第20話 十倍の手紙
港の署長は、帳簿ならいくらでもお見せしますと言った。
「いえ、それは結構です」
俺が断ると、港の署長は一瞬だけ口の形を崩して、すぐに笑い直した。
見せると言われて出てくる帳簿は、見せるために作った帳簿だ。
それより先に、数えたいものがあった。
港の調べなんて、前世でも一度もやったことがない。それでも、船の数を数えれば何が分かるのかくらいは、分かる。
着いて三日目の朝から、俺は桟橋の付け根で、船をつなぐ石の杭に腰を下ろした。
湾に入ってくる船を、一艘ずつ数える。
ついでに、船の腹がどこまで水に沈んでいるかを見ておく。荷を目一杯積んだ船は、深く沈む。船長が何と申告しようが、船の腹だけは嘘をつけない。
「ヘイジさん、どこを見ればいいんですか」
隣の杭に座ったギンが、目を細めて湾を見ていた。
「船の腹に、白い線が引いてあるだろ」
「あります」
「あの線が水の上に出てりゃ、荷は軽い。水の下に沈んでりゃ、目一杯積んでる」
ギンはしばらく、入ってくる船の白い線と水面を見比べていた。
昼過ぎには、俺より先に「あれは沈んでます」と言うようになった。この娘は、覚えるのが早い。
港の連中は、杭に座った俺たちの前を通るたびに、遠巻きにこっちを見ていった。
港の署の調査官の一人は、わざわざ桟橋の端まで回り道をしてきて、にやにや笑った。
「上席どのは、杭の上でお仕事ですか」
「ええ。机が倉庫の隅なもので」
調査官は鼻で笑って、返事も聞かずに引き返していった。
桟橋の先では、きのう干し魚が二十樽だと言っていた船長が、腕を組んでこっちを見ている。
ギンがそれに気づいて、真顔で会釈をした。船長は舌打ちをして、船の中へ引っ込んでいった。
夕方には、港の署長が、わざわざ坂を下りてきた。
「上席どの、杭は冷えましょう。お机も用意してございますのに」
「倉庫は、酒の匂いがきつくてね。数が狂うんですよ」
「それはそれは。では、木箱は早めに引き取らせましょう」
港の署長は、口だけで笑って、来た坂を戻っていった。
次の朝、倉庫の木箱は一つ残らず消えていて、俺の机だけが、がらんとした床の隅に残っていた。
「消えましたね、木箱」
「消えたな」
「中身、何だったんでしょう」
「さあな。少なくとも、干し魚じゃねえだろうよ」
*
杭に座って四日目の昼、腹が減ってきたところに、影が差した。
顔を上げると、袖口をインクで黒く汚した若い男が立っていた。
ギンが、俺の袖を小さく引く。税関の小屋の端で、樽を数えていた男だ。
若い役人は、話しかける前に、桟橋の日陰と、坂の上の白い壁を、順に一度ずつ振り返った。
「数えてるんですか」
「数えてますよ」
「何艘になりました」
俺が四日分の数を言うと、若い役人は少し黙って、湾の口の方を見た。
「……夜の分も、入ってますか」
「入ってます」
若い役人は、驚いたように俺を見た。
「夜も、数えてたんですか」
「宿の窓からね。灯りを消して入ってくる船が、毎晩一艘か二艘いる」
若い役人は、しばらく唇を噛んでいた。
それから、誰にも聞こえないような小さな声で言った。
「去年、この港に入った船は、六百十二艘です」
「……数えたんですか」
「数えました。去年の秋まで、税関で船の数を数えるのが、僕の仕事だったので」
「秋まで、というと」
「秋の終わりから、桟橋に立たせてもらえなくなりました。数えすぎる、と言われて」
若い役人の袖口のインクは、乾いて固まっていた。
新しい汚れは、どこにも付いていない。
若い役人は、自嘲するように笑った。
「王都に届けた去年の船の数は、二百を少し越えるくらいです」
「二百」
「積荷も、ほとんどが干し魚と雑貨ということになってます」
「残りの四百艘は」
「港には、入ってきてます。僕が、この目で数えましたから」
若い役人はそれだけ言うと、急に背筋を伸ばして、桟橋の方へ戻っていった。
坂の上から、港の署の調査官が一人、こっちへ下りてくるのが見えたからだ。
ギンが、若い役人の背中を見送ったまま言った。
「あの人、手が震えてました」
「ああ」
「怖かったんでしょうね」
「怖いのに、来たんだよ」
俺は、杭から腰を上げた。
尻が、すっかり冷えきっていた。
*
その晩、宿の部屋で、俺はひとりで勘定をした。
去年、王都に届けた船は二百艘あまり。本当に入ってきた船は、六百十二艘。
しかも、届けた船の積荷は、ほとんどが干し魚と雑貨になっている。干し魚の関税は安い。酒や絹の関税は高い。
船の腹の沈み方を思い出しながら、一艘あたりの荷を見積もり直していくと、途中で手が止まった。
念のため、もう一度やり直す。
やっぱり、同じところで手が止まった。
この港は、本当なら、今の十倍の関税を納めているはずだ。
「どのくらい、違うんですか」
部屋の戸口で、ギンが聞いた。
隣の部屋から、こっちの灯りを見て来たらしい。
「桁が、一つ違う」
「一つ、って」
「十倍だよ」
ギンは、しばらく黙っていた。
「王都に、知らせるんですか」
「まだだ。桁が違うってだけじゃ、一枚も取れねえ。どの船の、どの荷かまで、人の口から出させねえとな」
俺は、指を折るのをやめて、窓の外を見た。
坂の上の白い屋敷には、まだ灯りが並んでいる。
「……歩合の方も、桁が一つ違ってくるな」
「顔に出てますよ」
「出してるんだよ」
ギンは呆れた顔をしてから、少し声を落とした。
「さっきの役人さん、大丈夫でしょうか。あたしたちと話してるところ、誰かに見られてたかもしれません」
「知らねえよ」
そう言ってから、俺は窓の外の白い壁をもう一度見た。
「……明日、もう一度会っとくか」
*
戸を叩く音がしたのは、そのすぐ後だった。
宿のおかみさんが、階段の下から、困ったような声で俺を呼んでいる。
下りていくと、宿の狭い玄関に、場違いなほど上等な靴を履いた男が立っていた。港の坂道を上り下りしてきたはずなのに、その靴には埃が一つも付いていない。
「上席調査官さまで、いらっしゃいますね」
男は胸に手を当てて頭を下げると、懐から封筒を一通取り出した。
封の蝋には、錨に波を二本重ねた印が押してある。署の倉庫にあった木箱と、同じ印だ。
「旦那様から、明日の晩のお食事のご招待でございます」
「ご招待、ですか」
「港に来られた調査官の方は、皆様一度はお招きしておりますので。お席は二つ、ご用意しております」
男は、階段の上から覗いているギンの方へ、軽く頭を下げた。
ギンが何の役なのかも、どの部屋に泊まっているのかも、男はとうに知っている口ぶりだった。
俺は、すぐには封筒を受け取らなかった。
男は笑ったまま、封筒を差し出す手を下ろさない。
「旦那様は、強欲な方と話が合うとおっしゃっています」
俺は、封筒を受け取った。
「飯は、ただですか」
男は一瞬だけ目を丸くしてから、深く頭を下げた。
「もちろんでございます」
男が出ていくと、外で馬車の扉が閉まる音がして、車輪の音が坂の上へ遠ざかっていった。
宿のおかみさんが、前掛けで手を拭きながら、俺の手の封筒を見ている。蝋の印を見て、それから俺の顔を見る。
何か言うかと思ったが、おかみさんは黙って台所へ引っ込んでいった。
階段の上では、ギンがまだ、こっちを見下ろしていた。
「行くんですか」
「ただ飯は、断らねえ主義だ」
ギンは、何か言いかけて、やめた。
俺は封筒を手のひらに載せて、一度だけ軽く揺すった。
招待状が一枚入っているだけにしては、重い。
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