第10話 うなずいた男
夏の一番暑い日の昼過ぎだった。
二階の部屋は、窓を全部開けても風が入ってこない。ギンは隣の机で、窓口から持ってきた古い団扇を、ずっとぱたぱた動かしていた。
部屋の真ん中の机は、空いている。先輩は朝から臨場に出ていて、昼前に上機嫌で戻ってきたかと思えば、また出ていった。
「先輩、今日は機嫌がいいですね」
「どこかで、でかいのを取ってきたんだろ」
「でかいの、ですか。先輩が」
「先輩の言う、でかいのだよ」
ギンが団扇を止めて、少し考える顔をした。
そのとき、一階の窓口から、二階の床が震えるほどの怒鳴り声が上がってきた。
「隠したなんて、俺は一言も言ってねえ!」
ギンが先に立って、階段を駆け下りていく。
俺がコートを取って後から下りると、窓口の前に、両腕に古い火傷の跡がまだらに残った大男が立っていた。首から下げた革の前掛けが、汗で黒く光っている。
窓口係の爺さんは、机の端まで椅子ごと下がっていた。
「西門の外れの鍛冶屋さんです」
ギンが、俺の耳元で言った。
「先輩に、加算込みで金貨二十四枚を言い渡されたそうです。本人が売り上げを隠していたと認めた、って」
「認めてねえって言ってんだろうが!」
鍛冶屋の声は、窓口の端から端まで響いた。並んでいた客が、そろって一歩下がる。
階段の上から、指輪で手すりを叩く音がした。先輩が、面倒くさそうに下りてくるところだった。
「認めたさ。売り上げを隠してたんだろうって聞いたら、こいつは首を縦に振ったんだ」
「誰か、そばで聞いてた人はいるんですか」
「いるわけねえだろ。俺が一人で行ったんだからな」
先輩は窓口の脇に立つと、俺の方へ顎をしゃくってみせた。
「推計で取るなら、先に取引先を当たれって決まりができたろう」
「ええ」
「だがな、本人が認めてりゃ、取引先なんか回らなくていい。決まりどおりだ」
「決まりの抜け穴、の間違いじゃないですか」
ギンがぼそっと言うと、先輩は聞こえなかったふりをした。
決まりができてひと月もたたないうちに、先輩はもう抜け道を見つけてきたわけだ。こういうことにかけては、この署で先輩より早い奴はいない。
俺は鍛冶屋の横に回って、普通の声で聞いてみた。
「その日は、炉の前にいたんですか」
鍛冶屋は返事をしなかった。俺の口元を見てもいない。
肩を叩くと、ようやくこっちを向いて、怒鳴るように聞き返してきた。
「ああ? 何だって?」
四十年近く鉄を打っていれば、耳はそうなる。
前世でも、町工場の親父に横から話しかけて、何度も聞き流されたものだ。
そのとき、二階から署長が下りてきた。騒ぎが二階まで聞こえたらしい。
「何の騒ぎだ」
「先輩の追徴の件です、署長。ちょっと見ててもらえますか」
俺は鍛冶屋の正面に立って、先輩と同じくらいの、普通の声で聞いた。
「あんた、昨日は空を飛びましたか」
鍛冶屋は、俺の顔をじっと見た。
それから、こくりとうなずいた。
窓口の前に並んでいた客の中から、誰かがぷっと吹き出す。
「じゃあ、夕飯に石ころを食べましたか」
鍛冶屋は、またうなずいた。
今度は、ギンが横を向いて肩を震わせている。
俺はもう一度鍛冶屋の肩を叩いて、今度は耳のそばで、大きな声で聞いた。
「売り上げを、隠しましたか!」
「隠してねえ! さっきからそう言ってんだろうが!」
鍛冶屋の怒鳴り声が、窓口の天井まで響いた。
俺は先輩の方に向き直った。
「この人は、聞こえてない話には、とりあえずうなずくんですよ」
「何だと」
「炉の前で四十年も怒鳴り合ってきた人は、たいていそうです」
先輩の顔が、赤くなったり青くなったりしている。
「て、てめえ……」
「先輩が聞いたとき、この人は炉の前でしたか。それとも、静かな所でしたか」
「……炉の前だよ」
「でしょうね」
先輩は指輪の手を握りしめて、俺をにらみつけた。
「お前だって、口で聞いた話で人を叩いてきたんだろうが」
「俺は、裏も取らずに、口で聞いた話だけで取ったことは一回もねえよ」
先輩は言い返そうとして、指輪の手で机を叩きかけ、その手を途中で下ろした。
ギンが、黙って先輩を見ている。
ギンは、俺が素材屋の親父や食堂の女房の話を、どうやって確かめてきたのかを、全部そばで見てきた。だから、俺の言ったことが本当だと知っている顔だ。
署長が、大きく息を吐いた。
「二十四枚は取り消しだ。ヘイジ、取引先を当たって、やり直せ」
「分かりました」
「それから、お前」
署長は、先輩の方を見ないまま続けた。
「明日の朝、二階で話がある」
先輩の指輪の手が、手すりの上で白くなっていた。
*
その日の午後、俺とギンは、鍛冶屋の取引先を回った。
いちばんの得意先は、西門の馬車屋だ。
馬小屋の前では、若い馬が蹄を打ち直してもらうのを待っていた。
俺が近づくと、馬は鼻を鳴らして首を振る。ギンが一歩下がった。
「馬、苦手なのか」
「窓口には、馬は来ませんでしたから」
馬車屋の親方が、笑いながら小屋から出てきた。
「あそこの蹄鉄は、いい鉄だよ。耳は遠いが、腕は確かだ」
親方は馬の脚を持ち上げて、打ちつけた蹄鉄を見せてくれた。
「年にどのくらい買ってるんですか」
「うちの馬は二十頭だ。四つの脚に、ふた月にいっぺん打ち直す。数えりゃ分かるだろ」
「数えりゃ分かる、か」
「数えてみな。毎年、きっちり同じ数だけ頼んでるんだ」
親方は胸を張った。鍛冶屋が申告していた数と、ほとんど同じだった。
ほかの取引先も、似たようなものだ。数え直してみると、鍛冶屋が申告していなかった分は、ほんのわずかしかなかった。
夕方、署の窓口に鍛冶屋を呼んで、加算込みで金貨四枚だと伝えた。
鍛冶屋は、大きな手で顔をこすった。
「……四枚か」
聞こえていないのかと思って、耳のそばでもう一度言ってやる。
「四枚です!」
「聞こえてるよ!」
鍛冶屋は怒鳴り返してから、少しだけ笑った。
「坂の途中の小間物屋のおかみさんが、言ってたんだよ。署で困ったら、茶色のコートの調査官に言えってな」
「それで、窓口で怒鳴ったんですか」
「怒鳴ったら、あんたが下りてくると思ったんだ」
鍛冶屋は、焦げた前掛けを揺らして笑った。
ギンが、俺の顔をちらりと見る。俺は、気づかないふりをしておいた。
*
次の朝、署長は二階の部屋に調査官を全員集めた。
「臨場は、二人で行け。一人が聞いて、もう一人がそばで聞いておく」
署長は、先輩の方を見ないまま言った。
「一人で聞いた話だけで、人から金を取るな。今日から、署の決まりにする」
部屋の調査官たちが、ざわついた。
一人で回れば、一日に二軒は臨場できる。二人で組めば、そのぶん回れる数は減る。歩合で食っている連中にしてみれば、面白い話じゃない。
署長は、そのざわつきを手で押さえた。
「言った、言わないで窓口に怒鳴り込まれるたびに、署の名前に傷がつく」
署長は、部屋の真ん中の机をじろりと見た。
「傷がつけば、王都に聞こえる。わしは、そっちの方がよっぽど困るんだ」
署長の言う「困る」は、たぶん税収のことだ。
それでも、決まりは決まりだった。
それから署長は、去年入ったばかりの若い調査官を、先輩の隣に立たせた。
「お前は、今日からこいつと組め」
先輩は、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
若い調査官の方は、背筋をぴんと伸ばして、先輩の隣で神妙に立っていた。真面目なのだけが取り柄だと、窓口の爺さんが前に言っていた男だ。
部屋を出ていくとき、先輩は若い調査官に向かって、小声で何かぶつぶつ言った。
若い調査官は、真面目な顔で聞き返した。
「すみません。聞こえませんでした。もう一度お願いします」
先輩の指輪が、階段の手すりを、がちんと鳴らした。
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