第21話 白い屋敷
封筒の中には、招待状が一枚と、金貨が十枚入っていた。
宿の朝飯の机にそれを並べると、向かいのギンが、パンを口に運びかけたまま手を止めた。
「十枚もありますよ」
「数えりゃ分かる」
「何のお金なんですか、それ」
「さあな。招待状には、今宵お待ちしております、としか書いてねえ」
金貨が十枚あれば、上席になった俺の給金の、十二週分よりまだ多い。
そう勘定したとたんに、指が勝手に、もう一度金貨を数え始めていた。
いや、何度数えたって十枚だろうが。
台所から出てきた宿のおかみさんが、机の上の金貨を見て、ちょっと足を止めた。
「前のお役人さんも、その封筒を開けた朝は、そうやって並べてたよ」
「そうですか」
「しまっときな、お客さん。この宿で金貨を並べる人は、あんまりいないからね」
おかみさんはそれだけ言うと、空いた皿を下げていった。
「もらうんですか」
「飯を食ってから決める」
「食べる前に決めないんですか」
「先に決めちまったら、飯がまずくなるだろ」
ギンは呆れた顔でパンをかじってから、思い出したように顔を上げた。
「そうだ。税関の役人さんに、今日もう一度会うって言ってましたよね」
「今日はやめとく」
「どうしてですか」
「坂の上から招待状が届いた次の日だぞ」
「それが、何か」
「その日に俺が税関の小屋へ顔を出してみろ。旦那の耳に、誰の名前が一緒に入ると思う」
ギンは、パンを持ったまま黙った。
税関の小屋の端で、唇を動かして樽を数えていた男の顔なら、ギンも見ている。
「……じゃあ、今日は何をするんですか」
「晩まで、腹を空かせとく」
*
日が落ちてから宿を出て、坂を上った。
魚市場の前では、荷を下ろした人足たちが、樽に腰かけて一服している。そのうちの何人かが、俺のコートを目で追ってきた。
「とうとう上るぞ」
「前の役人さんも、ああやって上ってったよな」
「ひと月もたなかったっけな、あの人は」
人足たちは、こっちに聞こえるのもかまわずにしゃべっている。
ギンがそっちを振り返ったが、俺は振り返らなかった。
白い屋敷までは、宿から歩いても四半刻とかからない。門の前では、ゆうべの男が待っていた。
「ようこそお越しくださいました。お車代は、お納めいただけましたでしょうか」
「あの十枚、車代だったんですか」
「港の坂は、きつうございますから」
「歩いてきちまいましたよ」
「では、お帰りの分ということで」
使用人は顔色一つ変えずに、深く頭を下げた。
歩いて四半刻の坂に、金貨十枚か。この港じゃ、ずいぶん高い馬車が走っているらしい。
通されたのは、入り江に面した広い部屋だった。
大きな窓の向こうに、船の灯りが点々と浮かんでいる。長いテーブルの奥の席で、男が一人、静かに立ち上がった。
「遠いところを、ようこそ。上席どのと、記録役さんですね」
屋敷の主は、四十をいくつか越えたくらいの、細身の男だった。
声は低くて、椅子を勧める仕草まで、ゆっくりしている。港じゅうの者に旦那様と呼ばれている男にしては、拍子抜けするくらい静かだ。
料理は、すぐに運ばれてきた。
最初の皿は、殻ごと焼いた大きな海老だった。焼けた殻の上に、胡椒が粒のまま惜しげもなく振ってある。
王都の勘定じゃ、この港に胡椒を積んだ船なんか、一艘も入っていないことになってるはずなんだがな。
俺は殻を割って、遠慮なくかぶりついた。
うまい。
「この港も、昔は桟橋が一本きりでしてね」
主は、窓の外の灯りに目をやりながら言った。
「嵐が来るたびに、浜に積んだ荷が濡れて駄目になった。倉なんて、一つも無かったんです」
「今は、ずいぶん並んでますね」
「二十年かけて建てました。桟橋も、三本延ばしました」
「あなたが、ご自分で」
「私が偉いのではありませんよ。船が来るから倉が要る、それだけのことです」
主は、そこで少し笑った。
「今では、この坂に住む者の半分が、うちの倉と船で食べています」
自慢をする声ではなかった。
明日は天気がいいでしょう、と言うときと、たぶん同じ調子だ。
二皿目は、白身の魚を香草と一緒に蒸したものだった。俺はそれも平らげて、皿に残った汁までパンで拭った。
ギンも、黙々と食べている。
ただ、ギンの目は皿の上ではなく、さっきからずっと、テーブルの向こうの主の手の方へ向いていた。
その手は、白いテーブル掛けの上に揃えて置かれたまま、ほとんど動かない。主は自分の皿の魚に、二口ほど手をつけただけだった。
「旦那様は、ご自分のお皿、召し上がらないんですか」
ギンが、海老の殻を置いて聞いた。
主は、少し驚いたようにギンを見た。
「人が食べているのを見る方が、楽しくなる年でしてね」
「まだ、そんなお年には見えません」
「記録役さんは、正直な方だ。窓口でも、そうだったと伺っていますよ」
ギンは、返事に詰まったように瞬きをした。
窓口で客に何と言って外されたのかまで、この男は知っているらしい。
四十そこそこで年寄りを気取る男に、知らないことはあまり無いのかもしれない。
三皿目は、薄く切った焼き肉に、甘く煮た果物を添えたものだった。
俺がそれにナイフを入れたところで、主はふと、窓の外から目を戻した。
「王都にも、港の話をよく聞いてくださる方がおられましてね」
主は、自分の皿には目もくれずに続けた。
「上席どののお名前も、そちらで何度か伺いました。醸造所の話も」
「へえ。王都の、どなたです」
「港の話がお好きな方ですよ」
主は、それ以上は言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
それから最後の皿が下げられるまで、税の話は一言も出ないまま。いくら欲しいのか、とも聞いてこない。
こっちが言い出すのを、待っているのだ。
だから俺も、言わなかった。
「お口に合いましたか」
「ええ。全部うまかったです」
「それは良かった。次は、上席どののお好きな物を伺っておきましょう」
「海老ですかね」
主は、目を細めて小さく笑った。
俺は椅子から立って、コートの内側に手を入れた。今朝の十枚を、重ねたまま取り出す。
それを、ほとんど手のつけられていない主の皿の横に置いた。
「上席どの、これは」
「ただ飯だって聞いてきたんでね」
主は、皿の横の金貨に目を落とした。
テーブル掛けの上の手は、やっぱり動かない。
「車代までもらっちまうと、飯がただじゃなくなるでしょう」
主はしばらく黙って金貨を眺めてから、今夜初めて、声を立てて笑った。
「なるほど。では次は、もっと良い物をご用意しましょう」
ギンが椅子から立って、主にぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした。海老も、お魚も、おいしかったです」
「それは良かった。またいらしてください、記録役さん」
「はい。ご飯がおいしかったので、また来ます」
主はもう一度、声を立てずに笑った。
使用人が、黙って戸を開けた。
部屋を出るときに一度だけ振り返ると、テーブル掛けの上で、十枚が燭台の灯りを映していた。
十二週分と少しの給金が、あそこに置きっぱなしだ。
*
帰りの坂は、上ってきたときよりずっと暗かった。
屋敷の門が見えなくなるまで、ギンは一言もしゃべらなかった。魚市場の屋根が見えてきたあたりで、ようやく口を開く。
「あの人、晩ご飯のあいだ、一度も手を動かしませんでした」
「見てたな」
「窓口に来る人で、嘘をつく人は、たいてい手が落ち着かないんです」
「あいつは」
「何もしてませんでした。最初から最後まで、テーブルの上に置いたままです」
ギンは自分の手を、開いたり閉じたりしてみせた。
「あんな人、窓口では一人も見たことがありません」
「そうか」
「それに、あの人」
「何だ」
「ヘイジさんが、値段を吊り上げてると思ってますよ」
「思わせとけ」




