第11話 正確な額
職人通りの坂の途中に、その革の店はある。
戸口の上に吊るした古い鞍が、夏の終わりの日に焼けて、飴色に光っていた。
ヘイジさんは、この暑さでも茶色のコートを脱がない。戸口の前で鞍を見上げて、ぼそっと言った。
「いい仕事だな」
「褒めてるんですか」
「褒めてるよ。いい仕事をする店は、売り上げを隠しても客が減らねえんだ」
あたしは、何と返していいか分からなかった。
この店に来たのは、ヘイジさんが川沿いの皮なめし屋で話を聞いてきたからだ。
なめし屋の親父は、坂の上の革職人が毎月どれだけ皮を買っていくかを、自慢そうに教えてくれた。あの爺さんはうちの一番いい皮しか使わねえんだ、と。
その皮で縫える鞍や靴の数に比べると、この店の申告は、三分の二くらいしかない。
戸を叩くと、十六か十七くらいの弟子が出てきた。
奥の作業台では、白い髪を後ろで縛った年寄りが、膝に載せた革に針を通している。
弟子は戸口に立ったまま、ちらちらと作業台の方を振り返っていた。
「おい、手が止まってるぞ」
年寄りが、顔も上げずに言った。
「客が来たら手を止めていいと、誰が言った。お前の腹帯は、まだ半分も縫えてねえだろうが」
「すみません、師匠」
弟子は慌てて作業台に戻ると、縫いかけの革を膝に載せた。
針を持つ手つきは、年寄りのそれとよく似ている。まだ少し、ぎこちないけれど。
「署の調査官です。商人税の調べに来ました」
ヘイジさんが名乗っても、革職人は針を止めなかった。
最後の一目を引き締めて、糸を切ってから、やっと顔を上げる。
「そろそろ来るころだと思ってたよ。なめし屋の倅が、調査官に何か聞かれたってこぼしてたからな」
革職人は、言い訳を一つもしなかった。
十年近く前、隣に馬具屋ができた。型で抜いた安い鞍が店先に並ぶようになって、この店への注文は目に見えて減ったそうだ。
「それからさ。売り上げの一部を、申告しないで取っておくようになったのは」
「何のためにですか」
あたしが聞くと、革職人は戸口に立ったままの弟子の方へ、顎をしゃくった。
「こいつの給金だよ」
弟子は、自分の靴の先に目を落とした。
「俺一人なら、注文が減っても食えたんだ」
「お弟子さんがいたから、ですか」
「こいつを途中で放り出したら、半端な腕のまま街に出ることになるだろう」
革職人は、弟子の方を見ないまま続けた。
「あと三年あれば、一人前にしてやれるはずだったんだがな」
革職人は立ち上がると、作業台の下から、口の欠けた古い壺を出してきた。
中には、銀貨と銅貨が少しだけ残っている。
「隠した分は、ここに入れてた。毎月、こいつの給金に回して、残りはこれだけだ」
ヘイジさんは壺の中を覗いて、そうか、とだけ言った。
隠し方まで正直な人だと、あたしは思った。
*
坂を下りかけたところで、後ろから足音が追いかけてきた。
振り返ると、さっきの弟子が息を切らして立っている。
「師匠は、牢に入れられるんですか」
「入らねえよ。決まった額を払えば、それで終わりだ」
ヘイジさんがそう言うと、弟子は少しだけ肩の力を抜いた。
でも、すぐにまた顔を曇らせる。
「その額って、いくらなんですか」
「これから数える」
弟子は、何か言いたそうにしていた。
けれど結局、頭を一つ下げて、坂を駆け上がっていった。
*
三日後、ヘイジさんとあたしは、もう一度坂を上った。
革職人は作業台の前で、弟子の縫い目を指でなぞって、一つずつ直させているところだった。
「額が出ました」
ヘイジさんが言うと、革職人は弟子の手元から目を上げた。
「いくらだい」
「五年分の、申告しなかった売り上げに、隠していた分の加算を乗せまして」
ヘイジさんは、いつもの口上を、いつもより少しだけゆっくり言った。
「〆て、金貨四十二枚です」
革職人は、しばらく黙っていた。
それから、作業台の上をぐるりと見回した。
「四十二枚か。ちょうど、この店一軒分だな」
弟子の手から、針が落ちた。
針は作業台の上で一度跳ねて、床の革くずの中に消えた。
*
「四十二枚……」
署に戻って、二階の窓際で、あたしはその額を口の中で繰り返した。
あの店の稼ぎで、四十二枚は払えない。店を売らなければ、とても無理だ。
「ヘイジさん。少しくらい、なんとかなりませんか」
「なんとかって、何だ」
「隠したのは、弟子さんの給金のためですよ。自分で使ったわけじゃないのに」
「知ってるよ」
ヘイジさんは、窓の外を見たまま言った。
「取りすぎないってのは、少なく取るって意味じゃねえ」
それ以上、ヘイジさんは何も言わなかった。
あたしも、それ以上は言えなかった。
*
革職人は、店を売った。
買ったのは、隣の馬具屋だった。型で抜いた鞍を並べている、あの店だ。
「俺の作業台が、あいつの店に残るんだとさ。皮肉なもんだよ」
革職人は、そう言って笑っていたらしい。坂の下の糸屋の親父が、窓口に来たついでに教えてくれた話だ。
弟子は南の街にいる兄弟子の店に移ることになって、革職人は坂の上の、嫁いだ娘の家に身を寄せるらしい。
店を明け渡す日、ヘイジさんとあたしは、四十二枚を受け取りに坂を上った。
空っぽになった店の中で、革職人は作業台の最後の革くずを、ほうきで掃き集めていた。
「よう、調査官さん」
革職人は、ほうきを壁に立てかけると、作業台の上に革袋を置いた。
「四十二枚だ。数えてくれ」
ヘイジさんは、黙って金貨を十枚ずつ積んでいった。
一つ目の山を積み終えたとき、戸口から弟子が駆け込んできた。手に、小さな布袋を握っている。
「これも、足しにしてください」
弟子は布袋を、作業台の上に置いた。
ほどけた口から、銀貨が何枚かこぼれる。
「師匠にもらった給金を、少しずつ取っておいたんです」
「馬鹿、しまっとけ」
革職人が言うより先に、ヘイジさんが布袋を弟子の方へ押し戻した。
「払うのは師匠だ。あんたの金は、受け取れねえよ」
「でも……」
「それは、あんたが向こうの店で、一人前になるまで食いつなぐ金だろ」
弟子は布袋を握りしめたまま、唇を噛んでいた。
ヘイジさんは、また金貨を積み始めた。最後の山を積み終えるまで、誰も何も言わなかった。
「確かに、四十二枚」
ヘイジさんがそう言うと、革職人は小さくうなずいた。
前掛けのポケットから、小さな財布を一つ出す。
「最後に縫ったやつだ。売れ残っちまってな。持ってってくれよ」
「受け取れません」
ヘイジさんは、すぐにそう言った。
「調べた相手から物をもらったら、それは贈り物になります。俺の方が、追徴される」
革職人はぽかんとした顔をして、それから、腹を抱えて笑い出した。
「堅いね、あんた」
「仕事ですから」
「街じゃ、一番強欲な調査官だって評判だぜ」
「半分は合ってますよ」
革職人は、財布を自分の前掛けのポケットに戻した。
「じゃあ、俺が使うか。入れる金は、もうあんまり無えけどな」
弟子は、笑わなかった。
坂の上から乗合馬車の鈴が聞こえてくると、革職人は弟子の背負い袋の口を、きゅっと締め直してやった。
「向こうで半端な仕事をしたら、兄弟子に遠慮なく殴ってもらえ」
弟子は師匠に深く頭を下げて、一度も振り返らずに坂を上っていった。
革職人は、その背中が見えなくなるまで、店の前に立っていた。
*
それからしばらく、ヘイジさんは南の地区から署へ戻るとき、職人通りの坂を通らなくなった。
川沿いの道を、ぐるっと回っていく。少し遠回りになるけれど、ヘイジさんは何も言わない。
あたしも、何も聞かなかった。
ただ、その道をいつもの半歩後ろについて歩いた。




