第18話 栄転
春になった。
中央通りの石畳から雪が消えて、春の市の屋台が、また西門の通りに並び始めた。
その朝、窓口係の爺さんが、二階まで重たそうな袋を抱えて上がってきた。
「ヘイジさん、醸造所の歩合です。文句を言いに来る期限が、昨日で過ぎましたので」
爺さんが机に置いた袋は、どすんと鈍い音を立てた。
百二十枚。
卸問屋の倍だ。冬のあいだ、ずっとお預けになっていた分だ。この袋のことを、冬のあいだに何度考えたか分からない。
「……数えないんですか」
隣の机から、ギンが聞いた。
「あとで数える」
「いつもは、すぐ数えるのに」
「人前で数えると、また何か言われるだろ」
ギンは、何も言わなかった。
その代わり、俺が袋の口をほんの少しだけ開けて、中を覗いたのを、しっかり見ていた。
夕方、部屋から人がいなくなるのを待って、俺は袋の中身を机に空けた。
十枚ずつ積んでいくと、山が十二できる。
崩して、もう一度積む。何度数えても百二十枚だ。それでも、もう一度だけ崩して積み直したところで、戸口から声がした。
「やっぱり数えてる」
忘れ物を取りに戻ってきたギンが、戸口に立っていた。
「……今、来たのか」
「三回目の積み直しから、見てました」
俺は、黙って金貨を袋に戻した。
ギンは自分の机から手袋を取ると、何も言わずに帰っていった。階段を下りていく足音が、なんだか弾んでいる。
署の数字も、春の締めで去年を越えた。
でっち上げの追徴は、もうほとんど出てこない。窓口の端の机にも、冬の終わりからは誰も来なくなった。
先輩は、あの夜から、ほとんど口をきかない。
署長も、俺と目を合わせなくなった。
それでも、署の中は、前より静かで、前よりまともになっていた。
*
坂の途中の小間物屋のおかみさんが、字の読めない近所の年寄りの申告を手伝いに来たついでに、二階まで上がってきた。
「東門の食堂、知ってるかい。店を広げるんだってさ」
「へえ」
「隣の空き家を借りて、席を倍にするんだって。ご主人も奥さんも、張り切ってるよ」
おかみさんは、それだけ言うと、さっさと帰っていった。
何のためにわざわざ二階まで上がってきたのかは、言わなかった。
「おかみさん、それだけ言いに来たんですか」
「糸を買うついでだろ」
「糸屋さんは、坂の下ですよ。署とは反対です」
ギンは、真顔でそう言った。
*
王都の使いが来たのは、その日の昼過ぎだった。
細い男は、二階の部屋に調査官を全員集めさせると、懐から一枚の紙を出して、読み上げた。
「辞令を申し伝えます。この街の署の調査官、ヘイジ」
部屋の全員が、俺を見た。
「右の者を、上席調査官に任じ、港の署へ移すものとする」
使いは、そこでいったん言葉を切った。
それから、にこやかに続ける。
「腐敗した港の税を正す、大役である。……おめでとうございます、ヘイジさん。栄転ですよ」
誰も、何も言わなかった。
部屋の中が、しんと静まり返っている。
港の話なら、この署の者なら誰でも知っている。
港の署へ移された調査官は、半年もたたずに辞めるか、それとも海に浮かぶか、どっちかだ。港を仕切っている旦那に、逆らった者から順にな。
栄転という言葉が、こんなに寒々しく聞こえたのは初めてだった。
窓際にいた年かさの調査官が、俺の横に来て、小声で言った。
「前に港へ行った調査官はな、俺の同期だった」
「そうでしたか」
「半年で、桟橋から落ちた。酔って足を滑らせたってことになってる」
年かさの調査官は、俺の返事を待たずに、自分の机へ戻っていった。その背中は、いつもより少し丸く見えた。
部屋の真ん中の机で、先輩が、喉の奥でくつくつと笑い出した。
「おめでとう、ヘイジ。上席だってよ」
「どうも」
「港の旦那によろしくな。海の水は、まだ冷てえぞ」
署長は、窓の外を見ていた。
こっちには、一度も目を向けないまま。
使いは辞令を俺の机に置くと、署長に軽く会釈して、部屋を出ていった。
階段の音は、すぐに遠くなった。
*
夕方、俺は署長室に呼ばれた。
署長は、机の上の灯りを見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
「……港は、取れない土地だぞ」
俺が何も返さずにいると、署長はそのまま続けた。
「港の署の連中は、みんな港の旦那に飼われてる。調査官が一人で行ったところで、銅貨一枚も取れやしない」
「取れない土地ほど、取れる額はでかいもんですよ」
署長が、顔を上げた。
俺の顔を見て、何か言いかけて、やめる。
ほっとしたような、ひどく寒いような、どっちともつかない顔だった。
「……行っていい」
署長は、また灯りの方に目を戻した。
*
その日の夕方、ギンが俺の机の前に立った。
手に、さっき俺が受け取ったのと同じような紙を一枚持っている。
「あたしの辞令です」
「お前の?」
「上席調査官の記録役として、港の署へ同行させる、と書いてあります」
俺は、ギンの顔を見た。
ギンは、いつもと同じ真顔だった。
「いつ、これを」
「さっき、王都の使いの人から渡されました。帰り際に、窓口で」
「署長が、付けたのか」
「さあ」
「お前が、願い出たのか」
「さあ」
ギンは、どっちとも言わなかった。
俺は、辞令をギンの手に押し返した。
「港は、死ぬかもしれねえぞ」
「知ってます」
「知ってるなら、断れ。お前はまだ若いんだ。窓口に戻れば」
「ヘイジさん」
ギンが、俺の言葉をさえぎった。
「記録役がいないと、二人一組になりませんよ」
俺は、言い返せなかった。
「……人手が足りねえからな。勝手にしろ」
「はい。勝手にします」
ギンは、少しだけ笑った。
「母さんには、もう言ってあります。港の魚は安くておいしいらしいから、干したのを送ってくれって」
「……お前の母さんも、肝が太いな」
「あたしの母さんですから」
*
出立の朝、俺の荷物は、木箱一つと鞄一つだけだった。
窓際の机を片づけていると、先輩がやってきた。
「その机、俺がもらうぞ」
「どうぞ」
「窓際は明るくていいからな」
「明るいですよ。自分の数字の間違いが、よく見えます」
先輩は鼻を鳴らして、木箱を一度だけ蹴った。
それから、黙って自分の机に戻っていった。
階段を下りると、窓口の前で、先輩と組んでいた若い調査官が待っていた。
「ヘイジさん。港でも、ちゃんと二人で回ってくださいね」
「お前に言われるとはな」
「僕は、先輩と二人で回ってます。先輩、あれから一度も推計で取ってません」
若い調査官は、真面目な顔でそう言った。
俺は、その肩を一つ叩いて、署を出た。
窓口係の爺さんが、窓口の中から手だけ振っていた。
「上席さん。港の窓口は、潮の匂いがするそうですよ」
「そうかい」
「お達者で」
東門の前から、港へ向かう乗合馬車が出る。
ギンは馬車に乗り込むと、窓の外をきょろきょろ見回していた。
「あたし、この街から出るの、初めてです」
「四日もかかるぞ。尻が痛くなる」
「平気です。窓口の椅子より、固くなければ」
馬車は東門へ向かう道を、ゆっくり進んだ。途中で、あの食堂の角を通る。
開いた窓から、肉の焼ける脂の匂いが流れ込んできた。
角の隣の空き家では、大工が二人、壁に新しい窓をはめ込んでいるところだった。
俺は、通りと反対側の窓から、畑の方を見ていた。
「ヘイジさん」
向かいに座ったギンが、小声で言った。
「ご主人が、店の前に出てますよ」
「仕込みの途中で、薪でも取りに出たんだろ」
「手は、振ってません」
「……そういう店だ」
馬車は、食堂の角を曲がった。
脂の匂いが、だんだん遠ざかっていく。
俺は最後まで、通りの方の窓を見なかった。




