第29話 船祭り
船祭りの晩には、入り江じゅうの船が、帆柱のてっぺんに灯りを吊るす。
坂の上の屋敷の庭からだと、その灯りが全部見えた。真っ黒な湾の水の上で、何百もの灯りが、波に合わせてゆっくり揺れている。
港に来て、きれいだと思ったのは初めてだった。
庭には長い机がいくつも並んでいて、端の方の炭火の上では、烏賊の串がじゅうじゅう焼けている。
焼いているのは、港の人足たちだ。今夜だけ、屋敷に雇われているらしい。
机のまわりには、港の役人と船長たちが、それぞれ一番いい服を着て集まっていた。
「ヘイジさん、着替えなかったんですか」
「着替えたって、中身は同じだろ」
そう言い捨てて、ヘイジさんはまっすぐ炭火の方へ歩いていってしまう。
庭じゅうを見回しても、茶色のコートのままなのは、ヘイジさん一人だった。
串を返していた年寄りの人足が、ヘイジさんの顔を見て、焼けたのを一本差し出した。
「今夜は、あんたが最後だってな」
「何がです」
「とぼけるなよ。坂の下じゃ、ゆうべからその話ばっかりだ」
ヘイジさんは返事をしないで、串にかじりついた。
あたしも、一本もらった。甘辛いたれが端の方で焦げていて、噛むと、烏賊の身が歯の間できゅっと鳴る。
串を半分ほど食べたところで、人の輪の向こうから、旦那様がこっちへ歩いてきた。
白い上着の袖口から、細い手首がのぞいている。その手には、杯が一つあるだけだ。
「烏賊は、お口に合いましたか、上席どの」
「ただ飯は、何でもうまいですよ」
「それは良かった。今夜は、最後までいてくださいね」
旦那様はにこやかにうなずくと、あたしにも軽く会釈をして、また人の輪の方へ戻っていった。
ヘイジさんは、その背中を見もしないで、串の残りを噛んでいた。
庭の柵から下を覗くと、屋敷の真下の岩場は真っ暗だった。
その暗い中に、灯りが一つだけ、ぽつんと灯っている。税関の見張り小屋だ。
祭りの晩でも、あの人は今夜、あそこで一人きりで船を数えているんだろう。
*
鐘が一つ鳴って、庭の話し声がぴたりとやんだ。
屋敷の正面の石段の上に、いつの間にか旦那様が立っている。
「今年も、海が穏やかでありますように」
旦那様の挨拶は、それだけだった。
声は少しも大きくないのに、庭の隅にいるあたしの耳にまで、ちゃんと届く。
石段の下に、使用人が盆を持って立った。いつかの晩、宿に招待状を持ってきた男だ。盆の上には、小さな袋がいくつも載っている。
旦那様が一人ずつ名前を呼ぶと、呼ばれた人が石段の前に出ていく。
旦那様は盆から袋を一つ取って、その人に手渡す。受け取った人が頭を下げるたびに、庭じゅうが手を叩いた。
最初に呼ばれたのは、港の署長だった。
丸いお腹を折り曲げるようにして頭を下げ、両手で袋を押しいただいている。
次は、港の署の調査官たちの番だ。髭の濃い調査官は、受け取った袋をろくに見もしないで、すぐに懐へしまった。
その次に呼ばれたのが、四十がらみの調査官だった。
ゆうべ、宿の食堂までやってきて、ヘイジさんに受け取ってくれと頼んでいった人だ。
その人は、袋を受け取ってから、一度だけこっちを振り返った。
ヘイジさんは、二本目の串にかじりついているところだった。
税関の頭が呼ばれて、それから船長たちが、一人ずつ呼ばれていく。
袋はどれも、手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさだった。船長たちの番が終わっても、記録役のあたしの名前は呼ばれない。べつに、呼ばれたかったわけじゃないけど。
「上席調査官どの」
旦那様の声で、庭じゅうの顔がこっちを向いた。
ヘイジさんは、食べかけの串を持ったまま、石段の前まで歩いていく。あたしも、その後ろについていった。
使用人ともう一人の男が、二人がかりで木の箱を運んでくる。
鉄の帯を巻いた箱で、二人が机に下ろしたとたん、机の脚がみしりと鳴った。
使用人が蓋を開けると、中は金貨でいっぱいだった。湾の灯りを映して、箱の中だけがぼうっと明るい。
旦那様は、ヘイジさんにではなく、庭にいる全員に向かって言った。
「上席どのの去年の歩合は、二百と少し」
それから、杯を持っていない方の手で、箱を示す。
「その十倍。金貨二千枚です」
庭が、しんと静まり返った。
炭火の上で、烏賊の脂がはぜる音しか聞こえない。どこかで誰かが手を叩きかけて、途中でやめた。
あたしは、ヘイジさんの手を見ていた。
金貨を見れば、まず手に取って重さを量る人なのだ。
その右手には、食べかけの烏賊の串がある。左手は、コートの脇に下がったままだ。
どっちの手も、動かなかった。
ヘイジさんは、箱の中を一度だけ見た。
「要りません」
それだけだった。
旦那様の笑顔は、少しも変わらない。
「では、いくらなら」
「要りません」
ヘイジさんは軽く頭を下げると、くるりと背中を向けた。
そのまま、さっきまでいた炭火の前へ戻っていく。串を焼いていた年寄りの人足が、返しかけた串を持ったまま、口を開けてヘイジさんを見ていた。
ヘイジさんは、食べかけの串の残りを、一口でかじり取る。
年寄りの人足は、そのもぐもぐ動く顔を、しばらく眺めていた。
それから黙って、網の上で焼けたばかりの串を一本取ると、ヘイジさんの前に突き出した。ヘイジさんも黙って受け取って、かじりつく。
*
庭の真ん中で、船長たちが顔を見合わせている。
日に焼けた船長の一人が、隣の船長の袖を引っぱった。
「おい。今、何て言った」
「要らねえ、ってよ」
袖を引かれた方の船長が、かすれた声で答える。
袖を引いた船長は、信じられないという顔で、炭火の前の茶色のコートを見た。
「二千枚だぞ。あいつは、内陸で一番強欲だって話じゃなかったのか」
答えた船長は、何も言わなかった。
代わりに、自分の手の中の袋に目を落として、それを上着の内側へそっと押し込んだ。
あちこちで、同じことが起きていた。受け取ったばかりの袋を、みんなが急いで懐や袖の中へしまっていく。誰も、隣の人の手元を見ようとしない。
四十がらみの調査官は、袋を握った手を、背中の後ろに回していた。
港の署長は、笑った顔のまま、石段の下で固まっている。
旦那様だけが、さっきと同じ顔をしていた。
「そうですか。では、今夜はどうぞ、ゆっくり召し上がってください」
穏やかにそう言って、杯を口元へ運ぶ。
口をつける前に、旦那様の指が、杯の縁を爪で一度だけ弾いた。
小さな音だったから、たぶん、聞こえたのはすぐそばにいたあたしだけだと思う。
気がつくと、あたしは自分の手を、痛いくらいに握りしめていた。
*
旦那様が人の輪の方へ戻っていくと、入れ替わりに、港の署長が炭火の前へやってきた。
丸い顔は笑った形のままで、額にだけ、汗の粒がびっしり並んでいる。
「上席どのも、お人が悪い」
港の署長は、ヘイジさんの隣に立つと、炭火の煙に紛れるような小さな声で言った。
「あれは、駆け引きでございましょう」
ヘイジさんは、返事の代わりに串の残りをかじった。
「旦那様には、わたしから、もう少しと申し上げておきますので」
「要りませんって、二回言いましたよ」
「ですから、三回目をおっしゃる前に、ぜひ」
「署長」
ヘイジさんは、年寄りの人足から焼けたのをもう一本もらうと、それを港の署長の前に差し出した。
「焼きたてですよ。旦那のおごりです」
港の署長は、串を見下ろしたまま、すぐには手を出さなかった。
その右手には、さっき石段の前で押しいただいた祝儀の袋が握られている。
袋を左手に持ち替えてから、やっと串を受け取る。
それなのに、かじろうとはしない。片手に袋、片手に串を持ったまま、炭火の前に突っ立っている。
串から湯気が立たなくなっても、まだそうしていた。
石段の方で使用人に呼ばれると、港の署長は、一口もかじっていない串を持ったまま、人の輪の方へ小走りに戻っていった。
*
屋敷を出たのは、それから間もなくのことだ。
ヘイジさんが三本目の串を食べ終えるなり、腹がいっぱいになったと言って、さっさと門を出てしまったからだ。
坂を下りていくと、祭りの灯りの下を、まだ大勢の人が歩いていた。
魚市場の角まで来たところで、酒場の前にたむろしていた人足たちが、茶色のコートに気づいた。
「あれだ。あの人だよ」
「本当に断ったのかね、二千枚」
人足たちの声は、ひそひそ話にしては大きすぎた。
屋敷の庭を出てから、まだ半刻もたっていない。それなのに、坂の下ではもう、みんなが知っている。
酒場の中からも、誰かのだみ声が聞こえてきた。
「一番強欲な調査官がよ、旦那の二千枚を蹴ったんだとよ」
笑い声と、そんな馬鹿な話があるかと言い返す声。それから、杯をぶつけ合う音がした。
酒場の戸口では、魚の籠を抱えたおばあさんが、ヘイジさんの背中をしげしげと眺めている。
ヘイジさんは、そのどれにも振り返らなかった。
宿の灯りが見えてきたところで、あたしはとうとう我慢できなくなった。
「どうして断ったんですか」
「安すぎんだよ」
ヘイジさんは、前を向いたまま言った。
「二千枚ですよ」
「だから、安すぎんだって」
それ以上は、何を聞いても同じ答えしか返ってこない気がした。
あたしは口を閉じて、宿までの残りの道を歩いた。
宿の戸口の灯りの下で、ヘイジさんが立ち止まった。
戸を開けようとして、右手を上げる。その手に、何か細い物が握られたままだった。
烏賊の串だった。
身はとっくに食べ終えて、木の串だけになっている。
ヘイジさんは、自分の手をちょっと眺めて眉を寄せてから、串をコートのポケットに突っ込んだ。




