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第14話 醸造長

 まだ星の残っている道を、醸造所まで歩いた。

 そのあいだに、ギンは三回あくびを噛み殺して、四回目で諦めた。


「こんな時間に行っていいんですか」

「調べに行くんじゃねえよ。話を聞きに行くだけだ。主が起きてくる前にな」

「眠いです」

「眠いなら、帰って寝てていいぞ」

「行きます。ヘイジさん一人だと、相手に何を言ったか、あとで誰にも分からないので」


 こういうときに限って、こいつの言うことは筋が通っている。


 醸造所の朝は早い。

 麦の芽の世話は夜明け前から始まって、それをやるのは醸造長だと、樽職人が言っていた。主が寝ているあいだなら、あの年寄りと話ができる。

 裏門をくぐると、湿った麦の匂いがした。仕込み蔵の煙突からは、もう煙が上がっている。

 蔵の奥には、石の床を低く掘り下げた部屋があった。水に浸けた麦をそこに広げて、芽を出させるらしい。

 石段を下りていくと、腰の曲がった醸造長が、床一面の麦を木のシャベルで返していた。


「おはようございます。署の調査官です」


 醸造長は返事をしなかった。

 シャベルを床に差し込んでは、ゆっくりと麦を裏返していく。麦は足首が埋まるほどの厚さで、どこを返しても、薄い湯気が立った。


「麦が腐った話を、聞きに来ました。主は、毎年仕入れの半分を倉の湿気で腐らせてる、と言ってます」

「主に聞け」

「主には聞きました。今のが、その答えです」


 醸造長は、また黙った。

 床の端まで返し終えると、しゃがんで麦を一粒つまみ、前歯で割って中を確かめる。それから、そっと床に戻した。


「あんた、麦の何を知ってる」

「何も知りません。数えるだけです」

「数えるだけで、人の倉の麦が腐ったかどうか分かるのか」

「分からないから、聞きに来たんですよ」


 醸造長は、初めてシャベルの手を止めて俺を見た。

 それから鼻を一つ鳴らして、また麦を返し始める。

 ギンが一歩前に出た。


「醸造長さんは、腐った麦をご自分で見たことがありますか」


 シャベルが、一度だけ止まった。

 止まって、また動き出す。


「主に聞け、と言ったろう」


 醸造長は、主に聞けとしか言わない。けれど、麦が腐ったとは、一度も言っていない。

 主の言い分を崩せるとしたら、この地下で毎朝麦を返している年寄りの口だけだ。

 そのとき、石段の上で足音がした。

 寝間着の上にコートを引っかけた主が、髪も撫でつけないまま下りてくる。誰かが、調査官が来たと知らせに走ったらしい。


「朝っぱらから、人の蔵で何を嗅ぎ回ってるんだ」


 主は俺より先に、醸造長の方を見た。


「醸造長、こいつらに何か言ったか」

「何も」


 醸造長は、麦から目を上げずに答えた。

 主はほっとしたように肩を下ろすと、俺の前に立って、いつもの笑い顔を作った。


「何度来ても同じだと言ったろう。あの倉は湿気るんだ」

「高台にあるのに、ですか」

「高台だろうが、湿気るもんは湿気る」

「そういうものですか」

「うちの者の手入れが行き届かなくてな、麦は毎年半分がとこ腐らせてるんだよ」


 ギンが、主の言葉をそのまま、はっきりした声で繰り返した。


「うちの者の手入れが行き届かず、麦を毎年半分、腐らせている」

「ああ、そうだ」

「間違いありませんか」

「間違いねえよ。何度でも言ってやる」


 主が言い終わらないうちに、背中で、木のシャベルが石の床に落ちる音がした。

 振り返ると、醸造長がまっすぐに立っていた。

 腰の曲がった年寄りだと思っていたのに、立ち上がると、主より頭半分も背が高い。


「取り消せ」


 醸造長は、主に向かって言った。


「醸造長、いいから上に行っててくれ」

「取り消せと言ったんだ」


 主が慌てて手を振ったが、醸造長はそっちを見なかった。

 足もとの麦を、一つかみすくい上げる。


「俺は四十年、麦を一粒も腐らせたことはねえ」


 地下の部屋が、静かになった。

 石段の上で、足音がいくつも止まる。朝の仕事に来た蔵人たちが、上から部屋を覗き込んでいた。

 醸造長は、そっちを見もせずに続けた。


「先代に雇われてから四十年、この床で芽を出させた麦は、全部俺が釜に入れた」


 主が何か言いかけたが、醸造長は構わずに続けた。


「あの倉が湿気たのは、川が溢れた年に一度あったきりだ」


 醸造長の声は、少しも震えていなかった。


「その年だって、俺は夜通し麦を上の床へ運んで、一袋も駄目にしなかった」


 醸造長の手の中で、麦がさらさらと鳴った。


「酒を半分、裏の門から夜に出してたのは知ってる」


 主の顔から、さっと血の気が引いた。


「金のことは主の勝手だと思って、俺は黙ってた。だがな、腐らせたってのは、俺の仕事の話だ」


「手入れが行き届かねえだと?」


 醸造長は、石段の上の蔵人たちを顎で示した。


「上にいる連中は、毎朝俺と一緒に、この床で麦を返してるんだぞ」


 石段の上で、若い蔵人が一人、ぎゅっと拳を握った。

 前に来たとき、醸造長に叱られて袋の口を縛り直していた男だ。


「それを調査官の前で言われて、俺に黙ってろってのか」


 主は、いつもの笑い顔を作り直そうとして、うまくいかなかった。

 頬が引きつったまま、もう元の形に戻らない。石段の上の蔵人たちも、誰ひとり身じろぎしなかった。

 しばらくして、主は麦の袋の山に腰を落とした。

 膝の上で組んだ手を見下ろしたまま、小さな声で言う。


「……親父が死んだとき、あんた、俺に言ったよな。麦のことだけは俺に任せとけって」

「ああ。任されたから、言ってる」


 主は、それきり顔を上げなかった。


     *


 朝の光が石段の上から差し込むころ、主は、裏の門から出した樽の行き先を、一つずつしゃべった。

 中央通りの裏の酒場。西門の宿屋。川向こうの賭場。どれも、領収書をもらわずに酒を仕入れていた店だ。

 主のしゃべった五年分の樽の数は、麦と樽の数から俺が出した数と、三樽しか違わなかった。

 俺は、袋の山に座ったままの主の前に立った。


「裏の門から出ていった五年分の樽、きっちり頂戴します」


 主が、のろのろと顔を上げた。


「〆て、金貨千二百枚。腐らなかった麦の分です」


 主は目を閉じて、長い息を吐いた。

 それから、ほとんど聞き取れない声で、払う、と言った。

 少しして、もう一つだけ聞いてくる。


「……うちの酒を買ってた酒場は、どうなる」

「酒場は酒場で、領収書の無い仕入れを数え直します。あなたが心配することじゃありませんよ」


 主は力なく笑って、それきり黙った。


     *


 蔵を出て門へ向かう途中、ギンが俺の隣を歩きながら、ぽつりと言った。


「百二十枚」

「何がだ」

「一割です。さっきから、ずっと数えてましたよね」

「数えてねえよ」

「卸問屋の、倍ですよ」

「……倍だな」


 ギンは返事をしなかったが、肩が一度だけ小さく揺れた。

 俺は、頭の中で一割を勘定し直した。百二十枚。この茶色のコートなら、四十着は買える。買い替える気は無えが、買えると思うだけで悪くない。

 門のところまで来たとき、後ろから呼び止められた。

 振り返ると、醸造長が、落としたシャベルを拾い上げて、柄についた麦を手のひらで払っていた。


「調査官」

「何です」

「勘違いするなよ。主を売ったんじゃねえ」


 醸造長は、手の中の麦を、ぱらりと床に戻した。


「麦の名誉の話だ」


 それから醸造長は、蔵の奥の方を振り返った。


「あいつはな、子供の頃、この床で麦を返すのが好きだったんだ」

「主さんが、ですか」


 ギンが聞くと、醸造長はうなずいた。


「親父の後ろにくっついて、小さいシャベルでな。麦が芽を出すたびに、俺を呼びに来たもんだ」

「そうでしたか」

「……いつから、数ばっかり数えるようになっちまったのかね」


 それだけ言うと、醸造長は俺の返事を待たずに、蔵の中へ戻っていった。


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