第17話 上納
冬の終わりの夕方だった。
二階の部屋には、まだ調査官が何人も残っていた。
歩合が遅れるようになってから、みんな前より帰りが遅い。少しでも多く回っておかないと、春が来るまで懐がもたないからだ。
俺の机の前には、先輩と組まされている若い調査官が立っていた。
「あの、ヘイジさん。少し、いいですか」
「何だ」
「先輩に、金を貸してくれと言われました」
若い調査官は、困り果てた顔で声を落とした。
「金貨で三枚です。春の歩合が入ったら、倍にして返すって」
「貸したのか」
「いえ。僕も、春まで歩合が入らないので。そう言ったら、先輩、黙って出ていってしまって」
「どこへ行った」
「たぶん、酒場だと思います。昼からずっと」
若い調査官は、先輩の空いた机をちらっと見てから、申し訳なさそうに頭を下げて、自分の机に戻っていった。
ギンが、俺の顔を見る。
俺は、何も言わなかった。
階段の下から、何かが倒れる音がした。
続いて、窓口係の爺さんの悲鳴。それから、重たい足音が、一段ずつ階段を上がってくる。
「ヘイジ!」
戸口に現れたのは、先輩だった。
顔は真っ赤で、目は据わっている。コートの前は開けっぱなしで、指輪の無い手で、戸の枠にしがみついていた。
部屋じゅうの調査官が、手を止めた。
「てめえのせいだ。全部、てめえのせいだ」
先輩は、ふらつく足で俺の机の前まで来た。
酒の匂いが、むっと鼻をつく。
「先輩、帰って寝た方がいいですよ」
「うるせえ」
「どこかで、だいぶ飲んできたみたいですね」
「飲まずにいられるか。酒場のつけは利かねえ、春まで歩合は入らねえ」
先輩の声が、裏返った。
「俺は、この冬をどうやって越せばいいんだよ」
先輩は、両手で俺の机を叩いた。
机の上の灯りが、がたんと揺れる。ギンが、とっさに灯りを押さえた。
「お前の決まりのせいで、俺は干上がった。小魚は取れねえ、取っても歩合はふた月先だ」
「でっち上げなきゃ、ふた月待っても困らないでしょう」
「でっち上げだと?」
先輩の目が、ぎらりと光った。
「俺がでっち上げた金が、どこへ行ってたか、知ってるのか」
部屋が、しんと静まった。
窓際の机にいた年かさの調査官が、腰を浮かせた。
「おい、やめとけ。酔ってるぞ」
「黙ってろ。お前には関係ねえ」
先輩は、部屋の調査官たちをぐるりと見回した。それから、わざと大きな声で言った。
「俺はな、歩合の二割を、毎回署長に渡してたんだよ」
誰かが、息をのむ音がした。
「署の運営費だってな。署長に言われて、袋に入れて、手渡しでだ。五年間、一度も欠かさずにだぞ」
誰も、何も言わなかった。
「その代わりに、署長は、俺のやり方に目をつぶってくれた。叩きやすい店も、こっそり回してくれた」
「先輩」
「俺だってな、入ったばかりの頃は、一軒ずつ真面目に回ってたんだ」
先輩の声が、急に小さくなった。
「でもな、真面目に回ってたら、二割を渡したあとに、いくらも残らねえんだよ」
「だから、ですか」
「だから、取れそうな店から取った。取れるだけ取ったんだ」
先輩は、笑い出した。
笑いながら、目から涙をこぼしている。
「それだけじゃねえ。署長は、俺から受け取った分を、さらに上へ流してたんだ。王都にな」
部屋の空気が、凍りついた。
調査官たちは誰も動かない。窓口係の爺さんが、階段の途中で口を押さえている。
俺は、先輩の顔を見た。
「裏は、あるんですか」
「裏?」
「先輩が渡したところを、見てた人はいますか。渡した日や、額が分かるものは」
先輩は、ぽかんとした顔をした。
それから、また笑い出す。
「あるわけねえだろ。全部、手渡しだ。署長室で、二人きりでな。誰も見ちゃいねえよ」
「じゃあ、俺は動けません」
先輩の笑いが、止まった。
部屋の調査官たちが、顔を見合わせている。
「……何だと」
「口で聞いた話だけじゃ、人から金は取れない。この署の決まりですよ」
先輩は、俺の顔を見たまま、指輪の手を握りしめていた。
何か言い返そうとして、一度口を閉じる。
それから、力が抜けたように、俺の机の端に手をついた。
*
「あたしは、聞きました」
隣で、ギンが言った。
ギンは椅子に座ったまま、まっすぐ先輩を見ていた。
「ギン」
「ヘイジさんが動かないのは、分かってます。動くかどうかは、ヘイジさんが決めればいいです」
ギンは、俺の方は見なかった。
「でも、あたしは今のを、ちゃんと聞きました。だから、忘れません」
先輩が、ぎょろりとギンを見た。
「窓口の娘が、何を偉そうに」
「偉そうじゃありません。聞いたことを、聞いたと言ってるだけです」
ギンは、先輩から目をそらさなかった。
先輩の方が、先に目をそらした。
膝の上で握りしめたギンの手が、少しだけ震えているのが見えた。
俺は、ギンに何も言い返せなかった。
俺が動かないのは、俺の決まりだ。
ギンが忘れないのは、ギンの決まりだ。
どっちが正しいのかは、俺にもよく分からなかった。
そのとき、部屋の奥で、戸のきしむ音がした。
振り返ると、署長室の戸が開いていた。
戸口に、署長が立っている。
いつからそこにいたのかは分からない。けれど、その顔からは、灯りの下でも分かるくらい血の気が失せていた。
署長と、目が合う。
俺は、何も言わなかった。
署長も、何も言わなかった。
しばらくして、署長の手が戸を閉める。
先輩も、閉まった戸の方を見ていた。
赤かった顔から、すうっと色が引いていく。今になって、自分が何を叫んだのか分かったらしい。
「……署長」
先輩はそれだけつぶやくと、近くの椅子に、崩れるように座り込んだ。
*
先輩は、若い調査官に肩を貸されて、階段を下りていった。
階段の手前で、一度だけ振り返る。
「ヘイジ。お前は、いつまでそうやってられるかな」
それきり、先輩は何も言わなかった。
ほかの調査官たちも、一人、また一人と、黙って帰っていく。誰も、俺とも、署長室の方とも、目を合わせようとしなかった。
ギンも帰ったあと、俺はしばらく窓際の机に残っていた。
署長室の戸の下からは、ずっと灯りが漏れている。
中で、署長が何をしているのかは分からない。机に向かっているのか、ただ座っているのか。
八年間、この署の数字を守ってきた男だ。数字を守るために、何をしてきたのか。
俺は、その先を考えるのをやめて、窓の外を見た。
腹が鳴った。そういえば、昼から何も食っていない。
帰って何か食えばいいのに、なぜか椅子から立つ気にならなかった。
夜になって、署の前の通りに、小さなランタンの灯りが一つ近づいてきた。
雪解けの水たまりを避けながら、灯りはゆっくりと署の方へ揺れてくる。
ランタンを持っているのは、細い男だった。秋に一度来た、王都の使いだ。
使いは窓口の脇の戸から入ってきて、階段を上がってきた。
俺の机の前を通るとき、使いは足を止めて、薄く笑った。
「おや、遅くまでご精が出ますね。噂のヘイジさんでしょう」
「どうも」
「冬のうちに、こちらの数字は戻ったそうで。あなたのおかげだと、王都でも聞いておりますよ」
使いはそれだけ言うと、軽く会釈して、署長室へ入っていった。
署長室の戸の下から、灯りが漏れている。
中で何を話しているのかは、聞こえない。
半刻ほどして、使いが出てくる。
階段を下りる前に、使いは一度だけ足を止めて、部屋の中を見回した。その目が、俺の机と、その隣の、ギンの空っぽの机の上で、少しだけ止まる。
それから使いは、ランタンを持って、夜の通りへ帰っていった。
その灯りが角を曲がって見えなくなるまで、俺は窓の外を見ていた。
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