第30話 縄の注文
船祭りからの三日で、港の連中の顔つきが、少しずつおかしくなってきた。
坂ですれ違った知らない船長が、帽子のつばに手をやって会釈をしていく。
魚市場の前を通れば、干物を並べたおかみさんが、向こうから声をかけてくる。
「上席さん、今朝のは脂がのってるよ。一枚どうだい」
「宿で飯が出るんでね。また今度」
ついこの前までは、俺が近づいただけで、店先の干物に布をかぶせていた女だ。
強欲の看板を下ろした覚えは、無えんだがな。
宿の前の道では、子供が俺を指さして、母親に頭をはたかれていた。二千枚、と言いかけたのが聞こえたから、たぶん褒めてくれようとしたんだろう。
三日目の朝も、俺は桟橋の付け根の杭に座って、湾に入ってくる船を数えていた。
そこへ、年寄りの人足が荷を担いだまま寄ってきた。
人足は荷を下ろしもせずに、俺の横で足を止める。顔は湾の方へ向けたままだ。人の目のある桟橋で、向こうから話しかけてくるのは初めてだった。
「浜の縄屋の話、聞いたか」
「あの若いのの、おふくろさんの店ですか」
「ああ。ゆうべのうちに、綱の注文が全部消えた」
人足は、湾に浮かんでいる船を顎でしゃくった。
「旦那の船も、旦那に金を借りてる船も、もうあそこの綱は買わねえんだとよ」
「全部ってのは、本当に全部ですか」
「この港に、旦那と関わりの無え船がどれだけあると思う」
人足は、それから少しだけ声を落とした。
「若いのも、今朝、税関の頭に呼ばれてな。もう来なくていいと言われたそうだ」
人足は最後まで湾の方に顔を向けたまま、荷を担ぎ直して、桟橋の先へ歩いていった。
隣の杭で、ギンがいつの間にか立ち上がっている。
「三日、ですね」
「ああ」
船祭りから、三日だ。
屋敷の主は、怒鳴りもしなければ、誰かを寄こして脅しもしない。ただ、ゆうべのうちに、浜の注文が一つ残らず消えただけだ。
俺は杭から腰を上げて、税関の小屋へ歩いていった。
小屋の奥の机で、税関の頭が、積荷の届けを一枚ずつめくっている。俺の顔を見ると、めくる手を止めて、愛想よく立ち上がった。
「これは上席どの。何かご用で」
「縄屋の息子を、外したそうですね」
「ええ。見張り小屋には、別の者を回しますんでね」
「夜の見張りに回したのも、つい先だってのことでしょう」
「税関の者を誰にどこを任せるかは、税関で決めることでして」
頭の声は、最後まで穏やかだった。
「港の署の上席どのに、そこまでご心配いただく筋のものじゃございません」
「そうですか」
「ええ。そういうもんです」
頭の言うことは、筋が通っている。俺にだって、税関の役人を一人戻させる手は無い。
頭はにこにこしたまま、ちらりと小屋の窓の外へ目をやった。坂の上の、白い壁の方だ。
小屋を出ると、ギンが戸口で待っていた。
「どうでした」
「浜へ行くぞ」
*
浜は、魚市場のさらに東にある。
砂の上に小さな船が何艘も引き上げてあって、その向こうに、杭が一列に長く打ってあった。
杭と杭の間に、綯いかけの綱が一本、ぴんと張ってある。
綱の向こうの端では、若い役人の母親が、腰に麻の束を巻きつけて、後ろ向きに少しずつ歩いていた。
束から引き出した麻を指先で撚って、綱に足していく。撚っては一歩下がり、また撚っては一歩下がる。
綱のこっちの端では、十くらいの女の子が、木の車の取っ手をぐるぐる回していた。
あれが妹か。
若い役人は、できあがった綱を、砂の上で大きな輪に巻いているところだった。
小屋の前には、巻き終えた綱の輪が、俺の背丈ほどにも積み上がっている。
若い役人が、先にこっちに気づいた。
輪を巻く手を止めて、頭を下げる。インクで汚れた袖口に、麻の屑がいっぱい付いていた。
「注文のこと、聞きましたよ」
「そうですか」
若い役人は、俺と目を合わせないで、また綱を巻き始めた。
「税関の方も、聞きました」
「はい。今朝、頭に言われました」
「見張り小屋は」
「明日の晩から、別の人が立つそうです」
母親は、俺たちの方を一度ちらりと見ただけだった。
日に焼けた細い腕で麻を撚っては、一歩、後ろへ下がる。
ギンが、そのそばまで行って、遠慮がちに声をかけた。
「あの、注文が無いのに、綯うんですか」
「綯っとかないと、手が忘れちまうからね」
母親は、手もとから目も上げずに言った。
「それに、注文なんてのは、来るときにはまた来るもんさ」
母親はそれから、麻を撚る手を止めないまま、俺の方へ顔だけ向けた。
「あんたが、二千枚を断ったっていう人かい」
「……飯は、ごちそうになりましたけどね」
「そうかい」
母親は麻を一撚りして、また一歩、後ろへ下がった。
俺は、積み上がった綱の輪の前まで行って、コートの内側から革袋を一つ出した。
口は開けずに、一番上の輪の上に置く。
「綱を一巻き、もらっていきます。代金は、それで」
それだけ言って、背中を向ける。
浜の砂に、二歩、三歩と足跡がついた。
「待ってください」
若い役人の声だった。
振り返ると、若い役人が革袋を持って、俺の前に立っていた。口の紐は、結んだままだ。
「これは、受け取れません」
「綱の代金ですよ」
「綱一巻きに、こんな重さの代金はありません」
若い役人は、俺の手を取って、その上に革袋を載せた。
「あなたの金を受けたら、僕は、あなたに買われたことになります」
俺は、何も言い返せなかった。
若い役人は頭を一つ下げると、砂の上の綱のところへ戻って、また輪を巻き始めた。
母親は、こっちを見ていない。後ろ向きに一歩下がって、また麻を撚っている。
妹だけが、車の取っ手を握ったまま、俺の手の中の革袋をじっと見ていた。
俺は、革袋をコートの内側に戻した。
それから、積んである綱の輪の、一番上のやつを両腕で持ち上げてみた。
腰にずしりとくる重さだ。
こんなもんを毎日いくつも綯って、この人は港じゅうの船に渡してきたのか。
輪を元の場所に下ろすと、俺の腕には、麻の屑がいっぱいくっついていた。
ギンは何も言わずに、若い役人の隣にしゃがみ込んでいる。綱の巻き方を一度だけ教わると、あとは黙って手を動かし始めた。
*
俺は、砂に引き上げてある小舟の縁に腰を下ろした。
帰る気には、なれなかった。帰ったところで、倉庫の隅の机で、数えた船の数を眺めるくらいしかやることは無い。
日が傾いていくにつれて、浜の砂が赤く染まっていく。
そのあいだ、母親の手は一度も止まらなかった。妹は、ときどき取っ手を回す手を休めては、兄にちらりと見られて、また回し始める。
坂の方から、人が一人下りてくるのが見えたのは、夕方の鐘が鳴った頃だった。
上等な靴の男だ。屋敷の使用人は、浜の砂に足を取られながら、まっすぐこっちへ歩いてくる。
埃一つ付けずに坂を上り下りしていた靴が、今は砂で白くなっていた。
使用人は、小舟に座った俺の前を、黙って素通りした。
若い役人の前で立ち止まると、胸に手を当てて、深く頭を下げる。
「旦那様が、お呼びでございます」
若い役人の手が、綱の輪の上で止まった。
俺は、小舟の縁から腰を上げた。
「何の用です」
使用人は、俺の方へ、ほんの少しだけ顔を向けた。
「上席さまは、お呼びしておりません」
それきり、使用人はまた若い役人の方に向き直ってしまう。
言ってくれるじゃねえか。
妹の回していた車の音が、いつの間にか止まっていた。
若い役人は、綱の端を握ったまま、母親の方を見た。
母親の手が、止まっていた。
俺たちが浜に来てから一度も止まらなかった手が、撚りかけの麻をつかんだまま、動かない。
若い役人は、しばらくその手を見ていた。
それから、使用人の方に向き直って、うなずいた。
使用人が先に立って、坂の方へ歩き出す。
若い役人は一度も振り返らずに、その後ろについていった。
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