第19話 港の署
四日目の昼過ぎ、馬車が峠を越えたとたんに、窓の外が一面、青くなった。
あたしは、思わず窓から身を乗り出した。
「ヘイジさん、あれ、全部水ですか」
「海だよ。見りゃ分かるだろ」
「見ても分からないから聞いてるんです」
空と同じくらい広い水が、ずっと向こうまで続いている。
その手前の入り江に、白い帆の船が何十艘も浮かんでいた。坂の多い街が、入り江をぐるりと囲んでいる。
港だ。
坂の一番上に、ひときわ大きな白い壁の屋敷が建っていた。
「あれが、港の旦那の屋敷だろうな」
ヘイジさんは、窓の外を見たまま言った。
その口の端が、少しだけ上がっている。
「何がおかしいんですか」
「おかしくねえよ。船の数を数えてただけだ」
「数えて、どうするんですか」
「あれだけ船が入ってくる港なら、取れる額もでかい」
この人は、死ぬかもしれない土地に向かっている馬車の中で、取れる額を数えている。
あたしは呆れて、また海の方を見た。
馬車が港の通りに入ると、潮の匂いと、魚の匂いがいっぺんに押し寄せてきた。
頭の上では、白い鳥がぎゃあぎゃあ鳴きながら飛び回っている。魚市場の前を通ると、威勢のいい売り声があちこちから飛んできた。
馬車を降りたとたん、荷を担いだ人足が二人、ヘイジさんの茶色のコートを見て、ひそひそと顔を寄せた。
「あれか。内陸の街で、一番強欲だったっていう調査官は」
「着く前から、港じゅうの噂だぜ」
人足たちは、こっちに聞こえるのもかまわずにそう言って、荷を担ぎ直していった。
「ヘイジさん、着く前から噂になってますよ」
「噂を回したい奴がいるんだろ」
*
港の署は、坂の上の、あの白い屋敷の隣にあった。
門の柱には、錨に波を二本重ねた印が彫ってある。屋敷の門と、同じ印だ。
出迎えたのは、腹の丸い、五十がらみの男だった。港の署長だという。
「いやあ、ようこそ、ようこそ。上席調査官どのに、記録役どの。遠いところを、ご苦労さまでした」
港の署長は、両手であたしたちの手を握った。
顔は笑っているのに、目だけが笑っていない。窓口で見てきた客の中にも、こういう目の人がたまにいた。たいてい、申告に嘘を書いてくる人だった。
二階の部屋には、調査官が四人いる。
四人とも、あたしたちが入っていっても、誰も顔を上げなかった。机の上の紙を、じっと見ているふりをしている。
一番奥の、髭の濃い調査官だけが、あたしたちが部屋を出るときに、ぼそりとつぶやいた。
「……長くは、もたねえよ」
誰に向かって言ったのかは、分からなかった。
「上席どのの机は、こちらに用意してございます」
港の署長に案内されたのは、二階ではなく、一階の奥の倉庫だった。
薄暗い倉庫の隅に、机が一つぽつんと置いてある。
その周りには、木箱が天井近くまで積み上げられていた。どの木箱にも、門と同じ錨と波の印が焼きつけてある。
倉庫の中は、ひどく酒臭かった。
「あいにく、部屋が足りませんでな。しばらくは、こちらでご辛抱を」
あたしは、港の署長に、この木箱は何なのかを聞こうとした。
口を開きかけたところで、ヘイジさんが机を両手で揺すった。
「これでがたつかねえ。上等です」
港の署長は、にこにこしたまま、それではごゆっくり、と頭を下げて出ていった。
「ヘイジさん、こんなの、ひどいですよ」
「ひどいな」
「なんで怒らないんですか」
「怒ったって、部屋は増えねえよ」
ヘイジさんは、木箱の一つを、指の節で軽く叩いた。
中で、瓶どうしがかちんと鳴る音がした。
*
次の日の朝、港の署長が、税関を案内してくれることになった。
坂を下りるあいだ、港の署長はずっとしゃべっていた。
この港は王国で一番船の多い港で、それもこれも港の旦那様が倉を建て、桟橋を延ばし、船乗りの宿を整えてくださったおかげだという。
旦那様、と言うたびに、すれ違う人足たちが、港の署長ではなく坂の上の白い壁の方へ、ちょっと頭を下げた。
税関は、桟橋の付け根にある、木の小屋だった。
小屋の前では、ちょうど船が一艘、荷を降ろしているところだった。
船長らしい男が、小屋の役人に向かって大声で言う。
「干し魚が二十樽だ。それだけだ」
「干し魚、二十樽ね」
役人は、聞いたままを繰り返して、それでおしまいだった。
小屋の中では、ほかの役人たちが、日陰でカードを配っている。誰も、桟橋の方を見ていない。
あたしは、桟橋の方を見た。
人足たちが、船から樽を担いで降ろしてくる。一つ、二つ、三つ。
二十を数えたところで、まだ半分も降りていなかった。樽のあとからは、木箱まで降りてくる。木箱の隙間から、藁に包んだ瓶の首がのぞいていた。
「……署長さん」
あたしは、港の署長の袖を引いた。
「あの船、干し魚が二十樽って言いましたよね。でも、もう三十樽は降りてます。それに、木箱も」
「ああ、ああ」
港の署長は、にこにこしたまま、手をひらひらと振った。
「ここは潮の具合で、荷が増えたり減ったりするんですよ。港ではね、よくあることです」
「潮で、樽が増えるんですか」
「増えますとも」
「じゃあ、あたし、見てみたいです。潮で樽が増えるところ」
港の署長の笑顔が、一瞬だけ止まった。
桟橋の上で、船長があたしをじろりとにらんでいる。日に焼けた、岩みたいな顔の男だ。
それでも、あたしは目をそらさなかった。窓口では、もっと怖い顔の客を何人も相手にしてきた。
隣で、ヘイジさんが小さく咳払いをした。たぶん、笑いをこらえたんだと思う。
そのとき、あたしは、小屋の一番端に、一人だけ桟橋の方を見ている役人がいるのに気づいた。
あたしと同じくらいの年の、若い男だ。袖口が、インクで黒く汚れている。
その人は、降ろされていく樽を目で追いながら、唇を小さく動かしていた。
数えている。
ヘイジさんが勘定をするときと、同じ口の動き方だった。
あたしと目が合うと、若い役人は、ぱっと目をそらした。
それから、何もなかったような顔で、小屋の奥へ引っ込んでいった。
*
港の宿は、魚市場の裏にある、古い宿だった。
夕飯に出てきたのは、頭から骨ごと食べられる、小さな焼き魚だった。ヘイジさんはそれを、四皿もおかわりした。
「港の飯は、うめえな」
「死ぬかもしれない土地なのに、よく食べますね」
「死ぬかもしれねえから、食えるうちに食っとくんだよ」
ヘイジさんは、五皿目を頼もうとして、宿のおかみさんに笑われていた。
おかみさんは、空いた皿を下げながら、声を落とした。
「お客さん、署のお役人さんなんでしょう」
「そうですよ」
「余計なことかもしれないけどね。この港じゃ、旦那様に逆らった人は、長くいられないよ」
「長く、っていうのは」
「その前のお役人さんはね、旦那様のお屋敷に夕飯に呼ばれてから、急に何も言わなくなったのさ」
「何も、ですか」
「そう。毎晩、いい酒を飲むようになって、ひと月もしないうちに王都へ帰っちまった」
おかみさんは、空いた皿をもう一枚重ねて抱えると、そそくさと台所へ引っ込んでいった。
ヘイジさんは、五皿目を頼むのをやめなかった。
夜、二階の部屋の窓を開けると、湾の上に月が出ていた。
入り江に浮かぶ船には、どれも小さな灯りがともっている。
その中を、一艘だけ、灯りを消した船が、すうっと入ってきた。
灯りの無い船は、桟橋の方へは向かわなかった。坂の上の白い屋敷の、真下にある岩場の陰へ、ゆっくりと消えていった。
いつの間にか、隣の部屋の窓も開いている。
ヘイジさんが窓枠に頬杖をついて、同じ船を見ている。
「見ましたか、今の」
「見たよ」
「あれ、税関に寄らないんですか」
「寄らねえだろうな」
ヘイジさんはそれだけ言うと、指を一本折った。
まるで、今夜一艘目、と数えたみたいに。




