第25話 夜の岩場
税関の小屋の前を通りかかると、日陰でカードを配っていた役人の一人が、こっちを見もしないで声をかけてきた。
「上席さんよ。あんたの探してる若いのなら、三日前から夜の番だよ」
「夜の番、ですか」
「岩場の上の見張り小屋さ。署長さんのお達しだってよ」
役人はカードを一枚場に捨てて、ほかの二人と顔を見合わせて笑った。
「数えるのが好きな奴だからな。あそこなら、一晩じゅう波でも数えてりゃいい」
小屋の奥を覗くと、若い役人が背中を丸めて座っていた机には、乾いたインク壺が一つ残っているだけだった。
岩場の上というと、坂の上の白い屋敷の、真下にあるあの岩場だろう。
港に着いた晩、灯りを消した船がすうっと消えていったのが、ちょうどその陰だった。
小屋の前を離れたところで、ギンが俺の袖を引いた。
「罰ですよね、それ」
「罰のつもりなんだろうよ」
「あの人、あたしたちと話したせいで」
「かもしれねえな」
ギンは、坂の上の白い壁をにらんでいる。
俺は、岩場の方を見ていた。罰のつもりで回したにしちゃ、ずいぶん見晴らしのいい所に回してくれたもんだ。
「ヘイジさん。まさか、行く気ですか」
「今夜、差し入れにでも行ってやろうと思っただけだ」
「差し入れって、何を持っていくんですか」
「……何も考えてなかったな」
*
日が落ちてから、桟橋の端の石段を下りて、岩場づたいの細い道を歩いた。
灯りは持ってこなかった。屋敷の窓から、こっちの灯りを数える奴がいないとも限らない。
足もとの岩は濡れていて、三歩に一度は滑りそうになる。ギンの方は、猫みたいに平気な顔で先を歩いていた。
「ヘイジさん、そこ、穴があります」
「先に言えよ」
「今、言いました」
見張り小屋は、岩場の上に張りついた、物置ほどの板の小屋だった。
小さな窓に灯りが一つともっていて、戸を叩くと、中で何かが倒れる音がした。
「……誰ですか」
「署の上席です。夜分にすみませんね」
戸が細く開いて、若い役人が目を丸くした。
袖口には、奥の机で付けたインクの染みが、まだ黒々と残っている。
「どうして、ここが」
「税関の連中が、親切に教えてくれましてね」
若い役人は、俺の後ろのギンを見て、それから岩場の下の暗い海を見た。
少し迷ってから、戸を大きく開けてくれる。
小屋の中には腰掛けが一つと、海に向いた窓が一つあるだけだった。若い役人は自分の腰掛けを俺に譲って、床に膝を抱えて座った。
膝の横に、布の包みが置いてある。
「よかったら、どうぞ。母が持たせてくれたんです。夜は冷えるからって」
包みをほどくと、蒸かした芋が四つ出てきた。皮の上から、粗い塩が振ってある。
まだ少し温かい。
一つもらってかじると、塩のおかげで芋の甘さがやけに立った。気がついたら、手の中にはもう皮しか残っていない。
俺の目が二つ目の芋に行ったところで、ギンが小さく咳払いをした。
「ヘイジさん」
「……見てただけだぞ」
「どうぞ。母は、いつも多めに持たせるんです」
若い役人がそう言ってくれたので、ありがたくもう一つもらった。
ギンの視線が横から刺さっているが、気にしないことにする。
「お母さんは、何をされてるんですか」
ギンが聞くと、若い役人は窓の下の方を指さした。
岩場の下の暗がりに、船の舫い綱が何本も、白っぽく浮かんで見える。
「浜で縄屋をやってます。この港の船の綱は、だいたい母が綯ったものなんですよ」
「全部ですか」
「全部じゃないです。でも、大きい船のはだいたいそうです」
若い役人は、少しだけ誇らしそうに言った。
「お父さんも、縄を?」
「父は船乗りでした。僕が十のときに、南へ出た船ごと帰ってこなくて」
「……すみません」
「いいんです。もう十年も前のことですから」
若い役人は、膝を抱え直した。
「妹が一人いて、今は母の隣で縄を綯ってます。僕だけ、縄を綯うのが下手で」
「下手なんですか」
「母に、お前の綯った綱じゃ猫もつなげないって言われました」
ギンが、ぷっと吹き出した。若い役人も、つられて少し笑う。
「その代わり、数えるのだけは得意だったんです。それで、税関に入れてもらいました」
そこまで言ったところで、若い役人の顔から笑いが消えた。
窓の外を見たまま、口だけで言う。
「来ました」
*
湾の口の方から、灯りの無い船が一艘、月明かりの中を滑ってくる。
帆はもう畳んであって、櫂の音もほとんどしない。船はそのまま、真下の岩場へまっすぐ寄ってきた。
岩の陰に、海の水が入り込んだ大きな洞が口を開けている。
昼間、桟橋の方から見たときには、波のかかるただの岩の割れ目にしか見えなかった所だ。船は帆柱を傾けるようにして、その中へ吸い込まれていった。
洞の口の横の岩棚には、もう人が並んでいる。
十人か、もう少しいるだろうか。松明もランタンも無しに、真っ暗な中で、船から下ろした荷を手から手へ渡しては洞の奥へ運び込んでいく。
「あの人たち、こんな暗い中でよく落とさないですね」
ギンが、窓に顔をくっつけるようにしてささやいた。
「慣れてるんだろ。毎晩やってりゃな」
「毎晩なんですか」
「毎晩です。一艘の晩も、二艘の晩もあります」
答えたのは、若い役人だった。
目は岩棚から離さないまま、唇が小さく動いている。
俺も、運ばれていく荷を数えた。
樽、樽、箱、樽。暗くて、樽と箱の区別をつけるだけで目が痛くなる。
最後の荷が洞へ消えて、船が音もなく湾の口へ戻っていくまで、半刻ほどかかった。
「樽が二十四、箱が十一です」
若い役人が、窓から目を離さずに言った。
「……樽は、二十三じゃねえか」
「二十四です。途中で一つ、二人で担いだ樽がありました」
言われてみれば、そんなのが一つあった気がする。
数で負けたのは、前世から数えても久しぶりだ。
「ここに回されてから、ずっと数えてたんですか」
「数えるなとは、言われていないので」
若い役人は、そこでようやく窓から顔を離して、俺を見た。
「でも、数えたところで、誰も聞いてくれませんでした」
「俺が聞きますよ」
若い役人は、何か言いかけて口を閉じた。
それから膝の上で、指をゆっくり一本ずつ折りはじめた。唇が、また小さく動いている。
ここへ回されてから見た船の数を、晩ごとに数え直してくれているらしい。
*
空が白みはじめたころ、洞の方から人足たちが上がってきた。
岩場の裏の細い道をつたって、ばらばらと浜の方へ下りていく。俺とギンも、少し間を置いてから、そのあとを追った。
浜は、魚市場のさらに東にある。
小さな船が何艘も砂の上に引き上げてあって、その手前に、石で囲った竈と鍋を置いただけの屋台が出ていた。
竈の前でしゃがんで火を起こしているのは、白髪まじりの女だった。人足たちは、屋台の前の板の腰掛けに並んで、黙って杯を受け取っている。
一番端に座った、白髪を短く刈った年寄りには見覚えがあった。
干し魚の船長の樽を、二人がかりで担いでいた人足だ。
「爺さん、一杯おごらせてもらえますか」
隣に腰を下ろすと、人足は俺のコートを横目で見て、鼻を鳴らした。
「歩合取りにおごられる覚えはねえな」
「この前、桟橋で樽を開けてもらった礼ですよ」
「……勝手にしな」
屋台の女に銅貨を渡すと、女は人足の杯に、湯気の立つ酒を注いだ。
鍋の方からも、何かを煮ているいい匂いが漂ってくる。
「その鍋のは、もらえますか」
「煮込みは昼からだよ。今はまだ、骨から出汁を取ってるとこさ」
女はそっけなく言って、また火の方を向いてしまった。
俺の腹が、鍋に向かって情けない音を立てた。ギンは、知らん顔で海の方を向いている。
人足は、黙って酒をすすっていた。半分ほど飲んだところで、ようやく口を開く。
「あんたが桟橋で樽を開けさせた次の晩から、夜の駄賃が上がったよ」
「旦那が、上げたんですか」
「旦那の使いがな。上がった分で、口を閉じとけってこった」
「閉じとくんですか」
「さあな。おごられた酒の分くらいは、開くかもしれねえ」
人足は、杯を持っていない方の手で、自分の腰をさすった。
「あの樽、中身は何なんです」
「担げば分かる」
「俺は、担いでも分からないんですよ」
人足は、ちらりと俺の細い腕を見た。
それから、少しだけ笑ったような気がした。
「胡椒は袋だ。担ぐと、背中じゅうからくしゃみが出る」
「袋ですか」
「絹は軽いが、嵩がある。濡らすなって、旦那の使いが一番うるせえのがあれだ」
人足は、残りの酒を一息にあおった。
「それに、南の葡萄酒だ。島の酒より樽が重いし、匂いが違う。港で四十年担いでりゃ、嫌でも分かる」
「その荷は、洞に入ったあとはどうなるんです」
「どうもならねえ。洞の中は、旦那の倉だ」
人足は空の杯を指でつまんで、浜の向こうの岩場の方へ向けた。
「税関の札なんか、一枚も貼ってねえよ」
隣で、ギンが小さく息をのんだ。
俺は、黙って人足の横顔を見ていた。
港の署には調査官が四人もいて、税関の小屋には役人が何人も座っている。
その目と鼻の先の洞に、毎晩、札の一枚も無い荷が運び込まれているってわけだ。
人足は、しばらく黙って空の杯を眺めていた。
それから、急に俺の方へ顔を向けた。
「あんた、旦那に何をもらったんだ」
「何を、とは」
「前に来た調査官も、旦那の屋敷で飯を食ってから、何にも見えなくなったんだよ」
人足の目は、笑っていなかった。
屋台の女も、竈の前で火をつつく手を止めて、こっちを見ている。
「飯を一回」
人足は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、空になった杯を、屋台の女の方へ黙って突き出した。
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