第23話 絹の値段
干し魚の船長の七十二枚が港じゅうに知れ渡ってから、五日がたった。
その朝、南の国の旗を揚げた大きな船が入ってきて、税関の小屋の前に、見慣れない男が立った。
仕立てのいい上着の胸に、絹のハンカチを挿している。
「絹が四十反。一反、銀貨十枚で」
「絹、四十反。一反、銀貨十枚ね」
役人は、いつものように聞いたままを繰り返した。
男はハンカチで額を押さえながら、俺の方をちらりと見て、すぐに目をそらした。そのまま人足を急かして、荷車に木箱を積ませていく。
「ヘイジさん。絹って、一反で銀貨十枚なんですか」
「さあな。俺は絹なんか買ったことがねえ」
「あたしもです。でも、安すぎる気がします」
ギンが「気がします」と言うときは、だいたい当たっている。
俺は荷車の脇で汗を拭いている年寄りの人足に声をかけた。五日前、樽の蓋をこじ開けてくれた年寄りだ。
「さっきの絹屋さん、いつもあの値で届けてるんですか」
「絹のことなら、俺は知らねえよ」
年寄りは俺の顔も見ずに、荷車の縄を締め直した。
「俺は担ぐだけだ」
「こないだは、ずいぶんしゃべってくれましたけど」
「干し魚の船長と絹屋さんじゃ、話が違うんだよ。あの人は、旦那の晩飯の席に毎月呼ばれてる」
年寄りは荷車の柄を握ると、もう坂の方へ押し出していた。
五日前に、駄賃の文句を真っ先に口に出した若い人足も、今日はこっちを見ないように、ずっと背中を向けている。
港の中で、絹の話をしてくれる者はいないらしい。
「じゃあ、どこで聞くんですか」
「絹を買う方だ。港の外へ行く」
*
港から坂を一つ越えると、街の店の並ぶ通りに出る。
仕立屋は、その通りの真ん中あたりにある、間口の狭い店だった。
壁際の木の人形に、白い服が一着着せてある。胸と裾は柔らかい絹で仕立ててあるのに、袖だけが、少し固そうな木綿だった。
奥から出てきたのは、目を細める癖のある、腰の低い男だった。
「税務署の方が、うちに何の」
「絹を、いくらで買っておられるのか伺いたくて」
仕立屋の顔が、すっと固くなった。
「うちは、絹屋さんの言い値で買ってるだけですよ」
「その言い値は」
「……それは、勘弁してください」
仕立屋は、両手を前掛けの前で握りしめた。
港の坂の上の方を、一度だけ見る。
「そうですか。お邪魔しました」
店を出る前に、俺はもう一度、木の人形の木綿の袖を見た。
通りに出ると、ギンが後ろから追いついてくる。
「押さないんですか」
「押したら、あの人が困るだけだ」
「でも、何か知ってる顔でしたよ」
「知ってる顔だったな。だから、待つんだよ」
坂の下の川沿いでは、染物屋の物干しに、染め上げた絹が何枚も風に揺れていた。
藍と、茜と、黄色。ギンが立ち止まって、口を半分開けたまま見上げている。
けれど戸口に出てきた見習いは、親方は釜から離れられないと言うばかりで、俺たちを中には入れてくれなかった。
*
その晩、宿の戸を叩いたのは、昼間の仕立屋だった。
宿のおかみさんに通されて、俺の部屋の戸口に立ったまま、なかなか中へ入ろうとしない。
「干し魚の船長のとき、旦那様は坂を下りてこなかったそうですね」
「下りてきませんでしたね」
「……そうですか」
仕立屋は、ようやく部屋に入ってきて、椅子の端に腰を下ろした。
ギンも、隣の部屋から来て戸口に立っている。
「あいつは、港じゃ安く言うんです。そのくせ俺には、毎年高く売りつける」
「毎年、ですか」
「関税が上がったからだって、毎年そう言って、値を上げるんですよ」
「関税の決まりは、王都で変わっちゃいませんよ。荷の値の一割のままです」
仕立屋は、しばらく俺の顔から目を離さなかった。
それから、膝の上で握った手に目を落とした。
「……俺は、それをそのまま客に言って、頭を下げてきたんです」
「客に、ですか」
ギンが聞くと、仕立屋はうなずいた。
「去年の秋に、浜の漁師の娘さんの嫁入りの服を頼まれましてね」
「あの、袖だけ木綿の」
「見ましたか。あれです」
仕立屋は、少しだけ笑った。
「絹が高くて、袖の分まで出なかった。関税のせいで、すみませんって、親父さんに頭を下げましたよ」
仕立屋の笑い顔が消えるのを待ってから、俺は聞いた。
「絹は、一反いくらで買ってます」
「金貨四枚です」
「絹屋さんの仕入れの値は、分かりますか」
「南の船から買った値に一枚乗せて売ってるって、酒の席で笑ってましたよ」
だったら、港で届けるべき値は、一反で金貨三枚だ。
それを、銀貨十枚で届けていたことになる。
「うちが買うのは、年に三十反ほどです。港に入る絹の数なら、染物屋の親方が知ってます」
「親方が」
「この港の絹は、一反残らず、あの親方の釜を通るんですよ」
「明日の朝、会わせてもらえますか」
「連れてきます。ただ、俺の名前は」
「絹屋の前で言ってもらわないと、一枚も取れませんよ」
仕立屋は、しばらく黙って膝の上の手を見ていた。
「……連れてきます」
仕立屋は、そこで初めて、まっすぐ俺の顔を見た。
「あの親方も、染め賃を三年上げてもらえなくて、腹を立ててるんで」
*
次の朝、仕立屋は本当に、染物屋の年寄りを連れて宿の前に立っていた。
年寄りの両手は、手首まで藍で青く染まっている。洗っても落ちないらしい。
「去年は二百四十反だ。その前の年も、だいたい同じだな」
「五年なら、どのくらいです」
「千二百反ってとこだろう。数え違いはねえよ。染め賃は、一反ずつもらうんでな」
染物屋は、そこで仕立屋の方を顎で示した。
「絹屋の店へ行くんだろう。俺も行くぞ」
「親方、それは」
仕立屋が慌てて止めたが、染物屋は聞かなかった。
「染めた本人が行かなきゃ、話にならねえだろうが」
絹屋の店は、魚市場の西の石畳の通りにあった。
棚には染め上がった絹が色ごとに並んでいて、昨日のハンカチの男が、カウンターの奥で金を数えている。
俺の後ろに立っている二人を見て、絹屋は鼻で笑った。
「仕立屋に染物屋か。税務署は、ずいぶん暇なんですな」
「関税が上がったって、あんた毎年言ったよな」
仕立屋が、絹屋に向かって言った。声が少し震えている。
「上がったんだよ。南の方の事情でな」
「上がってませんよ」
俺が言うと、絹屋はハンカチを持った手を止めた。
その横から、染物屋が青い手をカウンターに置く。
「去年の二百四十反は、全部うちの釜で染めた。染め賃は、一反ずつあんたからもらったはずだぜ」
絹屋の顔から、少しずつ色が消えていった。
俺は、カウンターの前に立った。
「絹屋さんの儲けの一枚を引いても、絹は一反、金貨三枚の品です」
「それは……」
「それを、銀貨十枚で届けていましたね」
絹屋は、答えなかった。
「五年で千二百反。届けなかった分の関税に、加算を乗せまして」
店の前の石畳を、荷車が一台、軋みながら通り過ぎていく。
「〆て、金貨三百六十枚」
絹屋は胸のハンカチを抜き出して、額を拭いた。拭いても、汗は引かない。
ハンカチを握った手が、カウンターの上で白くなっていく。
「……旦那が」
そこまで言いかけて、絹屋は口を閉じた。
それから、カウンターをくぐって店を飛び出していった。
石畳の通りに出て見上げると、絹屋は坂を駆け上がっていくところだった。上着の裾がめくれるのもかまわず、坂の一番上の白い壁へ向かっていく。
「旦那様に、言いつけに行くんでしょうか」
「行きゃいいさ。三百六十は、三百六十だ」
三百六十の一割は、三十六枚。確定してからの話だがな。
坂の上で、絹屋が屋敷の門を叩いているのが小さく見えた。
門は、なかなか開かない。絹屋はそのあいだに、何度もハンカチで額を拭っていた。
俺たちが店の前を離れるまで、門はとうとう一度も開かなかった。




