第13話 麦と樽
醸造所は、北の川沿いにある。
石造りの大きな蔵が三つ並んでいて、煙突からは一日じゅう湯気が上がっている。秋の風に乗って、甘くて少し酸っぱい麦の匂いが、通りの向こうまで流れてきた。
署長に醸造所を当たれと言われたのは、三日前だ。
この街で一番大きな醸造所なら、隠しているものがあれば、額も大きい。卸問屋の六百枚どころか、千枚を超えるかもしれない。そう考えただけで、足取りが軽くなる。
門の前で、ギンが鼻をひくつかせた。
「いい匂いですね」
「酒の匂いだよ。お前、飲めるのか」
「飲めますけど、仕事中は飲みません」
「いい心がけだ」
出迎えたのは、醸造所の主だった。
五十がらみの、よく日に焼けた男だ。商人組合の顔役で、署長も年に一度はここの酒を王都への土産にしているらしい。
「おや、噂の調査官さんじゃないか。卸問屋の次は、うちの番かい」
主は、からからと笑った。
「どうぞ、何でも見てってくれ。うちは毎年、きちんと納めてるからな」
「ええ。ですから、見に来ました」
「ほう。きちんと納めてるのに、か」
「きちんと納めてる店ほど、よく見ると面白いもんですから」
主は一瞬だけ目を細めたが、すぐにまた笑った。
蔵の中を案内しながら、主は酒の話を延々とした。どこの麦を使っているか、どれだけ寝かせるか、王都のどの屋敷に納めているか。
「王都の財務院のお偉方も、うちの酒がお気に入りでね。署長さんが、毎年土産に持っていってくださるんだ」
「そりゃあ、ありがたい話ですね」
「だろう? うちの酒が、この街の顔みたいなもんさ」
主は、自分の言葉に満足そうにうなずいている。
ギンが、俺の袖を小さく引いた。何か言いたそうな顔だったが、俺は首を振っておいた。
蔵の奥では、樽がずらりと並んでいる。その間を、年寄りの男が一人、樽を一つずつ叩いて回っていた。腰の曲がった、白い髭の男だ。
「あれは、うちの醸造長だよ。先代の頃から四十年、うちの酒を造ってる」
主がそう言うと、年寄りはこっちを見もせずに、次の樽を叩いた。
樽の並びの端で、若い蔵人が麦の袋の口を開けたまま、別の仕事をしている。醸造長はそれに気づくと、杖のように持っていた木槌で、若い蔵人の尻を軽く叩いた。
「袋の口を開けっぱなしにするなと、何べん言わせる」
「す、すみません」
「麦は生き物だ。風に当てすぎりゃ拗ねるし、湿気を吸えば腐る。お前の寝床と同じに扱え」
若い蔵人は、慌てて袋の口を縛り直した。
醸造長はそれを見届けてから、また次の樽を叩きに戻っていく。
帰り際、主は木のジョッキに酒をなみなみと注いで、俺に差し出した。
「せっかく来たんだ。一杯やってってくれ」
俺は懐から銅貨を一枚出して、主の手に握らせた。
それから、ジョッキを受け取る。
「おいおい、金なんか要らねえよ」
「もらうと、贈り物になっちまいますんで」
一口飲むと、麦の甘さが舌の上に広がった。
うまい。悔しいくらいに、うまい酒だ。
*
「帳簿、見なかったですね」
醸造所を出たところで、ギンが言った。
「見たって、きれいなもんだろうよ。署長が土産にする店だぞ」
「じゃあ、どこを見るんですか」
「麦を売った奴と、樽を作った奴だ」
麦問屋は、中央通りの外れにある。
店先に麦の袋を山と積んだ店で、主人は袋を担ぎながら、愛想よく話してくれた。
「醸造所かい。あそこは毎年、秋に一番いい麦を一番に買っていくよ」
「どのくらいですか」
「荷車で、ざっと四十台分だな。うちの麦の半分は、あそこに行く」
「毎年ですか」
「毎年さ。ここ五年、一度も減ったことがねえ」
主人は、少し自慢そうに胸を張った。
「あそこの麦倉は、先代が高台に建て直したんだ。風通しがよくてな」
「へえ」
「うちの倉より、よっぽど麦の持ちがいいくらいさ」
「麦が腐ることは、ないんですか」
「あそこの醸造長がいるうちは、まずねえな。あの爺さんは、麦一粒にもうるさいんだ」
次に寄ったのは、西門の近くの樽職人の小屋だった。
樽職人はかんなをかけていた手を止めて、首をかしげた。
「醸造所の樽なら、毎年百二十は作ってるよ」
「百二十、ですか」
「あそこは景気がいいよ。毎年、新しいのをたっぷり頼んでくれる」
樽職人の小屋を出たところで、ギンが俺の顔を見た。
「何か、分かったんですか」
「醸造所が申告してる酒の量なら、麦は荷車二十台分で足りる。なのに、麦問屋は四十台分売ってる」
「倍、ですか」
「樽も同じだ。申告どおりの酒なら、新しい樽は年に六十で足りる。なのに、樽職人は百二十作ってる」
「どっちも、倍……」
「酒も倍、造ってるってことだ。そのうち半分が、どこかへ消えてる」
申告に載っていない半分の酒は、どこへ行ったのか。
帳簿に載らない酒の行き先は、たいてい決まっている。領収書をもらわずに酒を仕入れている酒場だ。
*
その前に、もう一軒寄った所がある。
北の川沿いで、荷車を何台も持っている荷車屋だ。春になると、醸造所の腐った麦を運んでいるという。
「ああ、醸造所の麦か。毎年、春に運んでるよ」
荷車屋の親父は、馬に水をやりながら言った。
「どこへ運ぶんですか」
「川下の、豚を飼ってる農家だ。腐った麦でも、豚は喜んで食うからな」
「袋の中は、見ましたか」
「見ちゃいねえよ。口は縛ってあるし、運ぶのが仕事だからな」
親父は桶を置いて、少し首をかしげた。
「ただ、妙に軽いんだよなあ、あの袋」
「軽い、ですか」
「腐った麦ってのは、水を吸って重くなるもんだろ。なのに、あそこのは毎年、からからに軽いんだ」
親父は首をかしげたまま、また馬に水をやり始めた。
帰り道、ギンが小声で言う。
「軽い麦って、何が入ってたんでしょうね」
「麦の殻か、藁か。少なくとも、酒にならなかった麦じゃねえな」
三日後、俺はもう一度醸造所を訪ねた。
主は、前と同じ笑顔で迎えてくれた。
「よう、また来たのかい」
「麦問屋さんと、樽職人さんに会ってきました」
主の笑顔が、少しだけ固くなった。
「麦は荷車で四十台分。新しい樽は年に百二十。どっちも、申告してる酒の倍ですね」
「ああ、そのことか」
主は、肩をすくめた。
「麦はな、毎年、仕入れの半分を腐らせて捨ててるんだよ」
「半分も、ですか」
「あの倉は川に近いだろう。秋の長雨のたびに湿気るんだ」
「なるほど」
「嘘だと思うなら、腐った麦を運ばせてる荷車屋に聞いてみな。毎年、春に取りに来てる」
「もう聞きました」
主の眉が、ぴくりと動いた。
「袋が、毎年からからに軽いそうですね」
「……何だと」
「腐った麦は、水を吸って重くなるもんだって、荷車屋の親父さんが首をかしげてましたよ」
「麦が腐りゃ、中身も減るさ」
「それと、麦問屋さんの話だと、こちらの麦倉は、先代が高台に建て直したそうで。川の近くじゃなく」
主は、すぐには答えなかった。
笑い顔は、まだ顔に貼りついている。けれど、その笑い方は、さっきよりずいぶん固い。
やがて、主の方から口を開いた。
「調査官さん。あんた、歩合の匂いがするな」
「そうですか」
「いくら欲しい」
冗談めかした声だった。
だが、目は笑っていない。
「全部です」
俺がそう言うと、主の笑いが止まった。
「全部、だと」
「腐らなかった麦の分を、全部です」
蔵の中が、しんと静まった。
樽を運んでいた蔵人たちが、足を止めてこっちを見ている。
隣で、ギンが小さく息をのむのが聞こえた。
主はしばらく俺をにらんでいたが、やがて鼻で笑って、蔵の奥へ歩いていった。
「腐ったもんは、腐ったんだ。好きなだけ調べるがいいさ」
主の背中を見送っていると、蔵の奥で、何かが目に入った。
樽の陰に、あの白い髭の醸造長が立っている。
主が「腐らせた」と言ったとき、醸造長は、ひどく苦いものでも噛んだような顔をしていた。




