第28話 祝儀の前の晩
船祭りを明日に控えて、港は朝から落ち着かなかった。
桟橋につないだ船という船に、色とりどりの小旗が張られていく。魚市場の屋根には、夜に灯すランタンがずらりと吊るされていた。
そんな中を、俺とギンは、桟橋の東の外れにある石造りの倉まで歩いた。
港には、関税を払わずに荷を置いておける倉がある。
よその国へ積み出す荷を、次の船が来るまで預かっておくための倉だ。そのかわり、中の荷は船でしか出ていってはいけない。
「ここ、昨日も前を通りましたよね」
「通ったな」
「何か、変でしたか」
「戸が二つある」
倉の海の側には、荷を船へ積み出す大きな戸がある。
それとは別に、坂の方を向いた側にも、荷車が一台通れるくらいの戸が一つ付いていた。
その戸の前の土には、真新しい轍の跡が、何本も重なって残っている。
海へしか出ていかないはずの荷が、陸の側の戸から出ていく理由は、あまり思いつかない。
陸の戸の脇に置いた樽に、年寄りが一人腰かけて、パイプをふかしていた。倉番らしい。
「おはようございます。署の上席です」
「ああ、噂の歩合取りか」
倉番は、パイプをくわえたまま、俺のコートを見上げた。
「祭りの前の日に、ご苦労なこった」
「この倉の荷は、全部、船で出ていくんですよね」
「そういう決まりの倉だからな」
「こっちの戸にも、荷車の跡がずいぶんありますね」
倉番は、パイプの灰を樽の縁でとんとんと落とした。
それから、足もとの轍の跡を、他人事みたいに見下ろした。
「あるな」
「どこへ行く荷車です」
「坂の途中の、油屋だよ。この倉は、あそこの借り物だ」
「中身は」
「南の油だ。樽でな」
倉番は、少しも隠す様子がなかった。
ギンが、俺の顔をちらりと見る。
「春から、何樽くらい出ていきました」
「陸の戸からか」
「ええ」
「三十八樽」
倉番は、迷いもしないで答えた。
「船で出ていった分は」
「二十と、二つだな」
「……数えてたんですね」
「倉番が、倉の荷を数えねえでどうする」
倉番は、パイプに新しい葉を詰めながら、喉の奥で笑った。
「税関の連中なんざ、この倉に十年、一度も来やしねえ。来て聞かれりゃ、いつだって言ったさ」
「聞かれなかったんですか」
「聞かれなかったよ。あんたが初めてだ」
倉番は、詰め終えたパイプを口の端にくわえた。
「それに、俺は旦那の身内じゃねえからな」
「身内じゃない、というと」
「祭りの晩の祝儀さ。倉番なんかにゃ、一度も回ってきたことがねえ」
倉番は、火打ち石をかちかち鳴らしながら、坂の上の方へ顎をしゃくった。
「もらってりゃ、俺だって、数えたことなんか忘れたふりをしてたろうよ」
「もらってなくて、よかったですね」
「よかねえよ。一度くらい、もらってみたかったもんだ」
ギンが、横で小さく吹き出した。
ちょうどそのとき、坂の方から、荷車の音が下りてきた。
空の荷車を若い者に引かせて、恰幅のいい男が、汗を拭き拭き歩いてくる。陸の戸の前まで来たところで、男は俺のコートに気づいて、足を止めた。
倉番が、パイプを持った手で男の方を指した。
「あれが、油屋だよ」
油屋は、轍の上に立ったまま、俺の顔と倉番の顔を順に見た。
それから、空の荷車を振り返る。
どうやら、言い訳を一つも思いつかなかったらしい。
「……祭りの前の日に、ついてねえな」
「積み出す荷を倉に置いて、陸の戸からこっそり街へ売ってた分です」
俺は、轍の跡の上で油屋の前に立った。
「三十八樽分の関税と、その加算で」
油屋の喉が、ごくりと動いた。
「〆て、金貨六十四枚」
油屋は、首に巻いた布で、顔の汗をごしごし拭いた。
しばらくそうしてから、布を下ろす。
「旦那様には、黙っといてもらえるか」
「俺が黙ってても、明日の朝には港じゅうが知ってますよ」
油屋は、言い返す代わりに、若い者に荷車の向きを変えさせた。
空の荷車が、がらがらと音を立てて坂を上っていく。
倉番は、パイプの煙をうまそうに吐いた。
「あの男、去年の祭りじゃ、旦那様の庭で一番でかい音で手を叩いてたんだがな」
*
日が暮れると、魚市場のランタンに灯が入った。
宿の前の通りは、明日の祭りの支度をする人の声で、夜になってもにぎやかだ。
俺とギンが宿の食堂で遅い夕飯を食べていると、戸口に男が一人、立った。
港の署の調査官だ。四人の中で、一番口数の少ない、四十がらみの男だった。着いた日から今日まで、俺に話しかけてきたことは一度も無い。
「……少し、いいか」
男は、俺の向かいの、ギンの隣の椅子に腰を下ろした。
宿のおかみさんが、黙って杯を一つ置いていく。男は、それに手をつけなかった。
「明日の晩の、祝儀のことだ」
「ええ」
「受け取ってくれ」
男は、机の上で両手を組んだまま言った。
「あんたが受け取らなきゃ、俺たちが困る」
「どうして、あなたが困るんです」
「あんたが断ったら、俺たちが十年受け取ってきた物が何だったか、港中に分かっちまう」
ギンが、フォークを皿に置いた。
男は、ギンの方を見なかった。
「俺には、娘が一人いる。来年、魚市場の仲買の家に嫁に行くんだ」
「そうですか」
「今なら、調査官の娘だって言っても、向こうの親は嫌な顔をしねえ。旦那の身内の家だからな」
男は、組んだ手に力を入れた。
「あんたが明日、皆の前で断ってみろ。次の朝から、俺は旦那の祝儀で娘を育てた男だ」
俺は、何も言わなかった。
食堂の奥で、おかみさんが皿を洗う音だけがしている。
男はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて立ち上がった。
「頼んだぞ」
それだけ言うと、男は手をつけなかった杯を残して、ランタンの明るい通りへ出ていった。
*
おかみさんが、男の杯を下げに来た。
杯を盆にのせたまま、すぐには台所へ戻らない。
「うちの亭主もね、昔は税関の役人だったんだよ」
おかみさんは、盆を持ったまま、男が出ていった戸口の方を見ていた。
「旦那様がまだお若くて、桟橋が二本しか無かった頃さ」
「祝儀を、もらってたんですか」
「もらってたよ。毎年ね。それがある年の祭りの晩に、一度だけ断ったのさ」
ギンが、椅子の上で背筋を伸ばした。
「どうして、断ったんですか」
「さあね。あの人は、なんにも言わなかった。受け取らないで、黙って帰ってきただけさ」
おかみさんは、盆の上の杯を指でまっすぐに直した。
「次の月には、税関を追われたよ」
「……それから、ご主人は」
「浜で、網を繕って暮らしたよ。網の繕いなんて、いくらにもならないのにね」
おかみさんは、俺の方を向いた。
「五年前に、浜で倒れて、それきりさ」
ギンは、自分の皿に目を落とした。
おかみさんは、盆を胸の前に持ち直した。
「断るなら、それなりの覚悟をしてくださいよ」
そう言うと、おかみさんは台所へ戻っていった。
皿を洗う音が、さっきより少し大きくなった。
ギンが、俺の顔をまっすぐに見た。
「受け取りませんよね」
「知らねえよ」
「ヘイジさん」
「知らねえって言ってんだろ。もう寝るぞ」
俺は椅子から立って、階段を上がった。
後ろから、ギンの足音はついてこなかった。
*
部屋に戻って、鞄の底から革袋を一つ出した。
内陸の街から持ってきた、歩合の残りだ。港に来てからは、一枚も増えていない。
袋の口をほどいて、中身を寝床の上にあけてみる。数えなくても分かっている。春に街を出たときより、二十二枚少ない。
一番大きな物、と使用人は言っていた。
あの旦那が、皆の前で、一番最後に渡す物だ。この寝床の上の、何倍になるんだろうな。
勘定を始めかけたところで、階段の下から、まだ皿を洗う音が聞こえてくるのに気がついた。
さっきの男の杯なんか、とっくに洗い終わっているはずだ。
俺は金貨を一枚ずつ袋に戻して、口を縛った。
下の音は、袋を鞄の底にしまってからも、しばらくやまなかった。




