第22話 樽の重さ
次の朝、坂を下りて税関の小屋へ行くと、日陰では今日も役人が三人でカードを配っていた。
俺のコートを見ても、三人とも手札から目を上げない。小屋の端にいたはずの、あの袖口の黒い若い男の姿も見当たらなかった。
「船を数えてた若い人は、今日は休みですか」
一番手前の役人に聞くと、そいつはカードを一枚捨ててから、顎で小屋の奥をしゃくった。
「奥だよ。積荷の目録を書き写してる」
「桟橋には出ないんですか」
「数えすぎるんでな。紙の仕事に回されたのさ」
役人は山からカードを一枚引いて、また手札に目を戻した。
小屋の奥を覗くと、窓の小さな薄暗い隅に机が一つあって、若い役人がペンを走らせていた。
俺に気づいて顔を上げたが、口は開かない。
その代わりに、目だけを一度、小さな窓の外の桟橋へ向けた。それから、何事もなかったように紙へ戻っていく。
窓の外を振り返ると、湾の口から船が一艘、帆を畳みながら入ってくるところだった。
隣で、ギンが目を細める。
「あの船、着いた日に見た船ですよ。干し魚が二十樽だって言ってた、岩みたいな顔の船長の」
「着いてまだ十日もたたねえのに、また来たのか」
「たぶん。あの役人さん、それを教えてくれたんですね」
「見てたのが、ばれなきゃいいがな」
*
船が桟橋に着くと、人足たちが板を渡して、樽を担ぎ下ろし始めた。
俺は桟橋の付け根の杭に腰を下ろして、それを眺めた。
樽を一人で肩に担いで下りてくる人足もいれば、二人で一つの樽を下げてくる人足もいる。同じ形の樽なのに、運び方が二通りあるわけだ。
二人がかりの組の片方は、白髪を短く刈った年寄りだった。腕だけは、若い者より太い。
樽を桟橋に置いて腰を伸ばしたところで、俺は声をかけた。
「その樽、何人で担ぎました」
「二人だよ。見りゃ分かんだろ」
「干し魚の樽なら、一人で担げるでしょう」
「担げるさ。干し魚ならな」
年寄りの人足は、腰をとんとんと叩きながら、船の方を睨んだ。
「なのに駄賃は、干し魚一樽分しか出ねえんだ。二人で担いで、一人分だぞ」
干し魚の駄賃で、干し魚じゃねえ何かを担がされてるわけだ。
俺は杭から立って、税関の小屋の前へ歩いていった。
小屋の前では、あの船長が、今日も役人に向かって大声を出していた。
「干し魚が二十樽だ。それだけだ」
「干し魚、二十樽ね」
役人がそう繰り返したところで、俺は横から口を挟んだ。
「船長さん。あの二人で担いだ樽を、一つ開けてもらえますか」
船長は振り返ると、俺のコートを上から下まで眺めた。
「干し魚だって言ってんだろ」
「でしたら、開けても干し魚ですよね」
そのとき、坂の方から、港の署の調査官が一人、急ぎ足で下りてきた。
着いた日に「長くはもたねえ」とつぶやいた、髭の濃い男だ。誰かが署まで走ったらしい。
「上席どの、困りますな。港の調べは、港の署がやることになってましてね」
「ええ。ですから、港の署の上席が見てるんですよ」
髭の調査官は、髭をしごきかけた手を止めて、坂の上の署の方を振り返った。
「署長が、何と言うか」
「署長には、俺から言っときます。あなたが叱られることはありませんよ」
俺はそれだけ言って、さっきの年寄りの人足を振り返った。
「すみません、その樽、開けてもらえますか」
「開けていいのかい」
「お願いします」
年寄りの人足は、腰に差していた鉄の棒を抜くと、樽の蓋の縁に差し込んだ。
ずいぶん手際がいい。こじる手つきが、どこか楽しそうでもある。
蓋が外れると、魚の匂いの代わりに、甘い葡萄酒の匂いが桟橋に広がった。
荷を担いでいた人足たちが、一人、また一人と足を止めていく。
小屋の日陰では、カードの役人たちが手札を持ったまま立ち上がっていた。一人の手から、カードが二、三枚、足もとにこぼれ落ちる。
髭の調査官はと見ると、いつの間にか、坂の方へ急ぎ足で戻っていくところだった。
「船長さん。これは、干し魚じゃありませんね」
船長は、樽の中を見ようともしなかった。
坂の上の白い壁を、ちらりと見上げる。
「旦那に言ってくれ」
「旦那の分は、旦那に言います」
俺は、開いた樽の縁に手を置いた。
「これは、あなたの分です」
船長は、もう一度坂の上を見た。
誰も、下りてはこなかった。
桟橋に集まった人足たちの間から、さっきの年寄りが一歩前に出る。
「毎月だよ。この人の船が入るたびに、その樽を担ぐんだ」
「いつからです」
「三年になるな」
年寄りの人足がそう言うと、横にいた若い人足が、こらえきれなくなったように口を挟んだ。
「坂の下の酒場まで、俺たちが運んでるんだ。一回で十樽。駄賃は干し魚の分だけでさ」
「酒場の親父も、干し魚の値で仕入れてるわけじゃねえだろうしな」
年寄りの人足が付け足すと、周りの人足たちから笑い声が上がった。
駄賃をけちられてきた三年分が、まとめて口から出てきたらしい。
船長は、杭の上にどさりと腰を落とした。
「月に十樽、三年なら三百六十樽になります」
俺は、船長の前に立った。
「関税は荷の値の一割です。届けなかった葡萄酒の関税に、隠していた分の加算を乗せまして」
桟橋に、波が杭を叩く音だけが残る。
「〆て、金貨七十二枚」
船長は、膝の上で両手を組んだまま、しばらく顔を上げなかった。
最後にもう一度だけ、坂の上の白い壁を見る。
それから、聞こえないくらいの声で、払う、と言った。
人足たちが荷運びに戻っていく中で、年寄りの人足だけが、鉄の棒を腰に差し直しながら俺の横に来た。
「あんた、俺らの駄賃の話もしてくれんのかい」
「駄賃は、税じゃないんでね」
年寄りは歯の抜けた口で笑うと、外した樽の蓋を小脇に抱えて、船の方へ戻っていった。
*
坂を上る前に、もう一度だけ税関の小屋の前を通った。
奥の小さな窓の向こうで、若い役人は、さっきと同じようにペンを走らせている。こっちには、一度も顔を上げなかった。
俺も、窓の方は見ないで通り過ぎた。
「あの船長、坂の上ばっかり見てましたね」
坂の途中で、ギンが言った。
「見たって、誰も下りてこねえよ」
「どうして分かるんですか」
「七十二枚ぽっちの話で、旦那がわざわざ坂を下りてくるかよ」
「じゃあ、もっと大きな話なら、下りてくるんですか」
「そのときは、下りてこなくても済むようにしてあるんだろうさ」
ギンはそれきり黙って、坂を上った。
昼過ぎ、倉庫の机に戻ると、港の署長が小さな袋を持って待っていた。
腹の上で両手に袋を載せて、にこにこしている。
「いやあ、上席どの。着いてすぐに、ずいぶんな手柄で」
「どうも」
「こちら、歩合でございます。七枚と、銀貨が二枚」
港の署長は、袋を俺の机の上に置いた。
口の紐がゆるんでいて、金貨の縁が少しのぞいている。
「この港の署では、追徴を決めたその日にお渡しすることになっておりましてな」
「確定してから払ってください」
港の署長の手が、袋から離れかけたところで止まった。
「確定、と申しますと」
「船長が文句を言える期限が過ぎてからで、結構です」
「……それは、どういう」
「それまで、署長がお持ちになっててください」
俺は、袋を港の署長の方へ押し戻した。
袋の中で、金貨が鳴った。七枚と銀貨二枚。いい音だ。
港の署長は、袋を持ち上げたまま妙な顔をした。
口は笑った形のままなのに、目が、俺の顔の上を何かを探すように行ったり来たりしている。
「上席どのは、強欲なお方だと伺っておりましたが」
「強欲ですよ」
「でしたら、なおさら」
「ひと月待ったって、七枚は七枚でしょう」
港の署長は、それきり言葉が出てこないようだった。
袋の紐を指に巻きつけたまま、もう一度だけ俺の顔を見る。
いつもは笑っていない目が、今日は、笑っている口と同じくらい困っていた。
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