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第24話 港の署長

 絹屋の更正の通知は、朝からずっと、わたしの机の上に載っている。

 あとは、署長の判を押すだけだ。

 押せば、坂の上の旦那様に睨まれる。押さなければ、一階の倉庫にいる上席どのに睨まれる。

 どちらの方が怖いかと聞かれたら、考えるまでもない。旦那様に決まっている。

 それなのに、判を握ったわたしの手は、さっきから通知の上で止まったまま下りなかった。


 あの男が港に来て、まだ半月にもならない。

 内陸の街で一番強欲だった調査官だと聞いて、わたしは安心していたのだ。強欲な男なら、値段さえ決まれば話は早い。

 ところがあの男は、干し魚の船長の歩合を、確定してから払えと言って突き返してきた。

 七枚と銀貨二枚の袋は、まだわたしの机の引き出しに入っている。

 強欲な男が金を突き返してくるのなら、いったい何が欲しいのか。それが分からないうちは、どちらに睨まれる方がましなのかも、本当のところは分からない。


 判を机に置いたところで、階段を駆け上がってくる足音がした。

 戸を開けて入ってきたのは、絹屋だった。

 いつも胸に挿している絹のハンカチが、今朝はくしゃくしゃに握りつぶされている。


「署長、判は、まだ押してないでしょうな」

「まだだよ」

「押さないでくれ。頼む」


 絹屋は、わたしの机に両手をついた。


「きのう、旦那様のお屋敷に伺ったんだ。門の前で半刻も待って、とうとう開けてもらえなかった」

「そうかね」

「署長から、旦那様に口をきいてもらえないか。十年、毎月お屋敷の晩の席に呼ばれてきた俺だぞ」

「伺ってみよう」


 わたしは、いつものように口の両端を持ち上げて答えた。

 笑い顔なら、目を使わずに作れるようになって久しい。

 伺ってみるとは言ったが、何を伺うのかは言わなかった。絹屋は、それでも何度も頭を下げて帰っていった。

 分からないことは、分かる方に伺うしかない。

 わたしも、立ち上がった。


     *


 屋敷は、署の隣にある。

 門をくぐると、使用人が、いつものように頭を下げた。


「旦那様は、書斎でお待ちでございます」


 待っている、と言われるのには慣れている。

 わたしがいつ何の用で来るのか、旦那様はたいてい、わたしより先に知っているのだ。

 書斎の窓からは、港がすっかり見下ろせた。

 旦那様は窓際の椅子に座って、膝の上で両手を揃えていた。


「絹屋の件ですね」

「はい。更正の通知が上がってまいりまして、判をどういたしましょうかと」

「押しなさい」


 旦那様は、窓の外から目を離さずに言った。


「よろしいので」

「あれは、もう要らない」


 絹屋の頼みを口にするのは、やめておいた。

 口にしたところで、旦那様の答えは、もう聞いてしまっている。


「上席どのにも、港で少しは手柄が要るでしょう」

「手柄、でございますか」

「ここへ来てすぐに、干し魚と絹。内陸の署にも、王都にも、いい話が届きます」


 旦那様は、そこで初めてわたしの方を見た。


「気持ちよく働いていただかないと、話もできませんからね」


 わたしは、はい、とだけ答えた。

 十年も、この屋敷の晩の席に呼ばれてきた男だ。旦那様はその男のことを、食べ終えた皿を一枚下げさせるときと同じ声で、あれ、と呼んだ。

 わたしはこの港の署長になって、十二年になる。

 それだけ長く隣で笑ってきたのだから、この声の意味くらいは分かる。いつか、わたしのことも、旦那様はこの声で言うのだろう。

 あれは、もう要らない、と。


「上席どのは、歩合を受け取らなかったそうですね」

「はい。確定してから払え、と」

「ほう」


 旦那様は、膝の上の手を、少しも動かさなかった。


「では、受け取りたくなる物を考えなくてはいけませんね」


 旦那様は、それから思い出したように付け足した。


「娘さんは、お元気ですか。坂の下の船大工のお宅に嫁がれて、もう三年になりますね」

「……おかげさまで」

「それは良かった」


 帰り際、玄関で使用人が、封筒を一通差し出した。


「今月の分でございます」


 いつもと同じ厚さの封筒だ。

 坂の中ほどの家も、三年前に嫁にやった娘の服も、この封筒で揃えた。娘の服は、袖の先まで南の絹で仕立ててやったものだ。

 それなのに、受け取ろうとして伸ばした手が、今日はなかなか上がらない。


     *


 署に戻って、わたしは判を押した。

 あれだけ迷ったのが嘘のように、判はあっさりと紙に付いた。

 通知を持って一階の倉庫へ下りると、上席どのは、がらんとした床の隅の机で、港の地図を眺めていた。記録役どのが、その横に座っている。


「上席どの、絹屋の件、判を押しましてございます」

「どうも」


 上席どのは通知を受け取ると、それだけ言って、地図に目を戻した。

 わたしが坂の上へ行ってきたことは、たぶん知っている。知っている顔で、何も聞かない。

 記録役どのの目が、わたしの顔ではなく、通知を渡したわたしの手の方に来ていた。

 わたしは、両手を腹の後ろへ回した。


「署長さん。お屋敷は、いかがでした」


 記録役どのが、まっすぐわたしの顔を見て聞いた。

 内陸の街の窓口で客に嘘ですよねと言ったという娘は、港の署長にも同じ顔で物を聞くらしい。


「……いや、何のことでございましょう」

「隣から戻ってくるのが、窓から見えたので」


 上席どのの肩が、地図の上で一度だけ揺れた。


「では、わたしはこれで」

「署長」


 背中を向けかけたわたしを、上席どのが呼び止めた。


「絹屋の歩合も、確定してからで結構ですよ」

「……心得ております」


 倉庫を出て、階段を上がりながら、わたしは自分の額の汗を拭った。

 夏の初めの、まだ暑くもない午後だった。


     *


 夕方、税関の頭が、署長室に顔を出した。

 日に焼けた首の太い男で、毎朝の入り船の数を口で伝えに来るのが、この男の役目だ。


「署長。奥で目録を書き写させてる、例の若いのですがね」

「あれが、どうかしたかね」

「干し魚の船が入る朝に、奥の窓から桟橋をじっと見てたって、カードの連中が言うんですよ」

「上席どのが来たのは、その朝だったな」

「へい。偶然にしちゃ、出来すぎてまして」


 わたしは、机の上で指を組んだ。

 桟橋から外しても、紙の仕事に回しても、あの若いのは数えるのをやめない。それなら、昼に上席どのと顔を合わせられない所へ置けばいい。


「夜の見張り小屋へ回しなさい。明日の晩からだ」

「見張り小屋、ですか」


 税関の頭は、少しだけ眉を寄せた。


「あそこは、旦那様のお屋敷の真下ですが」

「あの小屋に置いた者で、今までに何かを見た者がいたかね」

「……いません」

「夜なら、上席どのとも会えまい。それでいい」

「家の方には、何と言いましょう。あいつの家は浜の縄屋で、母親が港の船の綱を綯ってますが」

「知っているよ」


 わたしは、少し考えてから付け足した。


「夜の見張りなら、昼は母親の縄を手伝えるだろう。そう言っておきなさい」


 税関の頭は、それ以上は何も言わずに頭を下げて、出ていった。

 口で言いつけただけだから、誰がそう決めたのかは、税関の頭しか知らない。


     *


 次の晩、わたしは遅くまで署に残っていた。

 別に、用があったわけではない。家へ帰っても、女房に今日はどうだったかと聞かれるだけだ。

 署長室の窓からは、夜の入り江がよく見える。

 旦那様の屋敷の真下は、岩場になっていて、夜はいつも真っ暗だ。その岩場の外れに、板張りの小さな見張り小屋が建っている。

 しばらくすると、その小屋の窓に、灯りが一つともった。

 小さな、黄色い灯りだった。

 入り江の船の灯りよりずっと低いところで、風に揺れもせずに、じっと動かない。

 わたしは、窓の鎧戸を閉めた。

 あの小屋の窓から何が見えるのかは、考えないことにした。

 考えないでおくのは、この港の十二年で、わたしがいちばん上手になったことだ。


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