第27話 島の樽
夏になると、桟橋の板は昼前から焼けたように熱くなる。
その熱い板の上を、今朝も葡萄酒の樽が転がされていく。
樽の腹には、三つの波を丸で囲んだ焼き印が押してあった。この沖にある、王国の島の印だそうだ。王国の中で作った物には、関税がかからない。
桟橋の付け根の杭に座って、俺はその樽を眺めていた。
隣の杭では、ギンが手で顔をあおいでいる。
「島の葡萄酒って、そんなにたくさん採れるんですか」
「さあな。採れるんだろうよ、届けの上じゃな」
「ひと月で、これで三艘目ですよ」
「よく数えてたな」
「ヘイジさんの真似です」
樽は荷車に積まれて、坂の途中の酒商の倉へ運ばれていく。
この港で一番大きな酒屋で、島の葡萄酒を内陸の街へ卸している店だ。
浜の屋台で、年寄りの人足が言っていたことを思い出す。南の葡萄酒は、島の酒より樽が重いし、匂いが違う。
ただ、匂いの違いなんて、俺の鼻じゃ分かりっこない。
「ギン、島から来てる樽屋がいるって話、聞いたことあるか」
「桟橋の東の端の小屋です。島の船の樽を直しに、毎年夏だけ来るんだって、屋台の奥さんが」
お前、いつの間にそんなことまで聞いてたんだ。
*
桟橋の東の端の小屋では、日に焼けた男が、裸の背中に汗を光らせて、樽の箍を叩いていた。
年は俺より少し上くらいだろうか。小屋の中には、板を外した樽や、輪にした箍が、足の踏み場も無いほど転がっている。
「島の樽屋さんですか」
「そうだが、樽なら順番だぞ。三日は待ってもらう」
「直してほしいんじゃなくて、見てもらいたい樽があるんです」
樽屋は、木槌を持った手を止めて、俺のコートを見た。
「歩合取りか。港の役人が、樽に何の用だ」
「島の葡萄酒の樽が、ひと月に三艘も入ってきてるんですよ」
樽屋の顔が、少し曇った。
「……三艘だと」
「ええ。坂の途中の酒屋に入っていきました」
「今年の島で、そんなに出るわけがねえ」
樽屋は木槌を台に置いて、手の汗を前掛けで拭った。
「春に長雨が続いてな。島の葡萄は、半分がとこ実のうちに腐っちまったんだ」
「半分ですか」
「おかげで、島じゃ今年、樽が余ってる。だから俺は、こうして港まで直しの仕事を探しに来てるんだよ」
俺は、ギンと顔を見合わせた。
樽屋は、小屋の戸口から坂の方をにらんでいる。
「その酒屋の倉、見に行ってもらえますか」
「見て、どうする」
「その樽が、島の樽かどうかを教えてほしいんです」
「教えたら、俺に何の得がある」
「得になるかどうかは、分かりません」
樽屋は、鼻で笑った。
「正直な歩合取りだな」
「ただ、島の酒じゃねえ酒が、島の酒だって名前で内陸に売られてるんなら」
「売られてるんなら、何だ」
「本物の島の酒は、内陸じゃ高く売れなくなってるんじゃねえですか」
樽屋は、しばらく黙っていた。
それから台の上の木槌を取って、腰のベルトに差した。
「……今年の島の酒は、内陸の酒屋に、去年の半値で叩かれたよ」
*
酒商の倉は、坂の途中の、石造りの大きな建物だった。
入り口では、店の若い者が、運ばれてきた樽を一つずつ転がして奥へ入れている。
出てきたのは、身なりのいい五十がらみの男だった。指に金の指輪を二つはめていて、俺の顔を見ても、少しも慌てない。
「上席どのでいらっしゃいますね。絹屋さんの話は、伺っておりますよ」
「お耳が早いですね」
「この港で商売をしておりますと、坂の上の噂は早いものでしてね」
酒商は、俺の後ろの樽屋に目をやった。
樽屋は、腕を組んで黙って立っている。
「島の葡萄酒を、見せてもらいに来ました」
「どうぞ、どうぞ。島の焼き印も、ちゃんと押してございますよ」
倉の中は、ひんやりとして、葡萄酒の甘い匂いがこもっていた。
島の印を押した樽が、壁際に三段も積んである。
樽屋は、一番手前の樽の前にしゃがんだ。手のひらで箍をなでて、継ぎ目の所で指を止める。
「上席さん、ここを見な」
俺もしゃがんで、樽屋の指の先を覗き込んだ。
木の箍の端と端が重なった所に、小さな釘の頭が一つ、光っている。
「島の樽屋はな、箍の継ぎ目に釘を打たねえ」
「打たないんですか」
「島の樽は、潮風の中で何年も使うんだ。釘を打ったら、そこから錆びて箍が割れる」
「じゃあ、どうやって留めるんです」
「端に切り込みを入れて、噛み合わせるのさ」
樽屋は、隣の樽の継ぎ目も、その隣の樽の継ぎ目も、順に指でなでていった。
どの樽にも、同じ釘の頭が光っている。
「釘を一本打って留めるのは、南の樽屋のやり方だ」
酒商の笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。
「樽は、どこの樽屋のを使おうと勝手でしょう。中身は島の酒ですよ」
「島のどこの酒です」
俺が聞くと、酒商は迷わずに答えた。
「北の浜の、葡萄畑の酒です。昔から付き合いがありましてね」
樽屋が、しゃがんだまま酒商を見上げた。
「北の浜の樽なら、二十年、俺が全部締めてる」
樽を転がしていた店の若い者が、入り口で手を止めた。
「今年の北の浜は、長雨で畑の半分がやられた。出せた樽は、全部で四十だ」
ギンが、壁際の樽の山を端から目で追った。
「この倉だけで、六十はありますよ」
樽屋は、樽の山をにらんだまま吐き捨てた。
「当たり前だ。島じゅうの樽をかき集めたって、この倉は埋まらねえ」
樽屋は立ち上がって、壁際の三段の樽を見上げた。
「その四十も、俺が箍を締めて、俺が船に積んだ。釘なんか、一本も打っちゃいねえよ」
入り口で手を止めていた店の若い者が、樽に手を置いたまま、ぼそりと言った。
「……島の印の樽は、三年前の春から、ひと月に三艘ずつ入ってきてます」
「おい」
「一艘に十樽です。三年、俺が一つずつ転がしてきたんですから」
酒商ににらまれても、若い者は樽から手を離さなかった。
樽屋が、しゃがんだまま若い者の顔を見上げる。
「お前、北の浜の、葡萄畑の倅じゃねえか」
「……はい」
「親父の酒が、内陸で半値に叩かれてるのを、知ってて転がしてたのか」
「知ってたから、言ってるんですよ」
若い者は、樽屋の方は見ずに、樽の釘の頭を親指でこすった。
酒商は、何か言い返そうとして口を開いた。
それから、倉の入り口の向こうに見える坂の上を、ちらりと見た。
坂の一番上には、白い屋敷がある。
ひと月前、絹屋があの坂を駆け上がって、屋敷の門の前で半刻も待たされたことは、港じゅうが知っている。
門がとうとう開かなかったことも、たぶん、この男は誰より早く聞いている。
酒商は、坂の上から目を戻した。
駆け上がっていく代わりに、倉の隅の空き樽に、ゆっくりと腰を下ろした。
「……いくらです」
「島の酒として届けた南の葡萄酒は、三年分です」
俺は、壁際の樽の山の前に立った。
「払わずに済ませた関税に、罰の加算が半分付きます」
店の若い者が、入り口で唾をのむ音がした。
「〆て、金貨二百枚」
酒商は、空き樽の上で指輪を一つずつ回していた。
しばらくして、指輪を回すのをやめて、長い息を吐く。
「旦那様は、もう、うちのためには坂を下りてきてくださらないでしょうな」
それは、俺に言ったのではなかったらしい。
酒商は、倉の天井を見上げたまま、それきり何も言わなかった。
*
倉を出ると、樽屋は木槌を腰に差したまま、さっさと桟橋の方へ歩き出した。
「助かりました」
背中に声をかけると、樽屋は振り返りもしないで、片手を振った。
「礼なら、来年の島の酒を、内陸で高く売れるようにしてくれ」
「それは、俺の仕事じゃありませんよ」
「だろうな。歩合取りってのは、取るだけだ」
樽屋はそう言うと、笑いまじりの息を一つ残して、坂を下りていった。
*
署の一階の倉庫に戻ると、机の前に、屋敷の使用人が立っていた。
「お帰りなさいませ、上席さま。今日も、ずいぶんなお手柄だったそうで」
「どうも。今日は、何の用です」
「旦那様から、夏の船祭りのご案内でございます」
使用人は、胸に手を当てて頭を下げた。
「祭りの晩に、旦那様は、港の役人の方々と、船長の方々を、お屋敷の庭にお招きになります」
「庭で、何をするんです」
「旦那様から皆様お一人ずつに、皆様の前で、祝儀をお渡しになるのです」
「皆の前で、ですか」
「港では、昔からそういう習わしでございまして」
使用人は、にこやかに続けた。
「祝儀をお受け取りいただくのが、港の身内になっていただいた印でございます」
「身内、ねえ」
「上席さまには、一番最後に、一番大きな物をご用意しているとのことです」
一番大きな物、か。
いくらだ、と口から出かかったのを、俺は奥歯で噛みつぶした。
「承知しました。旦那によろしく」
「お待ちしております」
使用人は、また深く頭を下げて、倉庫を出ていった。
足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
ギンは、使用人が出ていった戸口を見たまま、しばらく黙っていた。それから、俺の方に顔を向ける。
「ヘイジさん。今、いくらか聞こうとしましたよね」
「……飯は出るのかって、聞こうとしたんだよ」
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