過去の人生に名前をつける者
アキラは浴槽にお湯を張り終えた。
「よし……これでシーツを汚さずに済むわね。イオリも今回はまともだったし……でもケチなのよね」
膝をついて、手でお湯の温度を確かめた。
「在、準備できたわよ!」
ドアが開く音を聞き、彼女は背を向けたまま立ち上がり、棚を指差した。
「それが石鹸だってこと、わかるわよね。湯船に入る前に、まずシャワーで体を洗うの」
「時間の無駄だな」
彼女は肩をすくめた。
「そんな洗練されてない返事、予想はしてたわよ。今から人生を再発見することになるんだから」
振り返った瞬間、彼女の叫び声で部屋全体が震えた。
「ぎゃああああああ!! なんでシャツ脱いでるのよ、この獣!?」
「体を洗うためだが」
アキラの手はテイザー銃を探した。持っていなかった。彼女は猛スピードで浴室を飛び出し、ドアを叩きつけるように閉めた。
「その野蛮な礼儀作法丸出しで出てきたら、あんたを助けるものなんて何もないって誓うから」
閉まったドアを見つめながら、一度深く息を吸った。
「パパ、ママ……娘は頑張ってる。すごく」
ソファまで歩いていくと、そこに投げ捨てられたシャツを見て腹が立った。思わず蹴りを入れてしまった。
「あの中世人、危うく心臓が止まるところだった。礼儀のかけらもないリターナー、あいつだけよ」
自然とつながるために肌で風を感じる必要があると宣言していた、あの一人のことを思い出し、彼女の表情が変わった。
「まあ……在は変態じゃないから」
シャツを拾い上げ、在の他の服と一緒に、貸すつもりの部屋へ持っていった。
「しっかりして、アキラ! 二十歳にもなって、子供相手に緊張してどうするの。鍛えられた、たくましい体してるとしても……」
服をベッドに放り投げた。
「そう……別にどうでもいい。何も。迷い猫みたいなだけ。そう。それだけ」
突然、浴室から叫び声が聞こえた。彼女は駆け出し、ドアを開けると、シャワーの引き戸が開いていて、湯気の中に、お湯が熱すぎると文句を言っているらしい在の姿が見えた。すぐにまたドアを閉めた。
「猫が溺れても……謝っておくわ」
自分の部屋へ歩いていく途中、また文句が聞こえてつまずいた。
「……別に、そんなに不細工でもない猫」
ベッドに横になり、携帯でリターナーに関するニュースを調べ始めた。
「別の体で戻ってきた事例が、どこかにあるはずなんだけど」
再導入部隊のデータを調べていると、ケイコからのメッセージを見て嫌そうな顔をした。
「明日、月見さんのところ行くの忘れないでね、アキラ」
「あんたが連れてって。あの人がまた始まると耐えられないの」
アキラは奇跡を期待しながら携帯を見つめた。
「嫌よ」
「ケイコ……本気で手当て請求するから」
ベッドの横の台に携帯を置いた。
「明日はもう少し穏やかな一日でありますように……」
目を閉じている間に、時間はあっという間に過ぎた。物思いを破ったのは、浴室のドアが開く音だった。
(長くかかったわね。すっかり忘れてた)
ベッドから起き上がったが、部屋のドアを開ける前に立ち止まった。
「ちゃんと服着てるでしょうね!?」
「ズボンは穿いている。他に何もなかった」
(あ……そうだった。お風呂に服、置いてなかったわ)
まるで命がけの戦いに挑むかのように息を整え、ドアを開けた。
彼を見ると、髪はまだ少し濡れていた。腹も十分に拭かれていないのを見て、それが気に障ったのかどうか、自分でもわからなかった。
「体、ちゃんと拭けないの?」
「火も焚けずに、どうやって乾かせと言うんだ」
彼女は目を見開いた。ズボンだけの姿を見て、緊張していたことなどすっかり忘れていた。
「あんた……」
目をそらし、浴室に行ってタオルを持って戻ってきた。力いっぱいそれを投げつけると、背を向けたまま、自分の部屋の向かいのドアを指差した。
「そこに入って、それで拭いて、寝て。それ以外は何もしないで」
「何ができるって言うんだ」
「そこに入って、それで拭いて、寝て。それ以外は何もしないで」
「わかった」
在は部屋に入り、ドアを閉める前に、寝る場所を用意してくれたことに礼を言った。
「……別に、礼を言われるようなことじゃないから」
彼女はそのままベッドに向かい、あまりにも馬鹿げた一日を頭の中で三回ほど振り返ったあと、ようやく眠りに落ちた。
最初の光がブラインドの隙間から差し込み始めた。携帯のアラームが鳴り始めた。
シーツの中から手が伸び、携帯を引っ掴んだ。
五分後、また鳴った。さらに五分後、もう一度鳴った。
顔を出した時のアキラの表情は、まさに悪夢を見た人のそれだった。
文句を言いながら起き上がり、いつもの支度を始めた。髪をとかし、制服に着替え、鏡で自分を確認した。
「よし……時間ね」
時間が限られている中、堂々とした様子で部屋を出た。
「在、もう起きて!」
在は完全装備で部屋から出てきた。アキラの目には、あのコートが輝いて見えた。
「ギルドに行くのか?」
「ほんと嫌になる。そうよ、でもそれは……ある人に会う必要があるから」
「その人が、俺がギルドに入れるかどうかを決めるのか」
「そうだった……説明してなかったわね。境界学園に一ヶ月通ったあとなら、残接ギルドで働けるようになるの」
「学園?」
「あなたの世界には、学校ってなかったの?」
「貴族の子供のためだけのものならあったが」
「まあ……予想通りね。こっちでは、家族が地主だったり王族だったりする必要はないの。国が費用を出してるから」
「国?」
「こっちの言葉、読めるんでしょ?」
「昨日、読めることははっきりした」
「じゃあ、あとで本を渡すから」(全部説明するのは面倒すぎるもの)
アキラはドアまで歩き、開ける前に足を止めた。
「あんたの武器、全部どこにあるの?」
「他にどこにあると言うんだ」
「置いていって! 許可なしで武装したまま出歩けないの」
「死んでもごめんだ」
「いやいやいや。本気で言ってるの。警察として、膝まで武器だらけの狂人をその辺歩かせるわけにいかないのよ」
「再導入部隊の人間だろう」
(あのクソ動画のせいね)
アキラは彼を指差した。
「武器はここに置いていって」
「断る」
「ぐぬ……」
議論は10分間続いた。道を歩きながら、彼女は自分を疑うのではなく、負けたことを責めていた。
(武装したまま外に出させるなんて、信じられない。この子より、十徳ナイフの方が隠し道具少ないんじゃないの)
「誰も攻撃しない、何も見せないって約束したでしょ」
「向こうが攻撃してこない限りは、な」
「その返事の方が、まだましだけど」
「金を貰わなきゃやらないって言っただろう?」
「もう言わないで……」
道中ずっと、違法な武器を持っているように見えたのはアキラの方だった。
ギルドに着いた時には、彼女はマラソンでも走ったかのように息を切らしていた。
在は建物をじっくりと観察した。巨大な看板に「残接」と書かれていたが、そのすぐ上に、何かを剥がした跡が中途半端に残っていた。
「しあわせ寿司?」
「前はそういう名前の店だったの」
「ここはギルドじゃなかったのか」
アキラは目をそらした。
「まだできて二ヶ月なの……ここが……唯一手に入れられた場所で」
在は顔を上げた。
「重要な場所には見えないが」
(料理がひどすぎて潰れかけてた店だったこと、それに、この場所をもらう代わりに……今もあれを組合員に売り続けてることを、どう説明すればいいのよ)
「もう聞かないで。悲しい話だから」
中に入る前、アキラは彼の肩を掴んだ。
「誰かに何か言われても。何であろうと、無視して」
「向こうが何もしてこない限り、俺は……」
「無視するの」
中に入ると、在は笑みを浮かべた。カラフルなプラスチックの椅子が並んでいるのに、そこにいるのは武器や能力、モンスターを倒す話で盛り上がる者たちだった。
アキラの後をついていきながら、彼はギルドの組合員たちを観察した。武器の扱いに慣れていそうな男たち。笑いながら酒を飲む女たち。がさつで力強そうな女が、それよりさらに屈強な男と言い合っている。
アキラは受付の前で足を止めた。四角い眼鏡をかけた、真面目な佇まいの女性で、オレンジがかった髪をさりげなくまとめていた。
「アオキ……分類官は……いる?」
「アキラ、月見様はその呼び方、嫌がるって知ってるでしょ」
「月見様?」
「そう呼ばないといけないの。仕事中だから」
アキラは、下手に隠された瓶を指差した。
「それ、すごく助かるわね、アキラ」
「ギルドの自由さにつけ込んでるだけでしょ」
「何も言わないなら、一杯おごってあげてもいいけど」
「聖域にいるの、いないの?」
「いるわよ。それと、あんたが連れてきたリターナーのこと、もう読んでた」
「それで仕事が楽になるのか、それとも……」
「わかってるなら……なんで言うのよ」
「そうね。在、ついてきて」
アオキが微笑んだ。
「頑張って。戻ってきたら、その人の情報教えてね」
「飲んだあとで、ちゃんと書けるの?」
「得意分野よ」
息を吐き出すと、アキラは在を二階の奥のドアまで案内した。
「聞かれたことに嘘をつかないで」
「全部に答えるつもりはない」
「そう言うと思った。試してみればいいけど、あんまり意味ないと思うわよ」
アキラがドアを押し開けると、ギルドにプラスチックの椅子がある理由が明らかになった。
その部屋は二階のほとんどを占めていた。大きな窓がいくつもの鉢植えと、部屋を彩る小さな木を照らしていた。
天井から一筋の光が差し込み、ちょうど一人の女性が座っている場所へと注いでいた。
髪は淡いピンク色で、床に触れるほど長かった。身にまとう衣装は優雅、というより優雅すぎた。
目を閉じていてもなお、二人を見ているように感じられた。アキラが一歩、彼女に近づいた。
「月見さん、リターナーを分類しに連れてきました」
彼女は答えなかった。
「月見……様。評価していただくために、リターナーをお連れしました」
相変わらず、返事はなかった。
「……栞お姉様。残接のオラクルとしての、御導きを頂きに参りました」
彼女は立ち上がり、わざとらしいほど丁寧にドレスをなびかせた。
「アキラちゃん。こっちに来て」
その声は甘すぎるほど甘く、歌うようだった。在は栞を見て、それからアキラを見た。
「なんで寝たふりをしていたんだ」
「しっ……黙って、この獣。ここにいて」
アキラは小声でそう言うと、栞のところまで歩いていき、彼女の前に立った。
「こんにちは……栞お姉様」
月見はまだ目を開けていなかった。
「どうして会いに来てくれないの、アキラちゃん?」
「私……仕事で忙しくて」
「この前、公園でポテト食べながら笑ってるの見たわよ」
「あ……そう……あの日は早く仕事終わったから」
「ギルドから離れていくのを見た日もあったわね」
「あー……あの日はやり残したことを思い出して……」
(さっき嘘つくなって言ったばかりじゃなかったか?)
「アキラちゃん……」
月見は両腕を広げると、アキラを力いっぱい抱きしめた。
「来てくれないなんて、ずるい」
さっきまでの歌うような声は、もうどこにもなかった。
「あがっ……」
「会いたかったのよ、アキラちゃん」
「あぐっ……ごめん、ごめんって……死んじゃう」
月見はアキラを揺さぶり始めた。
「木に水あげてないでしょ」
「今からやるから、離して、今すぐやるから」
彼女は手を離し、一歩下がった。
「それと、もっと頻繁に来ないと」
「うん、うん、そうする」
「あと、食べてたあのポテト、持ってきてね」
「二つ持ってくる」
栞は目を開けて微笑んだ。
「よし……今すぐ持ってきてくれる?」
「分類が終わったらね」
彼女は口を尖らせた。
「私と同い年でしょ! 子供みたいに振る舞うのやめて」
「私は偉大なオラクルなの。ポテトくらい当然の権利よ」
「もう! 10分待ってて。在、そこで待ってて。動かないで」
栞は当然のようにドレスをなびかせながら、席に戻った。アキラは部屋を出て、10分後に戻ってきた。
ポテトを食べながら、アキラが木に水をやるのを眺めていた。
「昨日到着したリターナーって、この子?」
在は相変わらずドアのそばに立っていた。
「はい、栞お姉様」
「ぱりぱり。この子をどうするか、もう決まってるの?」
「ケイコが記録に十七歳って書いたから。境界学園に入ることになると思う」
月見の視線は、在を貫くようだった。
「慣れるのに苦労しそうね」
「なんでそう言うんだ」
……
彼女は彼を無視した。
「分類が終わるまで、この人はあんたに答えないから」
「そうか」
彼女はこの上なく落ち着いた様子で、ポテトを食べ続けた。
「アキラちゃん。もう説明した?」
「まだ……」
「この子が私の真視を受け入れないと、できないの」
「できるでしょ、やってるところ見たことあるもの」
「新しいルールなの」
「え? いつから? なんで?」
「そうしたいからよ」
「義務じゃなかったら、今すぐ帰ってるところよ」
アキラはじょうろを床に置き、在を振り返った。
「在……この人には、あんたが何者か見えるの」
「別にすごいことには聞こえないが」
「つまり……あんたのすべてが見えるってこと。昨日、あの動画見たでしょ」
「お前がよく覚えてなかったやつか」
「……そう、それ。他の世界についての説明、あったでしょ?」
「あった。よくわからなかったが。他のリターナーの話によれば、世界ごとにルールが違うということだけはわかった」
「それで、栞の能力っていうのが……」
「コホン、コホン」
「栞お姉様が持って帰ってきたオラクルの能力は、スキルやクラスを与えるものだったの。人の中の魔法を解放する。その世界では、それが数字のウィンドウに表示されてた」
「かなり変な世界に聞こえるが」
「その世界はそういう仕組みだったの。こっちでは、あんたがどれだけのものを持ち帰ったかを、この人が明らかにできる。その人生が、クラスとして表れるのよ」
「どれくらい強いか、みたいなことか」
「もっとわかりやすい例だと……もしあんたが、もう一つの人生で戦士だったとするでしょ。この人には、あんたがどんな戦士だったか、どれだけの力を持っていたか、どんな能力があったか、そしてそのうちどれくらいの割合があんたと一緒に戻ってきたか、それがわかるの」
「それは俺が言ったことと同じだが」
「違う……あんたが何者だったかと、どれだけがあんたと一緒に戻ってきたかは、別のことなの」
栞は最後のポテトを飲み込むと、ドレスをなびかせながら立ち上がり、両腕を広げた。
「簡単に言うとね。私は、人の潜在能力をすべて解放していたの。肉体も魔法の力も変えていた。だって、クラスを与えられるのは私だけだったから。生き方そのものをね」
優雅な足取りでアキラの方へと歩いていった。
「私たちの世界には、そんなルールはないの。ステータスウィンドウも数字もない。レベルも上がらない。私たちはゲームの中にいるわけじゃないから」
揺るぎない自信とともに、彼女は在のいる方へと手を伸ばした。彼は相変わらずドアのそばにいた。
「でも、残接の偉大なるオラクルがすることは、あんたがどんな人生と力を持っていたかを見て、それに綺麗な名前をつけるだけじゃないの」
その瞳が、まるで背後に炎があるかのように輝いた。
「それを取り戻す方法を、正確に教えてあげられる。手伝うことだってできるのよ」




