第31話 白い屋敷の客
坂を上るあいだ、前を歩く使用人は、一度だけ僕の方を振り返った。
「旦那様は、お怒りではございませんよ」
僕が何も聞いていないのに、使用人はそう言って、また前を向いた。
白い屋敷の門をくぐったのは、生まれて初めてだった。
この港で生まれて、この港で育ったのに、坂の上のこの門の内側を、僕は一度も見たことが無い。
父が生きていた頃も、父は門の前を通るたびに、帽子を取って頭を下げるだけだった。
使用人は、廊下に敷かれた厚い敷物の上を、音も立てずに進んでいく。僕の靴の方は、一歩ごとに砂をこぼしていた。
通されたのは、二階の奥の部屋だった。
壁という壁が、棚になっている。棚には、巻いた海図と、船の模型と、背の揃った帳簿が並んでいた。
正面の大きな窓からは、入り江が全部見える。桟橋も、税関の小屋も、魚市場の屋根も。
浜の縄屋の杭まで、ここからだと、ちゃんと見えた。
旦那様は、その窓の前の机に座っていた。
「よく来てくださいました。どうぞ、お掛けなさい」
港の誰に話すときも、旦那様はこの声で話す。
怒鳴ったところを見た者は、この港に一人もいない。僕も、見たことが無い。
勧められた椅子の、端の方に腰を下ろした。
使用人が、湯気の立つ茶を僕の前に置いて、部屋を出ていく。戸の閉まる音は、ほとんどしなかった。
「お母様の綱のことは、聞きました」
旦那様は、窓の外の浜の方へ目をやった。
「気の毒なことになりましたね」
僕は、何も言わなかった。
旦那様も、僕が何か言うのを待ってはいなかった。
「明日の朝から、お母様の綱には、また注文が入ります」
僕は、顔を上げた。
「うちの船の分も、浜の船の分も、前と同じだけ」
旦那様は、机の上で指を組んだ。
「税関の席も、戻しましょう。見張り小屋ではなく、元の桟橋に」
元の桟橋に。
入ってくる船を、端から一艘ずつ数える、あの場所に。
膝の上で、僕は自分の手を握っていた。
「その代わりに、一つだけお願いがあります」
「……何でしょう」
「秋になれば、上席どのは、私の関税を更正なさるでしょう」
旦那様は、窓の外の、桟橋の付け根の方を見た。
この春から、茶色のコートの人が毎日座っている杭のあたりだ。
「入ってきた船の数と、船の腹の沈み方から、推計で」
「私は、異議を申し立てます。港の署の一階で、皆の前で」
「異議、ですか」
「ええ。そのときに、あなたに証人に立っていただきたいのです」
旦那様は、そこで一度、言葉を切った。
「あなたは去年の船の数を、上席どのに話しましたね」
「六百十二艘」
旦那様の口から、その数が出た。
桟橋の日陰で、誰にも聞こえないように言ったはずの数だった。
「あれは、新しく来た上席どのに気に入られたくて、多めに言った数だった」
旦那様は、僕に覚えさせるように、一言ずつゆっくりと言った。
「皆の前で、そう言っていただければ。それで結構です」
部屋の中が、静かになった。
窓の外で、白い鳥が一羽、鳴きながら湾の上を横切っていく。
「でも、あれは」
言いかけた僕に、旦那様はあっさりうなずいた。
「ええ。本当の数でしょう」
僕は、息をのんだ。
「私も、この窓から毎晩数えていますからね。あなたの数と、ほとんど合っています」
旦那様は、そう言って笑った。
「上席どのは、二千枚を断りました。立派な方です」
「ですが、辞令というのは、毎年春に出るものでしてね」
旦那様は、組んでいた指をほどいた。
「来年の春には、あの方は、また別の土地へ行かれます」
「それは」
「あなたとお母様と妹さんは、この港に残る。そうでしょう」
僕は、答えられなかった。
答えなくても、旦那様の言う通りだった。
旦那様は椅子を立って、窓のそばまで歩いていった。
「あの桟橋を、今の長さまで延ばしたのは私です」
「……知っています」
「魚市場の屋根を葺き替えたのも、浜の船乗りの宿を建てたのも」
旦那様は、窓の外を指でなぞるようにした。
「私が王都に送らなかった関税は、みんな、ああいう物になりました」
「でも、それは」
「王都に送っていたら、王都の誰かの屋敷が、一つ大きくなっただけでしょう」
旦那様は、僕の方を振り返った。
「あなたのお父上が歩いた桟橋も、その一つですよ」
僕は、膝の上の手を見た。
袖口のインクは、もう何日も新しくなっていない。
旦那様は、また窓の外へ目を戻して、それきり黙ってしまった。
僕は、窓の向こうの桟橋の付け根を見ていた。
父の乗った船が、南へ出たきり帰ってこなかったのは、僕が十のときだ。
妹は、まだ母の乳を飲んでいた。
それからしばらくのあいだ、僕は毎日、桟橋の付け根に座って、湾に入ってくる船を数えた。
何艘数えても、一艘足りなかった。
数えるのが好きになったのは、たぶん、あの頃からだ。
税関に雇われたとき、母は、これでお前も父さんの代わりに船を数えられるね、と言って笑った。
母の手は、指の腹が麻で裂けて、割れ目にまで油が黒く染み込んでいる。夕方、浜で使用人の声を聞いたとき、その手が止まったのを、僕は見た。
妹は、来年から、坂の中ほどの家へ読み書きを習いに通うはずだった。そのお金は、母の綱の注文から出るはずだった。
「急ぎませんよ」
旦那様の声で、僕は顔を上げた。
「お返事は、秋までで結構です。ゆっくり考えてください」
「……はい」
「お茶が、冷めてしまいましたね」
旦那様に言われて、僕は初めて、自分が一度も茶に手をつけていなかったことに気がついた。
湯気は、もう立っていなかった。
*
屋敷を出ると、日はとっくに沈んでいた。
坂を下りきった魚市場の角に、茶色のコートの人が立っている。
上席どのだ。その隣には、記録役の人もいた。浜からずっと、ここで待っていたらしい。
上席どのは、僕の顔を見ても、何も聞かなかった。
「おふくろさんが、浜で待ってますよ」
それだけ言うと、上席どのは、宿の方へ歩いていってしまう。
記録役の人だけが、僕に小さく頭を下げてから、その後を追いかけていった。
何を言われたのかと聞かれたら、僕は何と答えるつもりだったんだろう。
浜まで来ると、縄屋の杭のあいだに、ランプが一つ吊るしてあった。
母は、その灯りの下で、まだ麻を撚っていた。
妹は、巻いた綱の輪にもたれてうとうとしていたが、僕の足音で目を開けた。
「兄ちゃん。お屋敷、どうだった」
「広かったよ」
「それだけ?」
「窓が、大きかった」
妹はふうんと言って、また目をつぶった。口の端に、麦粥の跡がついたままだ。
母は、妹の声で、ちょっとだけ顔を上げた。
「お粥、鍋に残ってるよ」
「うん」
それだけだった。
旦那様に何を言われたのか、母は聞かなかった。僕も、言わなかった。
鍋の前に座って、冷めた粥をすくう。
顔を上げると、ランプの灯りの下で、母の指が黒く光っていた。麻を撚る指だけが、休まずに動いている。注文の無い綱が、杭と杭の間で、少しずつ長くなっていく。
明日の朝になれば、この指はまた、港じゅうの船の綱を綯える。
僕が皆の前で、一言、言いさえすれば。
スプーンを持った手が、鍋の上で止まっていた。
*
次の朝、僕は、行くところの無いまま家を出た。
気がつくと、桟橋の付け根に立っていた。
税関の小屋の中で、ほかの役人たちが、僕の顔を見てすぐに目をそらした。いつもの杭の上に、茶色のコートの人の姿は無い。
湾の口から、船が一艘、入ってくる。
船の腹の白い線が、水の下に沈んでいた。目一杯、積んでいる船だ。
一艘。
口の中で、勝手に数えていた。
数えたところで、もう、どこにも届ける先は無い。
それなのに、湾の口に二艘目の帆が見えると、僕の唇は、また勝手に動いていた。




