↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/115

第31話 白い屋敷の客

 坂を上るあいだ、前を歩く使用人は、一度だけ僕の方を振り返った。


「旦那様は、お怒りではございませんよ」


 僕が何も聞いていないのに、使用人はそう言って、また前を向いた。

 白い屋敷の門をくぐったのは、生まれて初めてだった。

 この港で生まれて、この港で育ったのに、坂の上のこの門の内側を、僕は一度も見たことが無い。

 父が生きていた頃も、父は門の前を通るたびに、帽子を取って頭を下げるだけだった。

 使用人は、廊下に敷かれた厚い敷物の上を、音も立てずに進んでいく。僕の靴の方は、一歩ごとに砂をこぼしていた。

 通されたのは、二階の奥の部屋だった。

 壁という壁が、棚になっている。棚には、巻いた海図と、船の模型と、背の揃った帳簿が並んでいた。

 正面の大きな窓からは、入り江が全部見える。桟橋も、税関の小屋も、魚市場の屋根も。

 浜の縄屋の杭まで、ここからだと、ちゃんと見えた。

 旦那様は、その窓の前の机に座っていた。


「よく来てくださいました。どうぞ、お掛けなさい」


 港の誰に話すときも、旦那様はこの声で話す。

 怒鳴ったところを見た者は、この港に一人もいない。僕も、見たことが無い。

 勧められた椅子の、端の方に腰を下ろした。

 使用人が、湯気の立つ茶を僕の前に置いて、部屋を出ていく。戸の閉まる音は、ほとんどしなかった。


「お母様の綱のことは、聞きました」


 旦那様は、窓の外の浜の方へ目をやった。


「気の毒なことになりましたね」


 僕は、何も言わなかった。

 旦那様も、僕が何か言うのを待ってはいなかった。


「明日の朝から、お母様の綱には、また注文が入ります」


 僕は、顔を上げた。


「うちの船の分も、浜の船の分も、前と同じだけ」


 旦那様は、机の上で指を組んだ。


「税関の席も、戻しましょう。見張り小屋ではなく、元の桟橋に」


 元の桟橋に。

 入ってくる船を、端から一艘ずつ数える、あの場所に。

 膝の上で、僕は自分の手を握っていた。


「その代わりに、一つだけお願いがあります」

「……何でしょう」

「秋になれば、上席どのは、私の関税を更正なさるでしょう」


 旦那様は、窓の外の、桟橋の付け根の方を見た。

 この春から、茶色のコートの人が毎日座っている杭のあたりだ。


「入ってきた船の数と、船の腹の沈み方から、推計で」

「私は、異議を申し立てます。港の署の一階で、皆の前で」

「異議、ですか」

「ええ。そのときに、あなたに証人に立っていただきたいのです」


 旦那様は、そこで一度、言葉を切った。


「あなたは去年の船の数を、上席どのに話しましたね」

「六百十二艘」


 旦那様の口から、その数が出た。

 桟橋の日陰で、誰にも聞こえないように言ったはずの数だった。


「あれは、新しく来た上席どのに気に入られたくて、多めに言った数だった」


 旦那様は、僕に覚えさせるように、一言ずつゆっくりと言った。


「皆の前で、そう言っていただければ。それで結構です」


 部屋の中が、静かになった。

 窓の外で、白い鳥が一羽、鳴きながら湾の上を横切っていく。


「でも、あれは」


 言いかけた僕に、旦那様はあっさりうなずいた。


「ええ。本当の数でしょう」


 僕は、息をのんだ。


「私も、この窓から毎晩数えていますからね。あなたの数と、ほとんど合っています」


 旦那様は、そう言って笑った。


「上席どのは、二千枚を断りました。立派な方です」

「ですが、辞令というのは、毎年春に出るものでしてね」


 旦那様は、組んでいた指をほどいた。


「来年の春には、あの方は、また別の土地へ行かれます」

「それは」

「あなたとお母様と妹さんは、この港に残る。そうでしょう」


 僕は、答えられなかった。

 答えなくても、旦那様の言う通りだった。

 旦那様は椅子を立って、窓のそばまで歩いていった。


「あの桟橋を、今の長さまで延ばしたのは私です」

「……知っています」

「魚市場の屋根を葺(ふ)き替えたのも、浜の船乗りの宿を建てたのも」


 旦那様は、窓の外を指でなぞるようにした。


「私が王都に送らなかった関税は、みんな、ああいう物になりました」

「でも、それは」

「王都に送っていたら、王都の誰かの屋敷が、一つ大きくなっただけでしょう」


 旦那様は、僕の方を振り返った。


「あなたのお父上が歩いた桟橋も、その一つですよ」


 僕は、膝の上の手を見た。

 袖口のインクは、もう何日も新しくなっていない。

 旦那様は、また窓の外へ目を戻して、それきり黙ってしまった。

 僕は、窓の向こうの桟橋の付け根を見ていた。

 父の乗った船が、南へ出たきり帰ってこなかったのは、僕が十のときだ。

 妹は、まだ母の乳を飲んでいた。

 それからしばらくのあいだ、僕は毎日、桟橋の付け根に座って、湾に入ってくる船を数えた。

 何艘数えても、一艘足りなかった。

 数えるのが好きになったのは、たぶん、あの頃からだ。

 税関に雇われたとき、母は、これでお前も父さんの代わりに船を数えられるね、と言って笑った。

 母の手は、指の腹が麻で裂けて、割れ目にまで油が黒く染み込んでいる。夕方、浜で使用人の声を聞いたとき、その手が止まったのを、僕は見た。

 妹は、来年から、坂の中ほどの家へ読み書きを習いに通うはずだった。そのお金は、母の綱の注文から出るはずだった。


「急ぎませんよ」


 旦那様の声で、僕は顔を上げた。


「お返事は、秋までで結構です。ゆっくり考えてください」

「……はい」

「お茶が、冷めてしまいましたね」


 旦那様に言われて、僕は初めて、自分が一度も茶に手をつけていなかったことに気がついた。

 湯気は、もう立っていなかった。


     *


 屋敷を出ると、日はとっくに沈んでいた。

 坂を下りきった魚市場の角に、茶色のコートの人が立っている。

 上席どのだ。その隣には、記録役の人もいた。浜からずっと、ここで待っていたらしい。

 上席どのは、僕の顔を見ても、何も聞かなかった。


「おふくろさんが、浜で待ってますよ」


 それだけ言うと、上席どのは、宿の方へ歩いていってしまう。

 記録役の人だけが、僕に小さく頭を下げてから、その後を追いかけていった。

 何を言われたのかと聞かれたら、僕は何と答えるつもりだったんだろう。

 浜まで来ると、縄屋の杭のあいだに、ランプが一つ吊るしてあった。

 母は、その灯りの下で、まだ麻を撚(よ)っていた。

 妹は、巻いた綱の輪にもたれてうとうとしていたが、僕の足音で目を開けた。


「兄ちゃん。お屋敷、どうだった」

「広かったよ」

「それだけ?」

「窓が、大きかった」


 妹はふうんと言って、また目をつぶった。口の端に、麦粥の跡がついたままだ。

 母は、妹の声で、ちょっとだけ顔を上げた。


「お粥、鍋に残ってるよ」

「うん」


 それだけだった。

 旦那様に何を言われたのか、母は聞かなかった。僕も、言わなかった。

 鍋の前に座って、冷めた粥をすくう。

 顔を上げると、ランプの灯りの下で、母の指が黒く光っていた。麻を撚る指だけが、休まずに動いている。注文の無い綱が、杭と杭の間で、少しずつ長くなっていく。

 明日の朝になれば、この指はまた、港じゅうの船の綱を綯(な)える。

 僕が皆の前で、一言、言いさえすれば。

 スプーンを持った手が、鍋の上で止まっていた。


     *


 次の朝、僕は、行くところの無いまま家を出た。

 気がつくと、桟橋の付け根に立っていた。

 税関の小屋の中で、ほかの役人たちが、僕の顔を見てすぐに目をそらした。いつもの杭の上に、茶色のコートの人の姿は無い。

 湾の口から、船が一艘、入ってくる。

 船の腹の白い線が、水の下に沈んでいた。目一杯、積んでいる船だ。

 一艘。

 口の中で、勝手に数えていた。

 数えたところで、もう、どこにも届ける先は無い。

 それなのに、湾の口に二艘目の帆が見えると、僕の唇は、また勝手に動いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。