第32話 推計の更正
秋が深くなるにつれて、湾に入ってくる船の数が、目に見えて減ってきた。
冬の嵐が来る前に、遠くから来る船は南へ帰ってしまうのだそうだ。桟橋の付け根の杭に朝から座っていても、昼までに数える船は、夏の半分にも届かない。
それでも、もう足りていた。
春から、ギンと二人で、昼も夜も船を数えてきた。白い線が水の下に沈んでいるかどうかも、一艘ずつ見てきた。
最後の勘定を済ませたのは、ゆうべ、宿の部屋でのことだ。
屋敷の主が、この五年で納めずに済ませてきた関税。それに、隠していた分の加算として半分を乗せる。
その一割が、俺の歩合になる。
千二百枚。
口の中で一度だけ言ってみたら、それきり明け方まで寝つけなかった。
朝のうちに更正の通知を書き上げて、二階の港の署長の部屋へ持っていった。
港の署長は、通知の額の行に目を落としても、眉一つ動かさなかった。
「はいはい。判でございますね」
机の引き出しから判を出すと、ぽんと押して、こっちへ返してくる。
読んだのは、額の一行だけだった。
「中身は、読まなくていいんですか」
「上席どののお勘定でしょう。間違いはございますまい」
港の署長は、にこにこしたまま、もう別の紙に目を移している。
絹屋のときには、判一つ押すのに、あれだけ渋った男だ。
押しやがったな。
坂の上から、押せと言われてるわけだ。
*
署の隣の屋敷へ行くと、門の前には、もう使用人が待っていた。俺が来るのを知っていた顔で、胸に手を当てて頭を下げる。
通されたのは、屋敷の中ではなく、庭だった。
船祭りの晩に長い机が並んでいた庭は、今は落ち葉が隅に掃き寄せてあるだけで、がらんとしている。炭火のあった所には、焦げた石が二つ残っていた。
屋敷の主は、庭の奥の椅子に座って、湾を眺めていた。
「上席どの。そろそろいらっしゃる頃だと思っておりました」
「関税の更正に参りました。五年分です」
俺は、通知を主の前の小さな机に置いた。
主は、それを手に取らなかった。目だけを落として、額の行を読む。
「一万二千枚」
「隠していた分の加算を入れて、です」
「大きく出ましたね」
「取る理由を、お話しします」
主が、面白そうに眉を上げた。
「理由を、わざわざですか」
「取る理由は、取られる人に言うことにしてるんです」
「ほう」
「前の街の署で、そういう決まりにしてもらいましてね。言わずに取ると、元の署長に叱られるんですよ」
主は、椅子の背にゆったりともたれた。
「伺いましょう」
「この五年、王都に届いた船の数は、年に二百艘あまりです」
「ええ」
「ところが、この春から数えてみたら、入ってくる船はその三倍ありました」
「杭の上で、ずいぶん冷えたでしょうに」
「おかげさまで。届いていない船の荷は、船の腹の沈み方で見ています」
「白い線、ですね」
「干し魚を積んだだけの船は、あんなに深く沈みません」
主は、湾の方へ目をやった。
湾の口から、ちょうど船が一艘入ってくるところだった。白い線は、水の下だ。
「それから、去年の分は、俺のほかにも数えた人がいます」
「なるほど。よく分かりました」
主は、通知を指先で、そっと俺の方へ押し戻した。
「異議を申し立てます」
ためらいも何も無い声だった。
「上席どのが杭の上から眺めた、白い線のお話でしょう」
「そうなりますね」
「数えた者がいるなら、皆の前で言わせなさい」
主はそう言って、隣に控えている使用人の方を見た。
「異議の場は、港の署の一階で開いていただきましょう。戸を開けて、誰でも入れるようにして」
「誰でも、ですか」
「港の皆に、聞いてもらいたいのですよ。どちらの数が本当なのか」
主は、それから俺の顔を見た。
「証人は、こちらで立てます」
「どなたを」
「浜の縄屋の、息子さんです。上席どのに去年の船の数を話したのは、あの方でしょう」
俺の後ろで、ギンが小さく息を吸った。
あいつ。呼ばれたあの晩、ここで何を言われた。
「あの方が皆の前で何をお話しになるか、私も楽しみにしております」
主は穏やかにそう言って、湾の方へ顔を戻した。
俺は通知を拾い上げて、頭を下げた。
「日取りは、署長と決めます」
「ええ、どうぞ。署長には、私からもよろしく言っておきましょう」
門の方へ歩きかけたところで、主の声が背中に追いついてきた。
「そうそう、上席どの。祭りの晩の箱は、まだ蓋を閉めて、奥に置いてありますよ」
振り返ると、主は湾の方を向いたまま、膝の上で指を組んでいた。
「そのうち、関税の方で頂きに上がりますよ」
主は、声を立てずに笑った。
門を出るまで、ギンは一言も口をきかなかった。
*
署に戻って、日取りの相談に二階へ上がると、港の署長は待っていたように顔を上げた。
「異議の場でしたら、九日後の朝でいかがでしょう」
「ずいぶん早いですね」
「旦那様も、早い方がよいとおっしゃって……いえ、わたしも、早い方がよいかと」
港の署長は、額の汗をハンカチで押さえた。
異議の場は、九日後の朝と決まった。
その日の夕方には、港じゅうが知っていた。
旦那が、上席の更正に異議を出す。証人に、浜の縄屋の息子を立てる。
縄屋の息子が、旦那の側に付いたらしい。
噂の最後の一つが、一番早く回った。
次の朝から、港の顔つきが、また元に戻っていった。
坂ですれ違う船長たちは、もう帽子のつばに手をやらない。魚市場の前を通ると、干物のおかみさんが、俺の顔を見るなり店先の干物に布をかぶせた。
見事なもんだ。船祭りの晩から少しずつ開いてきた口が、一晩で元どおりに閉じちまった。
年寄りの人足は、宿の前の道を通らなくなった。
荷を担いで、わざわざ魚市場の裏を回っていく。宿の二階の窓からだと、その背中がよく見えた。
署の廊下では、子持ちの四十がらみの調査官とすれ違った。
調査官は、俺の横を通り過ぎてから、足を止めた。
「縄屋の息子には、妹がいるんだぞ」
振り返ると、調査官はもう、こっちに背中を向けていた。
「それが、何です」
「何でもねえよ。俺にも、娘が一人いるってだけの話だ」
それだけ言って、調査官は階段を上がっていった。
俺はその足で坂を下りて、いつもの杭に腰を下ろした。
桟橋の付け根の杭からだと、浜の縄屋の杭が、遠くに小さく見える。
母親が、綱の端で後ろ向きに歩いていた。妹が、車の取っ手を回している。息子の姿は、どこにも無い。
俺は、浜の方へは行かなかった。
その晩、宿の晩飯の皿を下げに来たおかみさんが、俺の横で足を止めた。
「縄屋の息子さんが旦那様の側に付いたって、本当なんですか」
「さあ。知りませんよ」
「上席さんの話でしょうに」
おかみさんは、空いた皿を重ねたまま、しばらく俺の顔を見ていた。
俺が何も言わないでいると、小さく息をついて、皿を持ち直す。
「……そうですか。お代わりは」
「もらいます」
おかみさんは呆れたような顔をして、台所へ引っ込んでいった。
*
部屋に戻ってしばらくすると、戸を叩く音がした。
戸を開けると、ギンが上着を着込んで立っていた。もう、出かける支度ができている。
「あたし、あの人に会いに行ってきます」
「行くな」
ギンは、戸口に立ったまま俺の顔を見た。
「どうしてですか」
「あいつが決めることだ」
ギンは、しばらく黙っていた。
何か言い返してくるかと思ったが、口を開いたときの声は、思っていたより静かだった。
「……分かりました。あの人には、会いに行きません」
あの人には、か。
引っかかる言い方だったが、俺は聞き返さなかった。
ギンは上着を着たまま、自分の部屋へ戻っていく。隣の部屋の戸が、いつもよりそっと閉まった。
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