第15話 異議の窓口
初雪が降ってから、二十日がたった。
署の一階の、窓口のいちばん端に、机が一つ増えた。机の前には、あたしが書いた札が下がっている。追徴に文句がある人は、こちらへ。
机の横には、炭を入れた小さな火鉢を置いた。けれど、戸が開くたびに雪混じりの風が吹き込んでくるので、あまり役に立っていない。
机に座っているのは、ヘイジさんだ。
ヘイジさんが署長に言って、この机を作らせた。追徴に納得がいかない人が、文句を言いに行く場所が、この署にはどこにも無かったからだ。
「お前が座るなら、好きにしろ」
署長は、それだけ言ったらしい。
ヘイジさんは毎朝、二階から下りてきて、この机に座る。茶色のコートを着たまま、火鉢に手をかざして、客が来るのを待っている。
「誰も来なかったら、どうするんですか」
机を置いた初日に、あたしは聞いた。
「来るよ」
「どうして分かるんですか」
「先輩が、五年もこの署にいるからだ」
ヘイジさんの言ったとおりだった。
机を置いた次の日から、窓口の前を通る人が、札を見て足を止めるようになった。
足を止めて、しばらく札を眺めて、また歩いていく。三日目に、そのうちの一人が、ようやく戸を開けて入ってきた。
*
最初に来たのは、南の通りの蝋燭屋の親父だった。
親父は戸口で肩の雪を払いながら、本当に話を聞いてくれるのかと、三度も念を押した。ヘイジさんは三度とも、聞きますよ、と答えた。
三年前に、先輩から十五枚取られたという。窓に灯りが多い家だから儲かっているはずだ、と言われたそうだ。
「灯りが多いのは、うちが蝋燭屋だからだよ。自分の家で蝋燭を灯さなくて、どこで灯すんだ」
「そりゃそうですね」
ヘイジさんは真面目な顔でうなずくと、その日のうちに、蝋燭屋が蜜蝋を仕入れている養蜂家を訪ねた。
養蜂家は、蝋燭屋が毎年どれだけ蜜蝋を買っていくかを、すらすらと話してくれた。
十五枚が、これで三枚。
次の日には、桶屋の親方が来た。その次の日には、西門の市で野菜を売っている女の人が来た。
仕立て屋の後家さんは、亭主が死んだ年に二十枚取られたと言って、窓口の前で泣き出した。
ヘイジさんは、泣いている人の前では、どうしていいか分からないらしい。火鉢の上で手をこすり合わせたまま、困った顔で固まっている。
あたしがハンカチを差し出すと、後家さんは鼻をかんでから、また泣いた。
「……ハンカチ、洗って返してくださいね」
「お前、こんなときに」
「あれ、母さんにもらったやつなんです」
後家さんが、泣きながら少しだけ笑った。
古着売りのお婆さんは、何を取られたのかも覚えていなくて、ただ「歩合取りに金を持っていかれた」とだけ言った。
ヘイジさんは一人ずつ話を聞いて、一人ずつ、その人の取引先を回った。
あたしも、そのたびについていく。
雪の中を、糸屋、肉屋、粉屋、養蜂家、古着の問屋と歩いて回る。夕方に署へ戻ると、指先の感覚が無くなっていた。
「ヘイジさん、毎日こんなに回って、疲れないんですか」
「疲れるよ」
「じゃあ、どうして」
「先輩の数字が、気に食わねえんだよ」
*
十日目の朝、窓口の前に、見覚えのある人が並んでいた。
坂の途中の、小間物屋のおかみさんだ。
おかみさんの分は、夏にもう済んでいる。なのに、何をしに来たんだろう。
「おかみさん、今日はどうしたんですか」
「あたしの分じゃないよ」
おかみさんは、後ろに立っている小さなお爺さんの背中を、そっと押した。
腰の曲がった、白い髭のお爺さんだった。手に、くしゃくしゃになった帽子を握っている。
「同じ坂で、靴の修理をしてる爺さんなんだけどね。あたしと同じで、字が読めないんだよ」
「はあ」
「去年、指輪の調査官に十枚取られたって言うからさ」
「それで、連れてきてくれたんですか」
「窓口に行けば茶色のコートの人が話を聞いてくれるって教えたら、一人じゃ怖いって言うもんだから」
おかみさんは、お爺さんの肩を軽く叩いた。
「ほら、言いな。このお兄さんは、怖くないよ」
お爺さんはおずおずと、帽子を握ったまま話し始めた。
ヘイジさんは、火鉢に手をかざしたまま、最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、ヘイジさんは立ち上がって、コートの襟を立てた。
「靴の革は、どこから買ってます」
「坂の上の、革屋から……いや、今は馬具屋か。あそこが店を買ったから」
ヘイジさんの顔が、一瞬だけ止まった。
「……馬具屋ですね。行ってきます」
ヘイジさんは、それ以上何も言わずに、雪の中へ出ていった。
あたしは、慌ててその後を追いかけた。
坂の上の店は、看板が馬具屋のものに変わっていた。
店の奥には、使い込まれた作業台が一つ、前と同じ場所に置いてある。馬具屋の親父は、その上に型紙を広げていた。
「靴直しの爺さんかい。ああ、うちで革の切れ端を分けてやってるよ。ほんのちょっとだけどな」
「どのくらいですか」
「月に、このくらいの袋で一つだ」
親父は、両手で小さな袋の形を作ってみせた。
ヘイジさんは、作業台の方を一度だけ見た。それから、親父に頭を下げて、店を出た。
靴直しのお爺さんの十枚が、これで一枚。
*
窓口の机ができてから、ひと月で、先輩の古い追徴が十二件、額を減らされた。
減った分は、払いすぎた人たちに返される。
それと一緒に、先輩が受け取っていた歩合も、減った分だけ署に返さなければならない。
ある朝、先輩が窓口の前に立った。
いつもはうるさいくらいに鳴らしている指輪の手が、妙に静かだった。
「……足りねえ分は、春の歩合から差し引いてくれ」
先輩は、窓口係のお爺さんに、小さな袋を一つ置いた。
指から、大きな指輪が消えていた。
指輪のあった所だけ、肌が白く残っている。
先輩は袋を置いて振り返ると、机に座っているヘイジさんの前で、足を止めた。
「満足か」
ヘイジさんは、火鉢に手をかざしたまま答えなかった。
先輩はしばらくヘイジさんをにらんでいたが、やがて黙って二階へ上がっていった。
次の日、中央通りの宝石商の店先に、見覚えのある指輪が並んでいた。
先輩は、あれ以来、窓口の机の前を通るとき、ヘイジさんの方を一度も見ない。
ヘイジさんも、先輩の方を見なかった。
署長は、ひと月で減った額の話を聞くと、二階から下りてきて窓口の机の前に立った。
「ヘイジ。署の数字が、また減ったぞ」
「醸造所の千二百枚で、お釣りが来るでしょう」
「……来る。来るが、わしの寿命が縮む」
署長はぶつぶつ言いながら、また二階へ戻っていった。
*
年の暮れの夕方、窓口には、もう誰も並んでいなかった。
火鉢の炭も、そろそろ灰になりかけている。
ヘイジさんは机に頬杖をついて、ぼんやりと宙を見ていた。唇が、小さく動いている。
「ヘイジさん、何してるんですか」
「勘定だよ」
「何の勘定ですか」
「このひと月で、減らした額の合計だ」
ヘイジさんは指を折りながら、ぶつぶつと数を口にした。
減らした額なんて、数えたって、ヘイジさんの歩合には一枚もならない。むしろ、署の数字が減っただけだ。
なのに、ヘイジさんの口の端は、取った額を数えているときと、同じように上がっていた。
「……減らした額でも、数えるんですか」
「数えるよ」
「楽しいんですか、それ」
「楽しいかどうかは知らねえよ。数が合うのが好きなだけだ」
ヘイジさんは、最後の指を折った。
それから火鉢の灰を火箸でならして、ようやく立ち上がった。
「帰るぞ」
「はい」
戸を開けると、外はまた雪が降り始めていた。
あたしはヘイジさんの半歩後ろについて、白くなっていく中央通りを歩いた。
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