第26話 浜の煮込み
昼の鐘が鳴ると、あたしは署の倉庫を抜け出して、浜まで下りていく。
あの明け方に「煮込みは昼からだよ」と言われてから、これで三日目だ。
屋台の鍋の中身は、魚のあらと豆を、ざく切りの玉ねぎと一緒に煮込んだものだった。お椀に一杯で、銅貨一枚。
骨のまわりの身を豆と一緒にすくって食べると、潮の匂いがする。内陸の街では、こんな味のする物は食べたことがなかった。
板の腰掛けには、昼の荷揚げを終えた人足たちが並んでいる。
最初の日は、みんな黙ってあたしの銀髪を見ていた。三日目の今日は、端の一人が、あたしの座る分だけ尻をずらしてくれた。
「記録役さん、また来たのかい」
鍋をかき回しながら、奥さんが笑った。
白髪まじりの髪を、布で後ろにまとめている。あの明け方は火の方ばかり向いていたけれど、昼の奥さんはよくしゃべる人だった。
「ここの煮込み、おいしいので」
「お役人さんのお口に合うなんて、うちの鍋も出世したもんだね」
奥さんの後ろでは、砂の上に、小さな船が何艘も引き上げてある。
そのうちの何艘かは、舳先に、錨に波を二本重ねた印が赤く塗ってあった。港に着いた日に署の倉庫に積んであった木箱にも、署の門の柱にも、あの印が付いていた。
「奥さん。あの印、お屋敷の門と同じですよね」
「旦那様の船だって印さ」
「浜の船なのに、ですか」
「浜の船だったんだよ。この春まではね」
奥さんは、お玉で一艘ずつ指していった。
あそこのも、その隣のも、波打ち際のも。数えてみると、印の無い船の方が少ない。
「旦那様が、買ったんですか」
「借金のかたにもらったのさ」
奥さんは、何でもないことみたいに言った。
「去年の冬に、ひどい嵐があってね。浜の船は、網も帆もみんな持っていかれちまった」
「全部の船が、ですか」
「全部さ。網が無けりゃ、魚は捕れないだろ。そこへ旦那様が、金を貸してやろうって言ってくれたんだよ」
「利子は」
「一枚も取らないよ。親切なもんさ」
奥さんは、鍋の湯気の向こうで、口の端だけで笑った。
「ただね、期日に一日でも遅れたら、船をもらうって約束なんだ」
「一日でも、ですか」
「一日でも。春に、隣のじいさんが半日だけ遅れてね。次の朝には、もう舳先にあの印が塗られてたよ」
あたしは、お椀を膝の上に下ろした。
奥さんの目が、砂の上の一番小さな船の方へ行く。印の無い船だった。
その横で、年寄りの男の人が一人、しゃがんで網を繕っている。
「あれが、うちの人さ」
「ご主人の船は」
「うちのは、月の終わりが期日でね。残りは二十二枚」
「……金貨で、ですか」
「金貨でさ」
金貨二十二枚。
この屋台の煮込みなら、二千二百杯になる。
「あの網もね、嵐のあとに、残った切れ端をつなぎ合わせたやつなんだよ」
奥さんは、ご主人の背中を見たまま言った。
「毎朝、あれで海に出てるけどさ。穴だらけの網じゃ、捕れる魚なんて知れてるだろ」
「船を取られたら、ご主人は」
「旦那様の船に乗せてもらうのさ。旦那様の荷を運ぶんだよ。夜にね」
板の腰掛けの端で、人足の一人が、煮込みをすする手を止めた。
それから何も言わずに、またお椀に顔を戻した。
*
その晩、宿の夕飯のあいだ、あたしは何度か口を開きかけた。
ヘイジさんは向かいの席で、茹でた蟹の脚を殻ごと割っては、皿の端に殻を積み上げている。
「ギン、お前、昼にどこ行ってんだ」
「散歩です」
「魚くせえぞ」
「港は、どこでも魚くさいです」
ヘイジさんは、ふうん、と言ったきり、また蟹の脚を割り始めた。
あたしは、結局何も言わなかった。
港に来てから、ヘイジさんの懐には、歩合が一枚も入っていない。確定するまで払うなと、自分で港の署長に言ったからだ。
それに、浜の船の借金は、税の話じゃない。調査官が口を出す筋のことじゃないのは、あたしにも分かる。
内陸の街で、食堂の話をしたときのことを思い出した。
あのとき、あたしが言わなければ、ヘイジさんは三十枚を置かなかったかもしれない。
今度も言えば、この人はきっと、また何も言わずに袋を出す。
それが分かっているから、あたしは言わなかった。
*
月の終わりの、前の日の昼だった。
浜に下りていくと、ご主人がちょうど、海から船を引き上げているところだった。
船の底には、手のひらほどの魚が五、六匹、跳ねているだけだ。ご主人はそれを籠に移すと、何も言わずに網を広げて、また破れた所を繕い始めた。
「明日の晩には、旦那様の使いが来るよ」
奥さんは、いつもと同じ声で言って、あたしのお椀に煮込みをよそった。
「刷毛と、赤い色の壺をさげてね」
あたしは、お椀を受け取ったまま、何も言えなかった。
浜の上の方で、砂を踏む音がした。
振り返ると、茶色のコートが、魚市場の方から浜へ下りてくるところだった。
腰掛けの人足たちが、そっちを見て、黙って尻をずらす。あたしの隣が、ちょうど一人分空いた。
「ヘイジさん、なんで」
「昼飯だよ。煮込みを一杯くれ」
ヘイジさんがあたしの隣に腰を下ろすと、奥さんはちょっと目を丸くしてから、お椀に煮込みをたっぷりよそった。
「あんた、明け方のお役人さんだね」
「どうも。浜の連中に、ここの煮込みがうまいって聞いたもんでね」
ヘイジさんは、お椀に口をつけると、黙ってすすり始めた。
骨のまわりの身を、指でつまんで丁寧にはがしている。豆の一粒も残さない。
一杯目を食べ終えると、ヘイジさんは、空のお椀を奥さんに差し出した。
「もう一杯」
「よく食べるねえ、お役人さん」
「港の飯は、何を食ってもうめえんですよ」
二杯目を食べているあいだ、ヘイジさんは一度も、砂の上の船の方を見なかった。
ご主人は、網を繕う手を止めて、こっちを見ている。歩合取りが浜で煮込みを食べているのが、よっぽど珍しいらしい。
二杯目を空にすると、ヘイジさんはお椀を板の上に置いて、腰掛けから立った。
それから、コートの内側に手を入れる。
取り出した革袋を、ヘイジさんは口も開けずに、鍋の横の石の上に置いた。
「悪りぃな。細けえのを切らしてんだ」
奥さんは、鍋をかき回す手を止めて、石の上の袋を見た。
「そんな大きいの、うちじゃお釣りなんか出ないよ」
「釣りはいらねえ」
それだけ言うと、ヘイジさんはもう、砂の上を魚市場の方へ歩き出していた。
網を放り出したご主人が、鍋の横の袋を拾い上げた。
紐をほどいて中を覗いたまま、ご主人は動かなくなった。
「おい、あんた。待ってくれ」
ヘイジさんは、砂を踏む足を止めなかった。
背中を向けたまま、片手だけ軽く上げる。
「その飯代じゃ、来年の税金は高えぞ。また食いに来るからな」
茶色のコートは、そのまま浜を上っていった。
いつもよりずっと早足で、あたしが追いかけようと腰を浮かせたときには、もう魚市場の屋根の向こうに見えなくなっていた。
*
奥さんが、ご主人の手から、黙って袋を受け取った。
腰掛けの板の上に、金貨を一枚ずつ並べていく。
人足たちは、誰もお椀に口をつけずに、板の上に伸びていく金貨の列を見ていた。
最後の一枚を置くと、奥さんは空になった袋を逆さにして振った。もう、何も出てこない。
板の上の列は、二十二枚だった。
「……あたし、あの人には、一言も言ってないよ」
奥さんは、金貨の列から目を上げずに言った。
ご主人は、しばらく突っ立ったまま、板の上の金貨を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと砂の上の小さな船の方へ歩いていって、舳先に手を置いた。
赤い印の塗られていない、日に焼けた板の上に。
ご主人はそのまま、しばらく舳先から顔を上げなかった。
「奥さん。……あたしも、言ってません」
奥さんが、顔を上げてあたしを見た。
腰掛けの端から、いつかあたしの座る分だけ尻をずらしてくれた人足が、ぼそりと言った。
「あの調査官なら、明け方に何べんも来てたぜ」
「明け方に、ですか」
「俺らが、夜の荷揚げから上がってくる頃にな。一杯おごって、黙って隣に座ってやがった」
人足は、空のお椀を板の上に置いた。
「ここのおかみの話も、俺らの愚痴も、全部聞いてたよ」
あたしは、あの明け方の浜を思い出していた。
夜の荷を担ぎ終えた人足たちが、この腰掛けに並んで、黙って杯を受け取っていた顔。
あの日焼けした顔の並びのどこかに、ヘイジさんは、あたしの知らない朝に何べんも座っていたのだ。
「記録役さん、冷めちまったね。よそい直してやるよ」
奥さんが、目のふちを前掛けでこすりながら、あたしのお椀を取り上げた。
あたしは、銅貨を一枚、板の上に置いた。
「払います。これは、ちゃんと払います」
奥さんは、目を赤くしたまま、銅貨とあたしの顔を見比べた。
それから、板の上の金貨の列の端に、その一枚をそっと並べて置いた。




