは、わざわざ桟橋の反対の端を回っていく。ヘイジさんと目が合いそうになって、樽の陰に顔を隠す人までいた。
「浜へ行ってきます」
「何しに」
「貝を食べにです」
「……腹壊すなよ」
ヘイジさんは、湾から目を離さないまま言った。
*
浜へ下りる道の途中で、あたしは足を止めた。
坂の下に、若い役人さんの家の、浜の縄屋が見える。
杭と杭の間に綱が一本張ってあって、その向こうの端で、お母さんが綱を綯っていた。腰に巻いた麻の束から麻を撚り足しては、後ろ向きに一歩ずつ下がっていく。
こっちの端で木の車の取っ手を回しているのは、妹さんだ。
若い役人さんの姿は、どこにも無かった。
あの人が異議の場で何を言うつもりなのか、あたしは知らない。知りたかったけれど、聞きに行けば、行くなと言われた所へ行くことになる。
旦那様は、数えた者がいるなら皆の前で言わせなさい、と言った。
だったら、あの人は一人で皆の前に立たされる。
港の全部を、あの人ひとりの口に背負わせるのは嫌だった。
会いに行けないのなら、ほかの人を探せばいい。
あたしは、縄屋の前を通らない崖沿いの回り道を選んで、浜へ下りた。
浜の煮込みの屋台は、朝の荷揚げを終えた人足たちで混んでいた。
奥さんはあたしに気づくと、鍋の横の網で焼いていた貝を一つ、何も言わずに皿にのせてくれた。
屋台の裏では、ご主人が、砂の上に引き上げた船の腹に黒い脂を塗っている。月末に取られずに済んだ、一艘だけの船だ。
人足たちが仕事に戻っていくのを待ってから、あたしは奥さんに言った。
「旦那様の異議の場の日取り、もう聞いてますか」
「聞いてるよ。港じゅう、その話で持ちきりさ」
「港の署の一階で、誰でも見に来ていいそうです」
奥さんは、網の上の貝を返す手を止めなかった。
「見に行って、どうするんだい」
「どうもしなくていいです。日を言いに来ただけですから」
「証人に立つのは、税関の、あの若いのだろ」
「はい。でも、あたしはあの人に会ってません。何を言うつもりなのかも、知りません」
そのとき、船の陰から、ご主人の太い声がした。
「俺は出るぞ」
奥さんが振り返った。
ご主人は、脂のついた刷毛を持ったまま、船の向こうから顔を出している。
「あんた、何を言い出すのさ」
「旦那に取られた浜の船が、今、何艘あると思ってる」
「十一艘だろ。知ってるよ」
「その船の持ち主だった連中が、夜に何をやらされてるかも、お前は知ってるだろうが」
奥さんは黙って、貝をもう一つ返した。
ご主人は刷毛を桶に放り込むと、砂を踏んで、屋台の前まで回ってきた。
「お嬢さん。その十一人は、俺が集めてやる」
「いいんですか」
「来るかどうかは、あいつらが決めることだがな。声だけは、俺がかける」
「夜に、何をやらされてるんですか」
「それは、異議の場で皆の前で言うさ。ここで言ったって、波に聞かせるだけだ」
奥さんが、鍋の向こうからご主人をにらんだ。
「また旦那に睨まれるよ、あんた」
「船はもう、うちのもんだ。睨まれたって、取られる物が無え」
ご主人がそう言って笑うと、奥さんは長いため息をついた。
それから、あたしの皿に、焼けた貝をもう一つのせた。
「冷めないうちに食べな。あんた、朝から何も食べてない顔してるよ」
*
年寄りの人足は、魚市場の裏で、空き樽に腰かけて昼の休みをとっていた。
夜の荷揚げも担ぐ人だから、昼はたいてい、ここで居眠りをしている。
あたしが前に立つと、人足は片目だけを開けた。
「署の娘か。この前の明け方、屋台で歩合取りと一緒にいたな」
「旦那様の異議の場が、港の署の一階で開かれます」
「知ってる」
「誰でも、見に来ていいそうです」
「見に来いってのか。それとも、しゃべりに来いってのか」
「日を言いに来ただけです」
人足は、開けていた片目も閉じてしまった。
「俺はな、四十年、旦那の荷を担いで食ってきたんだ」
「はい」
「孫が三人いる。旦那の荷が来なくなったら、あいつらに何を食わせりゃいい」
あたしは、何も言えなかった。
人足の言っていることは、たぶん、港の人足の半分が思っていることだ。
「あの若いのは、何て言うつもりなんだ」
「知りません」
「知らねえのに、俺に来いってのか」
「来いとは言ってません」
人足はしばらく黙っていたが、やがて樽の上で体の向きを変えて、あたしに背中を向けた。
「考えとく。考えるだけだぞ」
*
干し魚の船長は、浜の外れの岩に座って、酒の瓶を傾けていた。
岩の下の波打ち際には、船長の船がつないである。
けれど、もう船長の船ではない。七十二枚の追徴が決まった次の月に、旦那様が貸していた金を一度に返せと言ってきて、払えなかったのだそうだ。
今は、旦那様の雇い人が、その甲板を洗っている。
「何の用だ。俺からは、もう七十二枚取っただろうが」
「取ったのは、ヘイジさんです。あたしは、日を言いに来ました」
「日?」
「旦那様の異議の場の日取りです。港の署の一階で、誰でも入れます」
「知るか」
船長は、瓶の口を袖で拭った。
「歩合取りには七十二枚取られて、旦那には船を取られたんだぞ。俺がどっちの肩を持つと思う」
「どっちの肩も、持たなくていいです」
「だったら、何しに来た」
「船長さんは、あの樽を運んだ人ですから」
船長は、あたしの顔をじろりと見た。
港に着いた日に、桟橋の上からにらまれたのと同じ目だ。
「勝手にしろ」
船長は、また瓶を傾けた。
飲み終えてから、瓶を岩の上に置いて、波の方を向いたまま言う。
「……朝の、いつだ」
「一番の鐘が鳴ったらです」
「早えな。酒が抜けねえじゃねえか」
*
宿に戻ると、おかみさんが台所の前の長椅子に、古い上着を広げていた。
紺の厚い上着で、前に真鍮のボタンが並んでいる。税関の小屋の役人たちが、今も着ているのと同じ形だ。
おかみさんは硬い刷毛で、その肩の埃を払っていた。払っては窓の明かりに透かして、また払う。
「おかみさん、それ」
「亭主のだよ。虫に食われてないか、見てるだけさ」
おかみさんはそれだけ言うと、上着を持ち上げて、自分の胸に当ててみた。
袖が、手の先まですっかり余っている。
「大きいね、やっぱり」
ヘイジさんが帰ってきたのは、そのすぐ後だった。
茶色のコートに、潮の匂いがしみている。
ヘイジさんはおかみさんの手の上着を一度だけ見たけれど、何も聞かずに階段を上がりかけた。それから途中で、足を止める。
「ギン」
「はい」
「縄屋の息子、見かけたか」
「行くなって言ったの、ヘイジさんですよ」
「見かけたかって、聞いてんだよ」
「見かけてません。縄屋の前も、通ってません」
「そうか」
「坂の上から見えたのは、お母さんと妹さんだけです」
ヘイジさんは、それきり何も言わずに、階段を上がっていった。
浜を一日じゅう回っていたことは、一度も聞かれなかった。
*
それから異議の場の前の日まで、年寄りの人足は、魚市場の裏の樽に座らなくなった。
干し魚の船長は、岩の上で毎日酒を飲んでいる。
異議の場の前の晩、屋台のご主人から、人足づてに言づけが来た。今夜のうちに浜へ来てくれ、という。
浜に下りると、ご主人は屋台の灯りの下で、網の破れを繕っていた。
「八人だ」
ご主人は、網から目を上げずに言った。
「十一人のうち、八人が出ると言った。三人は来ねえ。女房と子供がいるからな」
「はい」
「責めねえでやってくれよ。俺だって、船を取られたままだったら、来たかどうか分からねえ」
奥さんが、鍋の向こうで黙ってうなずいていた。
屋台を出て、宿へ戻る道で、あたしは初めて縄屋の前を通った。
崖沿いの回り道は、夜になると足もとが見えない。
灯りが、ついていなかった。
杭と杭の間には、綯いかけの綱が一本、朝と同じ長さのまま張ってある。小屋の戸は閉まっていて、中からは物音一つしない。
あたしは、戸を叩こうとして上げた手を、そのまま下ろした。
張ったままの綱が、海からの風に、かすかに揺れていた。




